弁当を食い終わってしばらくして、俺はいつの間にか眠ってしまっていたらしい。
気付いた時には、右頬の温かい感触にもたれかかっていた。
タバコとウッド系の香りが心を落ち着けて、疲れた体に優しく沁みる。
「ん…」
「起きたの、伊織?」
耳に心地よく響く低音。
キーボードを打つ、小さな音も聞こえる。
「マキ…さん……、あ」
右頬に感じていた温もりは、マキさんの肩だ。
俺は、完全にマキさんに寄りかかって寝ていたらしい。
「ごめ、なさい…」
まだちょっと上手く回らない口で謝る。
預けていた頭を戻そうとすると、マキさんの右手が、そっと俺の髪を撫でた。
「もう少し、寝てても大丈夫」
髪を滑る大きな手が気持ちいい。
その手は俺の頭から滑り降り、耳元や首元も優しく撫でる。
マキさんって、整体師とか向いてそうだよな…。この前してもらったマッサージもすげぇ気持ちよかったし。
絶妙な力加減に、身体の力がふわりと抜けて、またマキさんの肩を枕にしたまま眠りに落ちそうになる。
…いや、ダメだろ。
セルフツッコミと共に重い瞼を上げて、身体を起こす。
どうやら隣の圭太も寝ているようだ。
「重かったですよね」
「ううん、全然。伊織の寝顔、癒されるし」
静かな声で冗談を言って、柔らかく目を細め俺を見ると、またノートパソコンに視線を戻す。
長い指がなめらかにキーボードを打っていく。
やっぱマキさんは優しいな。
大人の余裕っつうか、包容力っつうか…。
俺の憧れの大人。
千冬が好きになるのも納得だわ。
「大変ですね、それ。あの…、忙しいのに、旅行誘っちゃってすみませんでした」
「伊織が謝ることなんてないよ」
マキさんの手が止まり、ノートパソコンが静かに閉じられた。
ヤベ、話しかけすぎて邪魔しちゃったか?
乾いた大地を思わせる、マキさんの煉瓦色の目が俺を見つめる。
指先が俺の顎下に触れ、次に来る心地いいくすぐったさを予期して反射的に目を瞑った。
「俺が行きたいから来た。それだけだよ」
いつものように顎下を撫でるのではなく、そのままそっと持ち上げられる。
俺が変に罪悪感持たないように、優しくフォローしてくれたんだ。
目を薄く開くと、マキさんの整った顔が思ったより近くにあって、思わずその顔を観察してしまう。
スッと通った鼻筋と、二重幅の広い瞼。優しく弧を描く口元。
一つ一つのパーツは派手じゃないのに、全てが綺麗に配置されていて、大人びた雰囲気。なのに、どこか甘えたがりの気配が潜んでいて、そのせいか、マキさんは年上なのに親しみやすい感じがする。
「マキさんって、かっこいいし、すげぇ優しいですよね」
「ははっ、ありがとう。でも……どうかな」
「え?」
「本当は、とっても悪い人間かも」
胸の奥を溶かすような甘い声。
マキさんの優しい話し方は、聞いてるだけでリラックス効果がありそうだ。
やっぱり顎の下をくすぐるように撫でられて、俺は目をきゅっと瞑った。
気持ちいい。
そうだ。折角だし、千冬にはしなくていいって言われたけど、やっぱ好きなタイプとか聞いてみといてやるか?
マキさんみたいな大人がどんな人が好きなのか、俺も興味あるし。
「マキ…ぐふッ、」
マキさんってどんな人がタイプなんですか?と聞こうとしたところで、横から首をグイッと引っ張られる。
圭太だ。
圭太が俺の首に腕をかけて、思い切り引き寄せていた。
「ゲホッ、何すんだよ圭太」
「…ごめん、抱き枕と間違えた」
「寝ぼけ過ぎだろ、痛ぇわ」
「あはは、ごめんごめん」
寝起きのせいか、ちょっと不機嫌そうな低い声。
首元を摩ると、マキさんからもらったネックレスを指が掠める。
マキさんはその様子を眺めて小さく微笑むと、またパソコンを開いた。
聞くタイミング逃したな。
でも、これ以上マキさんの邪魔もしちゃいけねぇよな。
口を閉じ、ポケットからスマホを取り出した。
到着まであと20分くらい…。
「あっ、伊織さん!」
「蓮?」
惰性で続けているスマホゲームを開いたところで、別車両にいたはずの蓮が通路から俺を呼んだ。
上着でほとんど隠れているけど、派手なシャツの柄が少し見えていてちょっと面白い。
「伊織さん、手伝ってほしいことがあるんだけど、いい?」
「なんだよ」
「あっち、来てほしい」
「おー」
なんだ?手伝って欲しいことって…?
圭太の無駄に長い脚を跨ぎ、通路に出る。
蓮に連れられ、車両と車両の間のデッキまで出ると何かを手渡された。
「これ!」
「……ピアッサー?」
「うん。伊織さんに、開けてほしい」
「え」
昨日アメ村で、蓮がピアスを買っていたのを思い出す。
少し戸惑いながら蓮の両耳を覗くと、どちらの耳にもピアス穴は見つけられなかった。
「お前…!ピアス空いてねぇのに買ったのか?」
「うん!」
「それで、……今、空けろって?」
「うん、今がいい」
「それなら俺よりマキさんとか…」
「ううん」
蓮が、俺の手を上から包む。
金髪の前髪をサラリと揺らし、少し身を屈めて俺の瞳を覗き込んだ。
「伊織さんがいい」
「……」
「お願い」
「……いいけど…、なんかあっても責任持てねぇぞ」
「うん、大丈夫」
「……そうかよ」
はぁ、とため息をつく。
この二日間で何度か目にした、こいつの謎行動。
今度は新幹線のデッキで、初めてのピアスを開けるという奇行だ。
デッキ内には、他の人はいない。
誰に迷惑かけるわけでもねぇなら、まぁいいか…。
「どこに開けんの?」
「伊織さんが決めて」
「はぁ?……ったく…」
渡されたピアッサーは一つ。耳たぶ用だ。
「左でいいか」
「うん」
柔らかな金色の髪に触れ、耳にかける。
人の顔に触れることなんて滅多にないから、妙に緊張する。
しかもこいつは、綺麗すぎる。
「伊織さん?」
「…、」
澄んだ瞳が俺に向けられ、一瞬だけドキリとする。
囁くように呼ぶ声も、なぜか胸の奥を落ち着かなくさせるんだ。
頼まれてやっていることなのに、触れてはいけないものに触れているような背徳さえ感じる。
「…動くなよ」
「うん」
そう指示すれば、蓮が前を向き直す。
説明書の通り、ピアッサーを耳たぶに当て、正面、横、と角度を変えて位置を確認した。
…どこからみても、完璧な顔立ち。
やっぱ芸術品みてぇだ。
グッと指先に力を入れると、あとはバネの力で一気にピアスが耳たぶを貫く。
バチン!という大きな音は、新幹線の走行音に混ざり、そこまで大きく響かなかった。
「できたぞ。痛ぇか?」
手で耳に触れ、ピアスを確認する蓮。
「大丈夫。ありがとう、伊織さん」
「はぁ」
無邪気に笑う蓮は、幸せそうなキラキラした瞳で俺を見つめる。
強くピアッサーを握ったせいか、指先がじんじんと熱い。
「用が済んだなら席戻るぞ」
「あ……」
「? まだなんかあんのか? …おい」
蓮が俺の前に立ち塞がり、静かに距離を詰める。
数歩後退りしただけで、壁に取り付けられている手すりに背中をぶつけた。
色の抜けた前髪に対して、長いまつ毛に縁取られた目の輪郭はくっきりしていて、思わず目が奪われる。切なげに揺れるヘーゼルの瞳が俺をじっと見下ろしていた。
てか、近いって…。
「な、何だよ…」
「……」
蓮は追い込まれた俺に更に身体を近づけると、少し腰を折り、俺の身体の両側の手すりに手をかけた。
服越しに触れ合う腕から、蓮の手や腕に込められた力みを感じる。
金髪の頭が俺の顔の真横で項垂れ、微かに震える息遣いが耳にかかった。
「…………帰りたく、ない」
「………」
弱々しく、掠れた声。
その声は、聞き覚えがある気がした。
蓮の腕に、ますます力が込められる。
蓮の腕と体で、完全に身動きできないよう封じられてる俺の身体は、自ずと蓮と密着する。
蓮の石鹸みたいな香り。厚い胸板と、泣く前みたいな、苦しそうな呼吸。
この二日間で蓮について知ったことは、意外と多かった。
言動は謎めいているけど、素直で、人をよく見てる。
それで、眩しいくらいにキラキラ笑うやつ。
「………」
「蓮…」
自然と、蓮の背中に腕を回していた。
小さな子を宥めるように、蓮の背中を軽く叩いてやる。
こいつには、妙に懐かれている。
理由は分かんねぇし、最初こそ不審だったけど、別に嫌な気はしない。
むしろ今は……。
「蓮、落ち着けって」
「………」
「旅行が終わって、寂しくなっちゃったか?」
「………」
「旅行なんて、また行けばいいだろ? それに、来週にはまた部室でみんな顔合わせるしよ」
俺の手のリズムに合わせて、蓮の呼吸が落ち着いてくる。
俺の顔の真横にある蓮の頭が、小さく頷いた気がした。
「伊織さん」
「ん?」
「バイバイの前に、ぎゅってしてもいい?」
「おう……、え? は、ちょっと待っ…、…っ、」
手すりを掴んでいた蓮の手が、俺の背中にそっと触れた。
自分の喉が、勝手にゴクリと鳴った。
蓮は壊れものを扱うかのように、優しく優しく、でもしっかりと俺を抱きしめた。
鼓動が、徐々に加速していく。蓮に触れられているところも、そうじゃないところも、全身が熱ぃ。
さっき千冬に抱き止められた時とは、違う感覚。
恥ずかしくて、心臓が苦しくて、でも振り解こうとも思えない。
なんだよ、この感じ…?
「伊織さん。大好き」
「は」
零れ落ちる砂糖みたいな、澱みない告白。
一瞬、息が止まった。
「好き。ずっと、大好きだった…」
大切なものにリボンをかけるように、愛おしく、優しさを持った声。
蓮の言葉が俺の心臓を縛り上げたようだった。
「ち、ちょっと、待て。…す、好き…?って…、お前……」
「伊織さんのこと。俺は伊織さんが大好き」
「………」
心臓が早鐘を打つ。
何…、何言ってんだよ、こいつ…?
「俺、伊織さんと一緒に旅行できて、嬉しかった。頑張って、来て、よかった…」
「……お、う……」
「…伊織さん、また連絡していい? たくさん送りすぎない約束、ちゃんと守るから」
言動は身勝手なほど謎なくせに、言葉はまっすぐすぎて、抱きしめる手はこの上なく優しい。
俺の細かな反応を肌で捉えながら、思いやるように包み込むから、心ごと抱きしめられてるような気分だった。
ていうか、男に抱きしめられて、なんでこんなにドキドキするんだよ…!
頭の中が大混乱で何も返事できずにいると、車内アナウンスが流れた。
そろそろ俺たちが降りる駅に着くらしい。
「…荷物、取り行く、から、放せよ」
「………」
「おい」
「だいすき…伊織さん」
「わ、わかった、から…。…放せ」
蓮の胸をやんわり押すと、ようやく離れる蓮。
自分の顔が熱いのを自覚しながら、目の前の後輩を見上げた。
車内の暖色の照明が蓮の瞳を照らし、俺はふと、展望台で見た夕陽と蓮の姿を思い出した。
柔らかい橙の光と、輝く金色の髪とヘーゼルの瞳。
掴みどころのない蓮の、美しい横顔。
あんなに綺麗な夕景色を見たのは、……初めてだった、な…。
「あ。伊織さん、ほっぺがピンク色でかわいい!ぽかぽかだね」
「は、はぁ!?」
あはは、と声をあげて笑って、幸せそうに微笑む。
金色に輝く髪も肌も、同じ人間と思えないくらい綺麗なのに、素直な笑顔と不思議な言動は幼い子供みてぇ。
「俺、友達っていたことなかったけど、映画部のみんな、優しくて、面白くて…、俺、旅行すごく楽しかった!」
「…そうかよ、良かったな」
俺の適当な返事に、蓮は下唇を噛みながら笑い、照れ臭そうに頷いた。
その仕草に何かを思い出しそうな気がしたけど、俺の頭の中は、さっきの蓮の「好き」発言と、夕陽の中の蓮の記憶に殆ど占領されていた。
あれはどういう「好き」なんだ?
先輩として?
それとも…、恋愛、的な…?
「ねぇ、最後に二人で写真とろう!」
「い、いいけど…」
「あ、…充電、無くなってる……」
「……、俺ので撮るか?」
「いいの!? うん!撮る!」
スマホを構え、画面に映る蓮を見る。
何をやってるんだろう、俺は。
何を感じてるんだろう、この後輩に。
「撮れたな。あとで、送っとくから」
「うん!ありがとう」
「ほら、もう着くぞ。お前、車両遠いだろ?早く行けって」
「うん!行ってくる!」
笑顔で手を振る蓮を見送り、俺は自分の胸に手を当てた。
鼓動、速ぇって…。
───二日間のサークル合宿の終わり。
その日を最後に、蓮は行方をくらませた。
気付いた時には、右頬の温かい感触にもたれかかっていた。
タバコとウッド系の香りが心を落ち着けて、疲れた体に優しく沁みる。
「ん…」
「起きたの、伊織?」
耳に心地よく響く低音。
キーボードを打つ、小さな音も聞こえる。
「マキ…さん……、あ」
右頬に感じていた温もりは、マキさんの肩だ。
俺は、完全にマキさんに寄りかかって寝ていたらしい。
「ごめ、なさい…」
まだちょっと上手く回らない口で謝る。
預けていた頭を戻そうとすると、マキさんの右手が、そっと俺の髪を撫でた。
「もう少し、寝てても大丈夫」
髪を滑る大きな手が気持ちいい。
その手は俺の頭から滑り降り、耳元や首元も優しく撫でる。
マキさんって、整体師とか向いてそうだよな…。この前してもらったマッサージもすげぇ気持ちよかったし。
絶妙な力加減に、身体の力がふわりと抜けて、またマキさんの肩を枕にしたまま眠りに落ちそうになる。
…いや、ダメだろ。
セルフツッコミと共に重い瞼を上げて、身体を起こす。
どうやら隣の圭太も寝ているようだ。
「重かったですよね」
「ううん、全然。伊織の寝顔、癒されるし」
静かな声で冗談を言って、柔らかく目を細め俺を見ると、またノートパソコンに視線を戻す。
長い指がなめらかにキーボードを打っていく。
やっぱマキさんは優しいな。
大人の余裕っつうか、包容力っつうか…。
俺の憧れの大人。
千冬が好きになるのも納得だわ。
「大変ですね、それ。あの…、忙しいのに、旅行誘っちゃってすみませんでした」
「伊織が謝ることなんてないよ」
マキさんの手が止まり、ノートパソコンが静かに閉じられた。
ヤベ、話しかけすぎて邪魔しちゃったか?
乾いた大地を思わせる、マキさんの煉瓦色の目が俺を見つめる。
指先が俺の顎下に触れ、次に来る心地いいくすぐったさを予期して反射的に目を瞑った。
「俺が行きたいから来た。それだけだよ」
いつものように顎下を撫でるのではなく、そのままそっと持ち上げられる。
俺が変に罪悪感持たないように、優しくフォローしてくれたんだ。
目を薄く開くと、マキさんの整った顔が思ったより近くにあって、思わずその顔を観察してしまう。
スッと通った鼻筋と、二重幅の広い瞼。優しく弧を描く口元。
一つ一つのパーツは派手じゃないのに、全てが綺麗に配置されていて、大人びた雰囲気。なのに、どこか甘えたがりの気配が潜んでいて、そのせいか、マキさんは年上なのに親しみやすい感じがする。
「マキさんって、かっこいいし、すげぇ優しいですよね」
「ははっ、ありがとう。でも……どうかな」
「え?」
「本当は、とっても悪い人間かも」
胸の奥を溶かすような甘い声。
マキさんの優しい話し方は、聞いてるだけでリラックス効果がありそうだ。
やっぱり顎の下をくすぐるように撫でられて、俺は目をきゅっと瞑った。
気持ちいい。
そうだ。折角だし、千冬にはしなくていいって言われたけど、やっぱ好きなタイプとか聞いてみといてやるか?
マキさんみたいな大人がどんな人が好きなのか、俺も興味あるし。
「マキ…ぐふッ、」
マキさんってどんな人がタイプなんですか?と聞こうとしたところで、横から首をグイッと引っ張られる。
圭太だ。
圭太が俺の首に腕をかけて、思い切り引き寄せていた。
「ゲホッ、何すんだよ圭太」
「…ごめん、抱き枕と間違えた」
「寝ぼけ過ぎだろ、痛ぇわ」
「あはは、ごめんごめん」
寝起きのせいか、ちょっと不機嫌そうな低い声。
首元を摩ると、マキさんからもらったネックレスを指が掠める。
マキさんはその様子を眺めて小さく微笑むと、またパソコンを開いた。
聞くタイミング逃したな。
でも、これ以上マキさんの邪魔もしちゃいけねぇよな。
口を閉じ、ポケットからスマホを取り出した。
到着まであと20分くらい…。
「あっ、伊織さん!」
「蓮?」
惰性で続けているスマホゲームを開いたところで、別車両にいたはずの蓮が通路から俺を呼んだ。
上着でほとんど隠れているけど、派手なシャツの柄が少し見えていてちょっと面白い。
「伊織さん、手伝ってほしいことがあるんだけど、いい?」
「なんだよ」
「あっち、来てほしい」
「おー」
なんだ?手伝って欲しいことって…?
圭太の無駄に長い脚を跨ぎ、通路に出る。
蓮に連れられ、車両と車両の間のデッキまで出ると何かを手渡された。
「これ!」
「……ピアッサー?」
「うん。伊織さんに、開けてほしい」
「え」
昨日アメ村で、蓮がピアスを買っていたのを思い出す。
少し戸惑いながら蓮の両耳を覗くと、どちらの耳にもピアス穴は見つけられなかった。
「お前…!ピアス空いてねぇのに買ったのか?」
「うん!」
「それで、……今、空けろって?」
「うん、今がいい」
「それなら俺よりマキさんとか…」
「ううん」
蓮が、俺の手を上から包む。
金髪の前髪をサラリと揺らし、少し身を屈めて俺の瞳を覗き込んだ。
「伊織さんがいい」
「……」
「お願い」
「……いいけど…、なんかあっても責任持てねぇぞ」
「うん、大丈夫」
「……そうかよ」
はぁ、とため息をつく。
この二日間で何度か目にした、こいつの謎行動。
今度は新幹線のデッキで、初めてのピアスを開けるという奇行だ。
デッキ内には、他の人はいない。
誰に迷惑かけるわけでもねぇなら、まぁいいか…。
「どこに開けんの?」
「伊織さんが決めて」
「はぁ?……ったく…」
渡されたピアッサーは一つ。耳たぶ用だ。
「左でいいか」
「うん」
柔らかな金色の髪に触れ、耳にかける。
人の顔に触れることなんて滅多にないから、妙に緊張する。
しかもこいつは、綺麗すぎる。
「伊織さん?」
「…、」
澄んだ瞳が俺に向けられ、一瞬だけドキリとする。
囁くように呼ぶ声も、なぜか胸の奥を落ち着かなくさせるんだ。
頼まれてやっていることなのに、触れてはいけないものに触れているような背徳さえ感じる。
「…動くなよ」
「うん」
そう指示すれば、蓮が前を向き直す。
説明書の通り、ピアッサーを耳たぶに当て、正面、横、と角度を変えて位置を確認した。
…どこからみても、完璧な顔立ち。
やっぱ芸術品みてぇだ。
グッと指先に力を入れると、あとはバネの力で一気にピアスが耳たぶを貫く。
バチン!という大きな音は、新幹線の走行音に混ざり、そこまで大きく響かなかった。
「できたぞ。痛ぇか?」
手で耳に触れ、ピアスを確認する蓮。
「大丈夫。ありがとう、伊織さん」
「はぁ」
無邪気に笑う蓮は、幸せそうなキラキラした瞳で俺を見つめる。
強くピアッサーを握ったせいか、指先がじんじんと熱い。
「用が済んだなら席戻るぞ」
「あ……」
「? まだなんかあんのか? …おい」
蓮が俺の前に立ち塞がり、静かに距離を詰める。
数歩後退りしただけで、壁に取り付けられている手すりに背中をぶつけた。
色の抜けた前髪に対して、長いまつ毛に縁取られた目の輪郭はくっきりしていて、思わず目が奪われる。切なげに揺れるヘーゼルの瞳が俺をじっと見下ろしていた。
てか、近いって…。
「な、何だよ…」
「……」
蓮は追い込まれた俺に更に身体を近づけると、少し腰を折り、俺の身体の両側の手すりに手をかけた。
服越しに触れ合う腕から、蓮の手や腕に込められた力みを感じる。
金髪の頭が俺の顔の真横で項垂れ、微かに震える息遣いが耳にかかった。
「…………帰りたく、ない」
「………」
弱々しく、掠れた声。
その声は、聞き覚えがある気がした。
蓮の腕に、ますます力が込められる。
蓮の腕と体で、完全に身動きできないよう封じられてる俺の身体は、自ずと蓮と密着する。
蓮の石鹸みたいな香り。厚い胸板と、泣く前みたいな、苦しそうな呼吸。
この二日間で蓮について知ったことは、意外と多かった。
言動は謎めいているけど、素直で、人をよく見てる。
それで、眩しいくらいにキラキラ笑うやつ。
「………」
「蓮…」
自然と、蓮の背中に腕を回していた。
小さな子を宥めるように、蓮の背中を軽く叩いてやる。
こいつには、妙に懐かれている。
理由は分かんねぇし、最初こそ不審だったけど、別に嫌な気はしない。
むしろ今は……。
「蓮、落ち着けって」
「………」
「旅行が終わって、寂しくなっちゃったか?」
「………」
「旅行なんて、また行けばいいだろ? それに、来週にはまた部室でみんな顔合わせるしよ」
俺の手のリズムに合わせて、蓮の呼吸が落ち着いてくる。
俺の顔の真横にある蓮の頭が、小さく頷いた気がした。
「伊織さん」
「ん?」
「バイバイの前に、ぎゅってしてもいい?」
「おう……、え? は、ちょっと待っ…、…っ、」
手すりを掴んでいた蓮の手が、俺の背中にそっと触れた。
自分の喉が、勝手にゴクリと鳴った。
蓮は壊れものを扱うかのように、優しく優しく、でもしっかりと俺を抱きしめた。
鼓動が、徐々に加速していく。蓮に触れられているところも、そうじゃないところも、全身が熱ぃ。
さっき千冬に抱き止められた時とは、違う感覚。
恥ずかしくて、心臓が苦しくて、でも振り解こうとも思えない。
なんだよ、この感じ…?
「伊織さん。大好き」
「は」
零れ落ちる砂糖みたいな、澱みない告白。
一瞬、息が止まった。
「好き。ずっと、大好きだった…」
大切なものにリボンをかけるように、愛おしく、優しさを持った声。
蓮の言葉が俺の心臓を縛り上げたようだった。
「ち、ちょっと、待て。…す、好き…?って…、お前……」
「伊織さんのこと。俺は伊織さんが大好き」
「………」
心臓が早鐘を打つ。
何…、何言ってんだよ、こいつ…?
「俺、伊織さんと一緒に旅行できて、嬉しかった。頑張って、来て、よかった…」
「……お、う……」
「…伊織さん、また連絡していい? たくさん送りすぎない約束、ちゃんと守るから」
言動は身勝手なほど謎なくせに、言葉はまっすぐすぎて、抱きしめる手はこの上なく優しい。
俺の細かな反応を肌で捉えながら、思いやるように包み込むから、心ごと抱きしめられてるような気分だった。
ていうか、男に抱きしめられて、なんでこんなにドキドキするんだよ…!
頭の中が大混乱で何も返事できずにいると、車内アナウンスが流れた。
そろそろ俺たちが降りる駅に着くらしい。
「…荷物、取り行く、から、放せよ」
「………」
「おい」
「だいすき…伊織さん」
「わ、わかった、から…。…放せ」
蓮の胸をやんわり押すと、ようやく離れる蓮。
自分の顔が熱いのを自覚しながら、目の前の後輩を見上げた。
車内の暖色の照明が蓮の瞳を照らし、俺はふと、展望台で見た夕陽と蓮の姿を思い出した。
柔らかい橙の光と、輝く金色の髪とヘーゼルの瞳。
掴みどころのない蓮の、美しい横顔。
あんなに綺麗な夕景色を見たのは、……初めてだった、な…。
「あ。伊織さん、ほっぺがピンク色でかわいい!ぽかぽかだね」
「は、はぁ!?」
あはは、と声をあげて笑って、幸せそうに微笑む。
金色に輝く髪も肌も、同じ人間と思えないくらい綺麗なのに、素直な笑顔と不思議な言動は幼い子供みてぇ。
「俺、友達っていたことなかったけど、映画部のみんな、優しくて、面白くて…、俺、旅行すごく楽しかった!」
「…そうかよ、良かったな」
俺の適当な返事に、蓮は下唇を噛みながら笑い、照れ臭そうに頷いた。
その仕草に何かを思い出しそうな気がしたけど、俺の頭の中は、さっきの蓮の「好き」発言と、夕陽の中の蓮の記憶に殆ど占領されていた。
あれはどういう「好き」なんだ?
先輩として?
それとも…、恋愛、的な…?
「ねぇ、最後に二人で写真とろう!」
「い、いいけど…」
「あ、…充電、無くなってる……」
「……、俺ので撮るか?」
「いいの!? うん!撮る!」
スマホを構え、画面に映る蓮を見る。
何をやってるんだろう、俺は。
何を感じてるんだろう、この後輩に。
「撮れたな。あとで、送っとくから」
「うん!ありがとう」
「ほら、もう着くぞ。お前、車両遠いだろ?早く行けって」
「うん!行ってくる!」
笑顔で手を振る蓮を見送り、俺は自分の胸に手を当てた。
鼓動、速ぇって…。
───二日間のサークル合宿の終わり。
その日を最後に、蓮は行方をくらませた。


