金曜日。
俺の初授業は、散々だった。
「──では、今日の反省を踏まえて、次の授業までに、頑張って準備してきてくださいね」
「……はい。」
「それと、睦月先生。何か、気がかりなことがありましたか?」
「え?」
「初めての授業で緊張したのは分かりますが…、授業以外も、どこか落ち着かないように見えました。何か、困りごとですか?」
「………。」
放課後の反省会。根室先生の指摘に、内心、ギクリとする。
今日のホームルームでも、昨日、一昨日の連絡事項を読み上げて、生徒達に爆笑された。
ホームルームも、授業も、上手く集中できなかった。
…蓮のことを、妙に意識してしまったから。
「いえ……、なんでもないです。すみませんでした」
「そうですか。ほ、ほ、ほ。実習は大変でしょうけど、応援してますからね。今回の反省を生かして、月曜も頑張ってくださいね」
「はい。…ありがとうございます。…失礼します」
職員室のドアを閉め、実習生部屋に向かう。
根室先生の優しさが痛い。
先生は、真剣に俺の実習指導をしてくれている。生徒達も、俺の拙い授業を真面目に聞いてくれている。
それなのに、俺はあんな授業をして、根室先生にも時間をとらせて…。
悔しさとか情けなさとか不甲斐なさで、正直、ちょっと泣きてぇ。
「圭太は…、飲みか」
帰り支度のために実習生部屋に戻る頃には、窓の外は暗くなっていた。
生徒はもちろん帰っている時間。
圭太は仲良くなった教員達と飲みに行くと言っていたことを思い出す。
「コミュ力お化け野郎め」
いない圭太に向けて、悪口を言う。
俺が落ち込んでる時は、さりげなく寄り添って、一緒にふざけて、笑わせてくれる圭太。
肝心な時にいねぇんだからよ。
1時間かけて帰宅し、近くのコンビニで酒とつまみをカゴに入れる。
社会人が華金華金という理由が、初めて分かった気がする。
とりあえず酒だ、酒。
「あ、伊織。実習帰り?お疲れ」
「マ、マキさん…!」
いつもの柔らかい笑顔に、つい涙腺が緩みそうになる。
「マキさんも今帰りですか?」
「うん。たまにはベッドで寝たいからね」
「うわ、お疲れ様です」
「はは、冗談だよ」
顎下を撫でられ、ぎゅっと目を瞑る。
マキさんのタバコの香りを仄かに感じて、心が安らぐ。
「圭太は?一緒じゃないの?」
「圭太は飲み会です。なので俺は独りで飲もうかと思って。…あ、マキさん、一緒に飲みませんか?俺の部屋で」
「え、」
「ここからなら俺のアパートの方が近いですし」
なんだか人恋しくて、つい、誘ってしまった。
マキさんと映画の話でもしながら飲むことを想像しただけで、さっきまでの憂鬱な気分が既に少し紛れた。
そういえば、圭太以外の人を部屋に上げたことってねぇな。
「………」
「…あ、いや、すみません…。マキさん、忙しい──」
「いいの?」
マキさんが目を細める。
「伊織の部屋、行きたいな」
「乾杯」
「お疲れ様です」
酒の缶をカツンとぶつけ合って一気に喉に流し込む。
「あ〜、仕事終わりのアルコールって、最高です」
「はは、社会人ぽいね」
ローテーブルの上に買ってきた酒とつまみを並べて、ベッドを背もたれに座布団に座る。
テレビは金曜ロードショー。
今晩は、10年ほど前に大ヒットしたディズニー映画をやっている。アンデルセン童話の「雪の女王」を元ネタにしたあの映画。
「狭い部屋なのに、呼んでしまってすみません」
「ううん、嬉しいよ。それにこの部屋、伊織っぽい部屋で、俺は好き。居心地いいね」
突然招いてしまったから、ごちゃごちゃしたものはクローゼットに押し込んで、なんとか体裁を整えた室内。
でもマキさんにそう言われて、悪い気はしねぇな。
逆に、マキさんの部屋は、ものが無さすぎるけど。
「そういえば、LINE見てびっくりしたよ。蓮くん、高校生だったんだってね?しかも伊織の知り合いだったって」
「、そうなんです。」
蓮の名前が出て、一瞬、返事が遅れる。
「あ、そうだ、しかも千冬の弟たちもいるんです」
「へぇ!千冬、弟いたんだ」
「双子で、千冬より全然背が高いです」
「はは、それ、千冬に言うときっと怒るよ」
軽く笑い合って、缶を傾ける。
テレビは、主人公が、その日出会った男性と意気投合し、歌を歌うシーン。陽気なメロディと楽しそうな歌声。
「懐かしいな、これ。当時の彼女が好きで、歌えるようになるまで練習させられたよ」
「えっ、マキさんこれ歌えるんですか」
笑いながら尋ねると、マキさんも微笑んで、テレビのキャラクターの踊りを真似しながらワンフレーズ口ずさむ。
思わず、吹き出した。
なんか、かわいいな。
そのまま映画に観入って、CMに入ったところで、マキさんが手に持っていた缶を軽く潰し、冷蔵庫に立つ。
「冷蔵庫開けていい?伊織も次飲む?」
「あ、はい。ありがとうございます」
マキさんは二本目のハイボール、俺も二本目のレモンサワーを開ける。
疲れも相まってか、酒の回りが早い気ぃすんな。
そこで、ふと気づく。
「…え?待ってください。当時の彼女って…、マキさん何歳の時ですか?」
「んー、中1かな。相手は高校生だったけど」
「はい?」
中1?
相手は高校生?
「マキさん…、…その、なんていうか…」
「えっ、」
マセ過ぎだろ。
ジトっとした目で見てしまうも、出かかった言葉はレモンサワーと流し込む。
マキさんは珍しく慌てたように缶を机に置き、矢継ぎ早に話し出す。
「ち、違う、えっと、なんだ?俺は、年上好きなわけじゃないし、その、なぜか年上にやたら好かれただけというか…、」
「……」
「えぇ?えーっと、俺はただ、来るもの拒まずなだけだったというか……、でも、付き合うときは、真剣に付き合ってたし、大事にしたし、だから──」
「マキさん。なんの弁明ですか。俺は何も言ってませんけど」
「………」
「あと、どちらかというと、墓穴掘ってる気がします」
「………」
マキさんは床に両手をつき、天を仰いだ。
「あー、黙ってれば良かった」
「…プッ、あはは」
いつも静かで余裕たっぷりなマキさんの、意外な一面を見て、またまた吹き出す。
今日のマキさん、なんか面白ぇ。
「マキさん、モテたんですね」
「モテ…たのかな。伊織がいうなら、そうかも」
ハイボールをまた一口飲んだマキさんが、どこか遠くを見ながら続ける。
「でも、あの頃の恋愛は、お遊びみたいなもんだったなって、今となっては思うよ」
「お遊び?」
「恋愛っていう、大人の世界の真似事。あと、単純な性への興味」
「せ、…」
サラッと言うマキさんに、俺の方が少し恥ずかしくなる。
「相手への、『憧れ』と『好き』を履き違えてた部分もあるし、本当の意味で、相手を見てなかったと思う」
「どういうことですか?」
マキさんの、煉瓦色の瞳が、俺を見た。
「恋に恋してる状態っていうのかな。その時の勢いだけで盛り上がっちゃってさ。…結局、相手との未来なんて、ちゃんと考えられてない」
「……」
「そもそも学生の時分に、未来まで考えるのは難しいと思うけどね。まだ社会なんて知らない子供だし」
マキさんは、また一口、ハイボールを飲む。
「無責任に好きって言って、気持ちを押し付けあって。…どうせダメになるのにね」
「……」
そこで会話は終わり、なんとなく映画を観ながら酒とつまみを口に運ぶ。
雪の世界を舞台にしたCGアニメーションを目で追いながら、アルコールの回った頭に浮かぶのは、蓮の声。
──俺を、伊織さんの恋人にして?
憧れと、好きの履き違え。
──俺は先生が大好きだよ
大人の世界の真似事、
──いちばん、かわいい人
単純な性への興味。
「伊織、どうしたの?」
「っ、あ、いや。つい、観いっちゃいました」
マキさんの声にハッとして、缶に半分ほど残っていたレモンサワーを一気に飲み干す。
机の上には俺とマキさんで8本の空き缶を並べていた。
テレビは、いつのまにかエンドロールが流れている。
…結構、飲んじまったな。
「そろそろ、お開きにしますか」
「…そうだね」
「マキさんが、年上好きのヤンチャ少年だったって知れて、楽しかったです」
ニッと笑ってマキさんを見ると、マキさんは、ゆるく微笑んだ。
あと1時間もすれば、日付が変わっちまう。
水でも飲もう。
フラつく足で、立ち上がった
「跨ぎますよ」
「ん」
「わ、」
──グイッ、
マキさんの脚を跨いで冷蔵庫へ向かおうとしたところで、下から手を引っ張られ、マキさんの膝の上に座ってしまう。
「ねぇ、伊織。さっき、何考えてたの?」
「え、」
暗い目が、俺を見る。
マキさんも相当飲んだから、眠たいんだろうか。
「俺の昔の話聞いてから、ずっとぼーっとしてる」
「そ、そう…ですかね」
「うん」
マキさんの目が、優しく細められた。
「伊織はさ、俺のこと好き?」
「…は?」
「俺は、伊織のこと好きだよ」
「はぁ。ありがとうございます。俺もマキさんのことは好きですよ」
突然何の話だ?
よく分かんねぇけど、そのまま答えておこう。
マキさんは優しいし安心するし、知ってる先輩の中でも1番好きだしな。
俺の答えを聞いたマキさんは、優しく微笑んで、もう片方の手を俺の腰に添える。
あったけぇ。
「俺はもう、いい大人だけど、それでも子供みたいに無責任に愛したいって思うことがある」
「え…?」
「そう言ったら、軽蔑する?」
俺の目を見つめたまま、手を引き寄せ、指先にキスする。
ウイスキーの匂い。
「世間体とか、相手の将来とか、全部無視して、ただ俺が愛したいように愛したい」
「………は?、何…」
指先に触れた唇は、手首の内側に移動する。
ふわふわする頭で、今の状況と、マキさんの言葉の意味を考える。
え?全然分かんねぇ。
俺が混乱してる間にも、マキさんの唇が、手首の次は、腕、二の腕、肩、と移動する。
そして、マキさんのどこか影のある整った顔が近付いた。
「そのくらい、伊織のことが好き。…俺だけのものにしたい」
「マ、マキさんっ?、んッ!」
──ちゅっ
首筋に、柔らかいものが優しく触れた。
タバコとウイスキーの香りが強まる。
心臓が、うるさい。
「愛してる、伊織」
「っ、!?な、よ、酔ってますね!?」
「うん、酔ってるよ」
「ですよね!だから、こんな、」
「かわいい」
「は!?ん、んッ!」
──ちゅぅ、ちゅっ
今度はもう少し強く、吸い付くように。
「伊織…、」
「は、マキ、さ、ぅッ…!」
体が震え、力が抜ける。
そして、唇に、柔らかいものが触れた。
「〜っ…!」
──ちゅっ、ちゅ…
リップ音を立てて、優しく、ゆっくりと、唇を味わうように優しく食まれる。
なんだ、この感覚。
抵抗しようとする手からも、力が抜けちまう。
心臓が激しく脈打って、身体が燃えるように熱くなる。
でも、なんか、
なんか…。
アルコールでとろけた脳が、快楽だけを拾って…、
…気持ち、いい…かも…。
「っ、そんな顔、されると…止まらなくなる」
「え…?」
唇に柔らかく触れる感触が消えても、頭の芯が、ぼうっと熱を持っている。
…これが、キス…なのか…。
「伊織、」
「…、」
「このまま、シてもいい?」
「シ、シてって…?」
「セックス」
………せっくす?
「えええええっ!?」
「……そんな驚く?」
「な、何言ってんですか!?」
アルコールでほんのり赤くなったマキさんが、妖しく微笑んだ。
「だ、ダメに決まってんじゃねぇか!てか、キ、キ、キ、キス、だって…!」
「嫌だった?」
「……」
思わず敬語が抜けるも、そんなことには構っていられねぇ。
嫌、と言うほどでは…ねぇかもだけど…、というか、マキさんの触れ方が優しすぎて、ふわふわして…、抵抗の仕方が分からなくなっちまうっていうか…、じゃなくて!
「お、俺、マキさんみたいに経験豊富じゃねぇし、…どう受け止めていいか…、そもそも、その…、俺はマキさんのこと、…ひぁっ!」
マキさんが、俺の背骨を上から下に指でなぞった。
ゾクゾクした感覚に、思わず声が出て、マキさんに倒れ込む。
「ごめんね、伊織」
耳元で低い声が囁く。
「その先は、聞きたくない」
「っ、マキ、あ、ンっ…!」
首筋に舌が這う感覚に、全身がゾクゾクする。
─ちゅ、くちゅっ、
舌で、唇で、首の弱いところを攻められる。
気持ちいい。
気持ちいい、けど…。
「い…、やめ、…」
「……」
「やめて、くださいっ…!」
俺の声に、マキさんはピタリと動きを止めた。
俺の肩を支え、目を合わせる。
薄く染まった頬と、切なげな瞳。
俺は呼吸を整えながら、マキさんに向き合う。
「……」
「マキさん、その…、ごめんなさい。俺…、マキさんのことは、好きですけど、そういう意味じゃねぇっていうか、そういうの、よく分かんねぇし、」
「……」
「嫌じゃないんですけど、なんていうか、なんか、違ぇ気がして…」
「……うん」
短く返事をすると、俺の顎下に触れた。
くすぐられると思って目を瞑ると、唇に、ゆっくり、キスを落とされる。
挨拶のような、触れるだけのキス。
「っ、…」
「わかった。俺の方こそ、ごめん。」
視線を落としたマキさんが静かに言う。
「今日はもう、帰るよ」
「……はい」
「机、片付けるね」
「……はい」
何事もなかったかのように、いつも通りなマキさんに、俺が戸惑う。
机に広げたものを片付け終わると、マキさんは、少ない荷物を片手に玄関に立った。
「今日はありがとう、あと、ごめんね」
「いえ…、気に…しないでください」
俺の返事は、これで合ってるのか?
眉間に皺を寄せていると、マキさんがゆるく微笑んだ。
「もし、気が向いたら、また言って」
「気が向いたらって…」
俺がマキさんが俺の顎下を撫でた。
「何もできなくなるくらい、甘やかしてあげるからね」
「…っ、」
「じゃ、おやすみ」
「おやすみ、なさい…」
閉じられたドアの前で、ヘナヘナと座り込む。
苦味を含んだ甘い声は、マキさんのタバコの匂いに似ていた。

