窓の向こうの景色を見ながら、展望台内をゆっくり回っていくと、少しずつ胸のざわざわも落ち着いてくる。
きっと、こんな景色の中に来て、興奮したんだな。そうに違いねぇ。
西側は人で賑わう中、東側は人もまばらで、静かで薄暗い空間が広がっていた。
そこに佇む、見慣れた背中。
「マキさん」
「ああ、伊織」
それ以上は特に何も言わずに、マキさんの隣に並ぶ。
たまにマキさんの部屋で二人で映画を観る時は、いつもこんな風にマキさんの隣に座るから、その時と同じ感じだ。
今日は立ったままだけどな。
マキさんからほのかに香るタバコの匂いが、不思議と心を落ち着けてくれる。
「マキさんは夕陽、見なくていいんですか」
「んー?」
東側の街並みの中には、電車の線路が何本も見える。俺たちが降りた天王寺駅に、束のように線路がまとまり、そこから、街の間を縫って、緩やかな曲線を描いて、それぞれの方向へ伸びていく。
都会だな。
「伊織はいいの?」
「もう、いいです」
今は静かで薄暗いこっちの方が心地いい。
マキさんがいつものように俺の顎下を撫でる。
それから、ゆるく微笑んで、また窓の外に視線を戻した。
マキさんの側では、不思議と時間がゆっくり流れる。
はぁ…、落ち着くわ。
「何見てるんですか」
「電車、かな」
マキさんの呟きのような声を受けて、俺も地上を走る電車を、いくつか目で拾う。
すると、マキさんは俺の背後に回り、後ろから覆うように、俺の手を取った。
左手は、手すりを持つ俺の手の横に置かれて、右手はマキさんにゆっくりと持ち上げられる。
「見て、伊織」
柔らかな低音が、俺の視線を指先に誘導する。
俺の指は、マキさんにされるがまま、ガラスの向こうを指し示した。
そこには電車はなくて、線路だけがある。
「こうやって、街中を抜けて…」
宝石箱の中のようにキラキラと輝く街中。
その真ん中を通る、冷たそうな線路。
マキさんと辿る指先は、徐々に実際に敷かれているレールから大きく外れていく。
「山も越えて…、」
暗く聳え立つ山々の合間を縫って、指先がなぞっていく先には、もう何もない。
ただただ真っ暗な空の果てに、俺とマキさんの指先だけが取り残された。
「…誰もいない場所に」
耳元に響く、優しい掠れ声がくすぐったい。
マキさんに染みついた微かな煙たさが、俺の体にもじんわり移っていく。
「マキさん、くすぐったい、です」
小さく身じろぎしながら、訴える。
マキさんは、返事の代わりに俺の手を解放して頭を撫でた。
「伊織、」
「何ですか」
「俺と、どっかいかない?」
「え?」
遠くを見つめ瞬きをするマキさんの横顔は、どこかアンニュイ。
視線の先が何を見つめているか、全く分からねぇ。
「どっか、って?」
「…」
いつもと同じ、全てを包み込むような優しい微笑みを俺に向ける。
掴み所のない怪しさを纏う瞼が、俺を試すように伏せられた。
「誰も知らない場所」
マキさんの目の奥に、深海に揺蕩う光のような、鈍い色が揺らめくのを見た。
背中にゾクっと寒気が走った。
「…マキさん、映画の見過ぎですよ」
「ははっ、そうだね」
まつ毛を伏せ、片頬のえくぼを凹ませて笑うマキさん。
いつものようにふわりと笑ったマキさんに、さっきまでの怪しさは無くなっていた。
マキさんは一つ息をついてから、俺の腕に手を添えてそっと引き寄せた。
「伊織、貰ってほしいものがあるんだけど、受け取ってくれる?」
「貰ってほしいもの?」
「うん。さっき見つけて、伊織の首にかけたいなって思ったんだよね」
そう言ったマキさんの手には、細身のシルバーのネックレス。
つまり俺にプレゼントしてくれようとしてるってことだよな?
流石にちょっと恐縮する。
「いや、そんな…、悪いですよ」
「俺があげたいだけ」
「でも…、」
遠慮を続けると、マキさんは俺が嫌がっていると思ったのか、眉を上げて「そっか」と引き下がった。
微笑んだマキさんは、優しいトーンで「ごめんね」と俺に謝り、逆に俺の方が悪いことをしているような気分になってしまう。
「あ、えっと…、アクセサリーとか全然着けないんで…、貰っても使い熟せる気がしねぇって言うか……。マキさんは悪くないんで、全然、謝らないでください」
不器用に言葉を繋げて気持ちを伝えると、マキさんは目を細めて嬉しそうに微笑んだ。
そして、俺の首に指先で触れる。
「それなら、今だけでもいいよ」
「え?」
「今だけ。俺に着けさせて」
「……」
そこまで言うのならと頷くと、マキさんの腕が俺の両耳の横をすり抜け、首の後ろに回った。
首にひやりとした感覚。
またもやされるがままでいると、ほとんどマキさんに抱きしめられるような格好で、マキさんの胸元に鼻先を埋められる。
マキさんの胸元の温もりと、タバコの匂いに混ざる、温かくも重みのあるウッド系の香りを感じる。
「マキ、さん…」
「…」
「マキさん…?」
そろそろつけ終わった頃かと思ったけど、なかなか解放されねぇ。
それどころか、マキさんが更に近づいて、肩に重みを感じる。頭も、なんか重い。マキさんの顔が当たっている気がする。
そんな手こずってんのか?
「あの、自分でやりますよ」
「んー、あと少し」
肩と頭の重みが消え、マキさんの指先が、ネックレスを整えるように、俺の首の裏から表へ、ゆっくり流れていった。
「っ、」
くすぐったさに小さく声が漏れる。
するとマキさんは手を止めて、頭に柔らかい何かが当たった。
「できた。似合ってるよ、伊織」
「…ありがとうございます」
俺から離れたマキさんは、またいつものようにゆるく微笑む。
「やっぱり、貰ってくれない?」
「はい…。でも俺、なんかお礼しねぇと…」
「要らないよ」
静かに首を傾げ、俺を見つめるマキさん。耳から落ちた髪が、マキさんの頬にかかる。
「もらってくれて、ありがとう」
「いえ…」
ガラスの向こうには、一足早く夜が訪れていた。
静かに、時間が流れていく。
この人のペースには敵わねぇ。
でも、この人に流されるのは心地いい。
マキさんの纏うタバコの香りが、重く腹に落ちた。


