右頬に、温かい感触。
タバコとウッド系の香りが、心を落ち着けて、疲れた体に優しく沁みる。
「ん…?」
「起きたの、伊織?」
耳に心地よく響く低音。
キーボードを打つ、小さな音も聞こえる。
「マキ…さん……、あ」
右頬に感じていた温もりは、マキさんの肩。
俺は、完全にマキさんに寄りかかって寝ていた。
「すみ、ません…」
まだちょっと上手く回らない口で謝る。
預けていた頭を戻そうとすると、マキさんの右手が、そっと俺の髪を撫でた。
「もう少し、寝てても大丈夫」
髪を滑る大きな手が気持ちいい。
絶妙な力加減に、身体の力がふわりと抜けて、またマキさんの肩を枕にしたまま眠りに落ちそうになる。
…いや、ダメだろ。
重い瞼を上げて、身体を起こす。
どうやら隣の圭太も寝ているようだ。
「重かったですよね、」
「ううん、全然」
柔らかく目を細め俺を見ると、またノートパソコンに視線を戻す。
長い指がなめらかにキーボードを打つ。
「大変ですね、それ。あの…、忙しいのに、旅行誘っちゃってすみませんでした」
マキさんの手が止まり、ノートパソコンが静かに閉じられる。
ヤベ、話しかけすぎて邪魔しちまったか?
乾いた大地を思わせる、マキさんの煉瓦色の目が俺を見つめる。
指先が俺の顎下に触れ、次に来る心地いいくすぐったさを予期して反射的に目を瞑った。
「少しでも、伊織といたくてね」
いつものように顎下を撫でるのではなく、そのままそっと持ち上げられる。
目を開けると、スッと通った鼻筋と、重たげな瞼。優しく弧を描く口元。一つ一つのパーツは派手じゃないのに、綺麗に配置され、大人びた雰囲気の中にどこか甘えたがりの気配が潜んでいる。
「どんなに忙しくても、伊織に誘われたら、絶対行くよ」
胸の奥を溶かすような声。
…てか、やっぱ俺が誘ったせいってことじゃねぇか。
「すみ…ぐふッ、」
すみません、とまた謝ろうとしたところで、横から首をグイッと引っ張られる。
圭太が、俺の首に腕をかけて思い切り引き寄せていた。
「ゲホッ、何すんだよ圭太」
「ごめん、抱き枕と間違えた」
「寝ぼけ過ぎだろ、痛ぇわ」
「あはは、ごめんごめん」
首元を摩ると、マキさんからもらったネックレスを指が掠める。
マキさんはその様子を眺めて、小さく微笑むと、またパソコンを開いた。
マキさんは優しいけど、これ以上邪魔しちゃいけねぇよな。
ポケットからスマホを取り出す。
到着まであと20分くらいか。
「伊織さん」
「あ?」
別車両にいたはずの蓮が、通路から俺を呼んだ。
「お願いがあって」
「なんだよ?」
「来てくれますか?」
なんだ、改まって?
圭太の無駄に長い脚を跨ぎ、通路に出る。
蓮に連れられ、車両と車両の間のデッキまで出ると、何かを手渡された。
「ピアッサー?」
「伊織さんに、開けてほしい」
「え」
昨日、アメ村で買い物中に、蓮がピアスを開けようかと呟いていたのを思い出す。
「…いいけど、今やんのか?」
「今がいい」
「なんかあっても責任持てねぇぞ」
「うん、大丈夫」
はぁ、とため息をつく。
この二日間で何度か目にした、こいつの謎の行動力。
今回は新幹線内でピアスを開けるという奇行に発揮されたらしい。
「どこに開けんの?」
「伊織さんと同じ場所がいい」
渡されたピアッサーは一つ。耳たぶ用だ。
「左でいいか」
「うん」
金色のサラサラした髪に触れ、耳にかける。
人の顔に触れることなんて滅多にないから、妙に緊張する。
しかもこいつは、綺麗すぎる。
「伊織さん?」
「…、」
澄んだ瞳が、俺に向けられる。
囁くように呼ぶ声も、なぜか胸の奥を落ち着かなくさせる。
頼まれてやっていることなのに、触れてはいけないものに触れているような背徳さえ感じる。
「…動くな」
「うん」
蓮が前を向き直す。
ピアッサーを耳たぶに当て、正面、横、と角度を変えて見て、位置を確認する。
…どこからみても、完璧な顔立ち。
やっぱ芸術品みてぇだ。
「大きい音するけど、動くなよ」
「うん、分かった」
グッと指先に力を入れると、あとはバネの力で一気にピアスが耳たぶを貫く。
バチン!という大きな音は、新幹線の走行音に混ざり、そこまで大きく響かなかった。
「できたぞ。痛ぇか?」
手で耳に触れ、ピアスを確認する蓮。
「大丈夫。ありがとう、伊織さん」
「ああ」
強くピアッサーを握ったせいか、指先がじんじんと熱い。
「おそろい、嬉しい」
車内アナウンスが流れ、そろそろ俺たちが降りる駅に着くことが知らされる。
「そうかよ、良かったな」
俺の適当な返事に、蓮は下唇を噛んで、照れ臭そうに笑う。
その仕草に、何かを思い出しそうな気がした。
二日間のサークル合宿の終わり。
その日を最後に、蓮は行方をくらませた。

