タバコ、と一言告げてマキさんが去って、そのまま俺は、ぼうっと外を眺めていた。
誰も知らない場所に行きたいなんて、マキさん勉強と研究で疲れてんのかな…。
かく言う俺も、来月には教育実習だけどな。
教師にはなりてぇけど、実習は地獄だって聞くし、正直ちょっとビビってるところはある。
誰にも言わねぇけど。
「はぁ」
「あ、伊織先輩」
声に振り向くと、海未が辺りを見回しながら困り顔で立っていた。
なんだ?
「千冬、知りませんか?さっき具合悪そうにしてて、声かけたんですけど、そのままどこかいなくなっちゃって…」
「あいつ体調悪いの?」
「分からないですけど…」
ここに来るまでに、そんな様子はなかったけどな。
古着屋見てた時も、機嫌良さそうだったし。
「俺も探してみる」
「ありがとうございます。私は下のショップを探してみます」
「おう」
窓の外は、夕焼けから夜の景色に変わり、展望台には人が増えてきている。
それでも、あのピンク頭は目立つと思うんだけどな。
ぐるりと展望台内を一周して、すれ違っていないかたまに反対側も見渡して。
……いねぇ。
千冬に送ったLINEも既読すらつかねぇ。
「あとは…トイレか?」
ガラスの向こうの輝く夜景を横目に見ながらトイレに向かう。
千冬のやつ、はしゃぎすぎて腹でも壊したのかも知れねぇしな。
「………千冬?」
「っ!い、伊織、先輩…」
トイレに入ると、探していたピンク頭はすぐに見つかった。
顔色はそこまで悪くないが……
「何やってんだ?」
「…………別に」
手洗い器にしがみついたまま、その場を動こうとしない。
この展望台は、トイレまで景色にこだわっているようで、トイレさえも壁はガラス張り。大阪の夜景を一望できた。
ここまでやるか?ほんとすげぇな。
「海未が心配してたぞ」
「…」
「千冬?」
「…すみません。大丈夫なんで…」
洗面器にしがみついたまま、洗面ボウルをじっと見つめる千冬。
確かに顔色は悪い。
もしかして……。
「……お前、高いところ苦手?」
「!」
勢いよく顔を上げ、俺を見る。
可愛らしいクリっとした目は微かに潤み、ちょっと泣きそうな顔だ。
図星、なんだな?
「お前なぁ…、よくこんなところ来たな。嫌だって言えば良いだろ?」
背後の夜景が見えないよう、千冬と壁の間に立って、千冬の体を支える。
「…っ」
「ほら、下行こうぜ。歩けるか?」
黙ったまま俯く千冬が、小さく頷いた。
洗面器を握っていた手を取ると、酷く冷たかった。
「…ごめんな、さい…」
「なんで謝るんだよ」
「その…、迷惑かけて…」
「迷惑なんかじゃねぇよ」
ゆっくり歩いて、トイレを出る。
しっかりしてるくせに、変なところで痩せ我慢しやがって。
海未に心配ない旨の連絡を入れながら、なるべくガラスから遠いところを歩いて、下に降りるエスカレーターに乗り込んだ。
ぎゅっと握られた手が、徐々に温度を戻していくのに安堵する。
「ここからエレベーターで降りれば、すぐだからな」
「…はい」
おとなしい千冬。
エレベーターは混み合っていて、列を作って順番に乗り込んでいく。
千冬は景色が見えなくなると落ち着いたようで、手の温度は温かさを取り戻していた。
2台ほどのエレベーターを見送った後、やっと俺たちも乗り込む。
千冬は相変わらず黙ったままだけど、狭いエレベーター内では、自然と俺と千冬の距離は近付く。
1番奥の隅。後から後から人が乗り込み、俺と千冬は、手を握ったまま密着して向かい合う格好になった。
千冬の整った顔が目の前に近づき、千冬の仄かに甘い香りが肺を埋める。
ちょっと目のやり場に困って、俺は、千冬の奥に見える階数表示を眺めることにした。
「…伊織先輩。僕のこと、嫌いになりましたか?」
「え?」
小さな声が、耳に届く。
視線を千冬に遣ると、千冬は俯いていた。
淡いピンクの前髪の間から覗く、薄暗い瞳。
落ち込んでる…のか?
「……別に、ならねぇけど」
「………」
視線を落としたまま更に深く項垂れた千冬は、何かを願うかのように俺の手を握る力を強めた。
髪の隙間から見える耳の先が、少し赤い。
「じゃぁ、……好き…、ですか…?」
「はぁ?」
嫌いじゃないなら、好きかって?
子供じみた短絡的な論理に、思わず聞き返してしまう。
途端に千冬が息を止めた気配がして、俺は口を閉じた。
こいつは今、相当な精神的ダメージを受けてるらしい。
それで脳内もちょっとバグってんだろう。
仕方ねぇ、付き合ってやるか…。
「好きって…、…まぁ、な」
好き、なんて男同士で言い合う言葉じゃねぇだろと内心ツッコミながら答える。
顔が熱ぃわ。
まあコイツみたいなキレイでかわいい顔なら、誰に好きと言っても許されるかもしれねぇけど…。
「なら、少しだけ…、許してください」
「へ?ちょ…、」
繋ぐ手の指が、そっと絡められる。
千冬の手にかかっている袖が、俺の親指の付け根を柔らかく掠った。
絡まった指先がジンジンと熱い。
「ち、ちふ…、」
「……」
千冬はもたれかかるように俺の肩に頭を乗せ、柔らかな髪が首元をくすぐる。
肩にかかる頭の重みも、指に絡まる高すぎる体温も、全てが俺の体の自由を縛り付けていくようだった。
「…千冬、」
千冬の異常な様子を目の当たりにして、俺は、千冬に深く同情した。
「そんなに、怖かったんだな…、お前」
「…………」
「気付いてやれなくてごめんな。…あんまり、我慢すんなよ?いろいろと」
努めて優しく言うと、千冬は俺の肩に頭を置いたまま、首を傾けて俺を見上げた。
口は不満そうにムッと尖り、少し赤らんだ潤む目元は、いやに色っぽい。
「いいんですか?我慢しなくて」
「おう。当たり前だろ?」
「………そんなこと言うと、後悔しますよ」
「え?」
千冬は栗色の瞳を細めると、今度は俺の首元に擦り寄った。
千冬の鼻先が、首筋をなぞりくすぐる。
「なっ、おい、くすぐったい…」
言い終わる前に、千冬は、すぅっ、と息を吸いこみ、俺は反射的に首を縮こまらせた。
「ひっ…、ち、千冬っ…!」
小声で反抗すると、繋いでいる手とは反対側の二の腕をやんわり掴み、千冬が顔を上げた。
瞼で少し隠れた挑発的な瞳は、
俺の耳元に唇を寄せ、耳にかかった熱い吐息に俺はまたもや体を縮こまらせた。
「我慢するなって言ったの、先輩じゃないですか」
頭の芯に直接響くような、低く甘い声。
ぞわぞわする感覚から逃げるように顔を背けた。
てか、千冬は何言ってんだよ…?
抵抗しようと腕を動かそうとするも、握られた手も、優しく押さえつけられた腕も、びくともしない。
かわいい顔のくせして、力強すぎだ。
「千冬っ、いい加減に──」
言いかけたところで、エレベーターが到着して扉が開く。
新鮮な空気が流れ込むと同時に、ドッと人が出ていき、箱の中の圧迫感が急激に喪失していく。
「着きましたね。行きましょう、伊織先輩」
「え…、あ、おう……」
千冬は何事もなかったかのようにサッと俺の腕を解放して、身体を離した。
俺の手を引きながら外に出ると、振り返り、柔らかく微笑む。
「伊織先輩、ありがとうございました」
「……おう…」
「おかげさまで、僕、元気になりました」
口角を綺麗に上げ、かわいらしい顔で笑う。
確かに、いつも通りに戻ったみたいだ。
「はぁ…、それならいいけどよ」
「はい。あ、みなさんが見終わる前に、先に串カツ屋に行っちゃいませんか?」
「え!晩メシ、串カツ?」
「そうですよ!旅程は事前に送ってるのに、なんで知らないんですか…」
「へへっ、千冬がいるから安心しきってたわ」
「……もう。ほら、行きましょう?」
「おう!」
千冬はジトっとした目で俺に文句をつけるけど、最後にはちょっと照れくさそうに笑って俺の手を引いた。
見慣れない都会の夜。
外は暗くても人は多く、縁日の夜のように賑やかだ。
涼しい夜風が心地よく頬を撫でて、これから串カツとビールにありつけると思うと気分が上がる。
俺は千冬のピンク頭をわけもなくぐしゃぐしゃに撫で、千冬に笑いかけた。
店に着いたら思い切り飲んでやろう。


