国境戦は、わずか一夜にて幕を下ろした。
 帝国の英雄率いる軍隊が、またたく間に王国軍を制圧したのだ。
 王国が突きつけられた講和の条件は、ただ一つ。講和の証として第一王女、エルシャを差し出すことだった──。

「到着しました」

 馬車の外から男声が聞こえ、体が跳ねた。
 心臓は早鐘を鳴らし、血の流速が速まる。

 ──人生の終章が始まる。

 エルシャはひとつ深呼吸をして、帝国の地に降り立った。厳しい北風が吹き荒び、思わず襟巻きに顔を埋めた。天候にすら拒絶されたような気がしてならない。

 仮にも王女である自分を迎えたのは、帝国の王族でもましてや貴族でもなく、鎧をまとった屈強な兵士たちだけだった。
 みな緊張した面持ちで、こちらを見つめてくる。

「ようこそエルシャ姫。エアハード大公殿下ですが──」

「結構ですわ。お手を煩わせたくありませんもの」

 エルシャは言下に断り、笑みを作った。
 初めから期待はしていなかった。
 互いに被害者なのだし、逃げたくなる気持ちは分かる。

(あの場で殺せばよかったと、大公殿下も今頃後悔しているでしょうね)

 国境戦はわずか一夜で終結した。
 帝国の英雄アロイス・エアハード大公が率いる帝国軍の進軍で、王城が一気に攻め落とされたのだ。

 その時、エルシャはアロイスと相対した。
 城に連行した帝国軍の兵士を手当てしていたその現場に、彼は現れたのだ。
 まさか彼と婚姻することになるなんて、思いもしなかった。

 雪の礫に頬を叩かれて、眦に涙が浮かぶ。
 まるで捕虜のように兵士たちに囲まれながら、エルシャは式場へ向かった。


 ◇◇◇


 会場のざわめきが遠く聞こえる。
 静寂が落ちる広やかな控え室は、孤独感を一層強めた。

 エルシャはそっと姿見に手を触れた。
 憂い気漂う花嫁に豪華なドレスは似つかわしくなく、滑稽に見えてくる。
 そしてグローブの皺を正していると、扉が叩かれた。

「入場のお時間です」
 
 そう言われ、花束をかたく握り締める。
 参加者たちの熱視線を浴びながら、エルシャはバージンロードを進んだ。わずか数mの距離が、地平線まで伸びていくような途方もない距離に思える。

「見ろよ──あの──」

「──どうして──王女」

「帝国の英雄が──」

 参列席から、小さな密語が聞こえてくる。
 視線を上げられなかった。けれどその時、

「──アロイスさまの好みじゃないわ」

 明確に聞こえ、反射的にエルシャは顔を上げた。
 声の主は探すまでもなかった。バージンロード沿いの席に立つ、純白の、華美なドレスをまとう女性が、こちらを睨視している。

 ヴェールの中で顔を伏せ、エルシャは真っ直ぐ前へと進んだ。
 祭壇の前に立ち、神父の顔を見据える。

「──それでは誓いのキスを」

 エルシャの肩が小さく跳ねた。
 いつの間に誓いの言葉を交わしただろうか。よく覚えていない。

 視線を感じ、エルシャは隣へ向き直った。
 静かにヴェールが上げられる。世界の色がやけに濃く感じて、エルシャは目を薄めた。

「エルシャ姫」

 頭上から、艶のある低い声が降ってくる。
 黄金を溶かし入れたような金髪と青い瞳をした美丈夫──アロイス・エアハードが、こちらを見下ろす。

 盛装の彼は戦士より"物語の王子さま"という印象で。この容姿ならば、女を鈴なりにして歩いているという話も、あながち嘘ではないだろう。

 そんなことを思うエルシャの頬にアロイスの手が触れようとし──寸前で下ろされた。
 唇を引き結び、鋭い眼差しを向けてくる。

「……触れても?」

「どうぞ」

 エルシャに許可されるなり、アロイスは眉根を寄せ、かたく唇を結んだ。そして一瞬、ぶつかるようなキスをする。
 「っ」突然の痛みに息を詰めると、アロイスも同じく渋面を作っていた。

(わたし相手では、まともなキスも出来ないという意思表示ね……)

 ──いいでしょう。そちらがその気なら、こちらも好きにさせてもらう。
 この時、エルシャの内に潜む期待は完全に潰え、何かが弾けたのだった。


 ◇◇◇


 "アロイス・エアハードは女誑しである"。
 自分の美貌を蜜にして、美しい蝶を惑わせる。とりわけ婀娜な女性を好み、彼女たちと後腐れなく遊ぶらしい。
 それが、アロイスとの婚姻が決定してから仄聞した噂話だ。
 
 自分はどうだろうか。
 大きな天蓋付きのベッドに腰を下ろし、エルシャはガウンの襟をそっとめくった。
 自分の体を観察し、『アロイスさまの好みじゃないわ』昼間投げられた言葉を頭の中で反芻する。

(きっと、あの令嬢も閣下と関係を持ったのね)

 ウェディングドレスに似たドレスから、今にもこぼれ落ちそうな乳房をしていたから。
 自分とは似ても似つかない。が、そんなことはどうでもいい。

 彼の下半身が奔放であるのと同じくらい、自分も自由に過ごしてやる。
 そのために大公妃として、為すべきことをするまでだ。まず最初の仕事は、

 ──初夜である。

 その時、ノックもなく扉が開かれた。
 
 振り向いたエルシャは息を詰めた。
 アロイスが部屋の中へ入ってくる。湯殿から直行して来たのか、彼は全身に薄い湯煙をまとっていた。

「起きていましたか」

 アロイスはエルシャの前を通り過ぎ、ナイトテーブルの水差しに手を伸ばした。喉仏を大きく上下させ、水を一気にあおる。
 エルシャはそれを流し見て、
 
「……まだ、果たすべき務めが残っていますので」

 声に険を滲ませ、ぽつりと言った。
 「げほ!」アロイスは激しく咽せ、耳まで赤くなった。難しい顔で振り向き、こちらへにじり寄ってくる。そして、固くこぶしを握って口を開く。

 ──さあ来い! エルシャは奥噛みした。

「誤解がないよう、初めに言っておきます。わたしはあなたを愛──」

「わたしも愛するつもりはありません」

 余計な軋轢が生じるのを回避するため、言下に宣言した。これで、この張りぼての夫婦生活もひとまず平穏に続けられるはずだ。

 しかしアロイスに笑顔はない。

「えっと……」

 と、繰り返しこぼすだけだ。
 アーモンド形の目を丸く見開き、こぶしは弛緩していた。肩透かしを喰らい、反応に窮している様子だ。

("自分に惚れて当然"とでも思った? わたしは身持ちがかたい人が好きなの)

「さあ、とっとと始めましょう。お手間は取らせませんわ」

「──っえ」

 エルシャは勢いをつけ、アロイスの腕を引いた。そのまま導くようにして、ベッドの上へ押し倒す。
 乱れた敷布に絡まるような形でアロイスは仰臥した。

「エルシャ姫、ま……待って! その、わたしは……っ」

 窓から差し込んだ月明かりが、湯上がりで上気した彼の顔を、くっきりと照らし出す。
 同時に、昼間の令嬢の顔がエルシャの頭をよぎった。

(わたしだって……できる!)
 
 アロイスへ視線を落とすと、彼は眦を真っ赤に充血させていた。
 熱を帯びた、濡れた眼差しを向けられると、エルシャの胸は締め付けられる。

「お嫌でしょうが我慢してください。これは夫婦の義務で……」

 "義務"という言葉をあくまで強調する。
 するとアロイスはエルシャの腰に腕を回し、仰向けの体を起こした。

「義務だなんて、わたしを苦しめないでください」

 月光をまとったエルシャの銀髪が、アロイスの顔へさらりと落ちる。
 夜闇に浮かぶ青い瞳は、溺れそうなほど深い。
 エルシャがアロイスの頬に触れると、彼は上目を使い「もっと」とばかりに擦り寄せた。

 心臓が跳ね、エルシャは彼の肩を押し戻そうとした。しかし後ろ頭に手を添えられ、退路を断たれる。 
 彼は、わずかに震えていた。こちらを窺う瞳は不安に揺れている。そこに″帝国の英雄″の影は微塵もない。
 エルシャは生唾を飲む。そしてそろそろと顔を落としていき、

(義務、だからね)

 逃げ口上を使って、アロイスと唇を重ねた。誓いのキスより柔らかく、熱かった。
 その瞬間、エルシャの視界が反転し、背中がベッドに迎えられた。

 敷布に縫い止められ、正面から彼に見下ろされる。黄金を溶かし入れたような艶やかな金髪は、月明かりに透け光輝を放った。長いまつ毛が烟る寒色の瞳は、しかし熱情を孕んでいる。
 
「綺麗だ。エルシャ……」

 アロイスは壊れ物を扱うようにして、そっとエルシャに触れた。
 艶然とした声音と衣擦れの音が、静寂の部屋に響く。
 やがて二人は甘く溶け合い、長い夜は静かに過ぎていった。


 ◇◇◇


 ふと目を覚ますと、窓から光が差していた。故郷のあたたかで眩い朝日とは似つかない、薄明である。

 エルシャは寝返りを打ち、顔を苦悶に歪めた。
 かつてない腰痛だ。

 隣にアロイスの姿はなかった。初夜を終えて自室に戻ったのだろう。乱れた敷布だけが、昨日の出来事を物語っている。
 途端に肌寒さを覚え、空虚感に襲われた。

(最初から分かっていたことじゃない)

 差し当たっての問題は解決した。
 これからは、どう生きればいいだろうか。
 娯楽もなく、目的もない。まるで大海原を漂流するような気分である。

 エルシャは途方に暮れた──その時。
 扉が唐突に開き、アロイスが入って来た。

「朝食を持って来ました」

 銀のトレイをナイトテーブルに置くアロイスの結婚指輪の近くに、薄い傷があった。
 昨夜、エルシャが掻きむしった時にできたものだ。
 ──それなのに、彼はその傷を隠そうともせず、むしろ嬉しそうにしている。

「それは昨日の……?」

 思わず訊ねると、アロイスは少し照れたように笑った。そして、ベッドの端に乗り上げ、唇を啄んでくる。

 エルシャはまつ毛を瞬かせた。
 アロイスの青い瞳に、困惑した自分の顔が映し出される。
 ──どういうこと?
 エルシャは狼狽し、近寄せてくる唇を防いだ。

「あの、閣下。こんな事をされなくても、わたしは……」

「アロイス」

「はい?」

「アロイスと呼んでください、エルシャ。わたしたちは夫婦じゃないですか」

 そう言うと、アロイスは、滑るような動きでエルシャの肩にガウンをかけた。そして首を傾げ、労りの眼差しを向けてくる。

「体は辛くありませんか?」

「え、ええ。絶好調ですわ」

 エルシャは咄嗟に大嘘をついた。
 腰痛がひどくて、すこぶる不調だ。
 けれど今は、自分の体より、アロイスの頭の方が心配だ。

 熱っぽい潤んだ瞳と上気した頬。まるで恋する乙女のような彼の様相に不審を抱き、エルシャは眉を寄せた。

 頭をぶつけたか? あるいは、望まない相手と初夜を過ごしたせいで、気がふれたのだろうか? 

 身構えるエルシャをよそに、アロイスはパンにジャムを塗る。そして小さな口へと運んで、花開くように微笑んだ。

 エルシャは咀嚼すると、その馴染み深い味にふと思い至る。それは、エルシャが好んで食べていたジャムの味わいだった。
 
「王国からトリプルベリーを取り寄せました。まだ試作の段階ですが、必ず、故郷の味を再現してみせます」

「……まさか、わたしのために?」

 パンを嚥下し、小さく問う。
 敵国の王女のために、そんなに面倒なことをするわけがない。そう思いつつ、訊かずにはいられなかった。

「強いて言えば自分のためです。エルシャと同じものを口にしたいので」

 節くれ立つ男の指が、エルシャの唇を優しくなぞる。こちらが目を丸くすれば、彼は白い歯をこぼした。

(美しい顔に騙されてはダメ、これは政略結婚よ。打算的な何かがあるのかもしれない……)

「望みは何ですか?」

 王女である自分を通して内々に、領土権を交渉してくるのかもしれない。
 相手はウブな王女だ。一度体を重ねれば心をも許すだろう。そんな、色男の算段に違いない。 
 エルシャは眼光鋭くアロイスを射竦める。
 
「ひとつだけ……」

 アロイスは視線を絡めると口を開きかけ、一瞬、飲み込んだ。そして深く息を吸い込み、肩をそびやかす。

「わたしは、エルシャに愛してもらえるように手を尽くします。何でもします。それを許してほしいです」

「……え?」

「めっ、迷惑なのは承知です! 色恋の経験が皆無で加減が分からないので、先に断っておこうと……それなのに昨日は欲をぶつけてしまって……猛省しています」

 アロイスは顔を朱に染め、叱られた犬のように項垂れた。
 エルシャは頭を抱える。
 
「ちょ、ちょっと待って。経験がないってあなたが? まったく?」

「そう……ですが」

 そう言って不思議そうに、アロイスは首を傾げた。

(だって、あの噂は?)
 
 エルシャはぎこちない動作で、アロイスへと顔を向けた。
 ……嘘をついてるようには見えない。
 青く澄んだ瞳は、自分だけを映している。
 
「あなた女誑しではないの?」

 単刀直入に聞いてみた。
 アロイスの表情が途端に失せ、わなわなと震え始める。

「まさか王国にまでそんな噂が?」

「ちがうの?」

「ちがいます!」

 アロイスは首まで真っ赤になって主張した。
 怒気を含む声に圧倒され、エルシャの肩が跳ねる。そして関節が白く浮いた彼の握りこぶしに、そっと手を重ねた。
 アロイスは眉尻を垂れ下げる。

「誓ってエルシャだけです。これまでも、これからも」

(これは演技? だって、この人──アロイスがわたしを好きになる要素なんてあったかしら……)

 エルシャはアロイスへ疑いを向ける。
 けれど涼やかな青い虹彩に反し、眼差しは熱くて。つられるように、自分の心に火が点るのを感じた。
 ──その時、扉が叩かれた。

「入れ」

 アロイスはすかさず言った。
 まるで待ちわびていたような反射速度だ。
 扉はぎこちなく、音を立てて開かれる。
 そして現れたのは、

「エルシャ殿下!」

 王国で身の回りの世話を任せていた、馴染みの侍女だった。

「あなたどうしてここにっ……痛っ!」

 ベッドを抜けようとしたが、腰の激痛で断念する。代わりに侍女が駆け寄ってきて、エルシャを抱き締めた。

 ほんの数週間ぶりの再会だというのに、二人は長い年月を埋めるような、熱い抱擁を交わした。
 エルシャは瞳の奥に涙の気配を感じた。
 自分が思うより、現実は遥かに心細かったのだ。

 アロイスはエルシャの手背へ、そっとキスを落とす。そしてやおら立ち上がり、
 
「ゆっくり休んでください。夜はわたしの我慢がきくか、自信がないので」

 そう言って微苦笑し、部屋を出て行った。
 足音が徐々に遠のいて行く。
 エルシャは侍女に訊いた。
 
「どうやってここへ来たの? 国境は検問が厳しいでしょう?」

「大公殿下が迎えてくださったのです。おひとりだとエルシャ殿下が心細いだろうからと。護衛騎士も一緒ですよ」

「まさか……。終戦したとはいえ、わたしたちは敵国の人間なのよ? スパイを受け入れるようなものじゃない」

「わたしも不思議に思いました。でもエルシャ殿下をご覧になる大公さまを見て、合点がいきましたよ。ふふっ」

 侍女は顔を輝かせた。そして夜の舞踏会に向け、本人以上に張り切り、身支度の準備をしてくれたのだった。


 ◇◇◇


 紺色の天鵞絨に輝く金と銀の精緻な刺繍。揃いで誂えた衣装をまとい、エルシャとアロイスは舞踏会へ参加した。

 敗戦国の王女など人質のようなものだ。
 舞踏会など、単身で敵地に乗り込むようなものである。そう思い、エルシャは朝から気を張っていた。
 だが自分を迎えたのは、敵国の王女へ向ける白眼視ではなく、温かな眼差しだった。

「妃殿下のおかげで主人が生還しました」

「息子をお救いくださり、ありがとうございます」

 会場へ入るなり、華やかな帝国貴族たちが自分のもとへ、どっと押し寄せた。
 意想外の展開に身を固くすると、アロイスが耳元で囁く。

「皆、エルシャに会える日を心待ちにしていたんですよ。敵兵の帝国民を手当てしてくれたあなたに、心から感謝しているんです」

「……わたしに……?」

 兵士たちの声だけでは、自分のした事がここまで周知されることはなかっただろう。当然、歓迎されることもなかったはず。こうして場を温めてくれたのは、十中八九アロイスだ。

(わたしが一人にならないように、安心して暮らせるように、気遣ってくださったのね……)

 エルシャはアロイスと目を交わした。
 前髪を上げ盛装した彼は美術品のように目に映る。穏やかな微笑を向けられると、鼓動が耳に響いた。

「少し外の空気を吸ってきますわ」

「わたしは飲み物を持ってきます。すぐに向かいますね」

 アロイスの言葉に頷いて、エルシャは、熱った顔を冷ましにバルコニーへ行った。

 テラス窓と分厚いカーテンを隔て、音楽の調べや人々の喧騒がうっすらと聞こえる。

 冬の月光をまとった粉雪が、微細な輝きを放ちながら舞っていた。この景色を美しいと感じる日が来るなんて、輿入れ前は想像もできなかった。
 夜空に手を差し伸べれば、自分の瞳と同じ紺色のグローブが雪をまとう。
 その時、背後から声をかけられた。

「気を引こうとしても無駄ですわ」

 振り向けば、結婚式でこちらを睨視していた令嬢がいた。
 彼女は、青色のドレスに金糸の刺繍を誂えた華美なドレスに身を包んでいる。明らかに、アロイスを意識した色合いだ。

「……どなたかしら?」
 
 エルシャはそう言うと腕を組み、拒否感を示した。
 二人の間を強い寒風が吹き抜ける。
 令嬢は一歩前へ詰め寄り、鼻先で笑った。
 
「帝国の英雄が敵国の王女なんかを愛するとお思い? 今はただあなたに同情しているだけ。それに彼は、わたしの手管にどっぷりなの。ふふっ、あははっ!」

 高らかに笑った令嬢は、豊満な胸を突き出した。
 際どいデザインのドレスから今にもまろび出そうなボリュームに、エルシャは目を剥いた。冬の寒空の下で、その素肌は粟立っていた。体を張った彼女の主張に底知れない意地を感じ、エルシャは妙に同情した。そして、

「そのような格好をして。風邪を引きますわよ」

 つま先立ちになり、身につけていたストールを、自分より長躯な彼女の肩へかけた。胸の前で優しく結び「これでよし」と鼻を鳴らした。
 令嬢は、自分より年少のエルシャに慈悲を施され、顔から火を吹いた。

「バカにしないで!」

 怒声をあげて、エルシャの手を振り払う。ちょうどその時、テラス窓が開け放たれた。
 
 カーテンが風で舞い上がる。その隙間から現れた剣先が、令嬢の首筋を素早く捕らえた。

 銀色のマントがエルシャの前で翻る。
 同時に腰に腕が回されて、アロイスの体温と甘い香りに包まれた。緊張と寒さで強張っていた体が、ゆるりと弛緩する。

「わたしの妻に何をする」

 アロイスがそう言い放った瞬間、空気が震えた。
 そっと彼を仰げば、その険しい顔には見覚えがあった。
 ──国境戦で相対した時に見せた、英雄の顔だ。そんな彼が今、敵国出身の自分のために、剣を振るおうとしてくれている。それだけで十分だ。
 エルシャはそっとアロイスの胸に手を当てる。

「もう十分ですわ。帰りましょう、アロイス」

「エルシャはわたしを喜ばせるのが上手ですね」

 アロイスはうっそりと笑って囁いた。剣をおさめ横抱きしたエルシャの小さな頭に、頬を擦り寄せた。そして踵を返し、
 
「貴様は妄想が氷となって砕けるまで、永遠にそうしていろ」

 令嬢を一瞥して、会場を抜けて行った。


 ◇◇◇
 

 暖炉の火が爆ぜる音が、静寂の部屋で響き渡る。
 夫婦の熱い吐息が室温を上げ、乱れた敷布に夜の名残が滲んでいた。

 エルシャが自分の腕の中にいる。長く焦がれてきた渇きが満たされるのを、アロイスは肌で感じた。そして今に至るまでの道のりを、ふと思い出す。

 敵国の王女、戦場の女神──。彼女を知ったのは、国境戦で城を攻め落とした時だ。
 捕虜となった帝国兵の解放へ向かった先に、エルシャはいた。汚れを知らない白雪の肌を血で濡らしながら、彼女は兵士を手当てしていたのだ。

(銀髪と紺色の瞳をした美しい女……第一王女のエルシャといったか?)

 剣を向けて近づいて行くと、エルシャは逡巡なく跪いた。

「……何のつもりだ」

「じきに我が国は降伏するでしょう。ですから、もう剣をおさめていただけませんか?」

 王族が惨めたらしく命乞いをするとは。そう思ったが、しかしすぐに気がついた。
 澄み渡る眼差しは、痛ましいほど無欲だった。死を目の前にしてもなお乱されない、高潔さと矜持。それが、ひどく眩しかった。

「なぜ帝国兵を助けたのですか?」

「誰にも傷ついてほしくないだけです。あなたが帝国のために剣を振るうのと同じですわ」

 死の淵を覗き込むような状況下で、自分よりも国民や敵兵の命を尊重する美しい王女。
 彼女の真っ直ぐな瞳に魅了され、同時に、自己犠牲を厭わない彼女を、自分が守りたいと思った。
 
 ──迷いはなかった。
 
 帰国後、皇帝からの褒賞を謝絶し、エルシャを望んだ。
 もしエルシャとの婚姻が叶わないのであれば、王国に寝返るとまで言った。帝国の武力はエアハード家に依存しているため、皇帝に拒否権はなかった。
 要は脅迫したのだ。すべてはエルシャを手に入れるために──。

「永遠にわたしのものだ。エルシャ姫」

 月光を宿す銀髪を指先で櫛けずる。そして寝息を立てるエルシャの額にそっと口付け、アロイスは眠りにつくのだった。



(了)