桜と星と初こいと



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「ちゃんと、もっと頼れるような大人になるから」

帰り際、織人(おりと)はそう呟いた。駐車場に、咲良(さくら)と乗ってきた車の姿はなく、咲良は本当に帰ってしまったようだ。

駐車場の向こうに続く道路には大きな桜の木が連なって、春の空を柔らかく包み込んでいる。先程から幾度となく見上げた桜の花びらは、この並木から飛んで来たのだろう。

少し前を行く織人の背中を見れば、少し俯いて歩くその背中が桜の中へ吸い込まれてしまいそうに見えて、(まき)は、きゅっと唇を結んだ。胸の奥がざわざわして、どうしてか、織人が消えてしまいそうな気がして、槙は先を行く織人の手を掴んで引き止めた。

「槙?」

もっと、だなんて。今でも十分過ぎるくらいなのに。自分の為の言葉だと分かっているが、これ以上は逆に織人が遠くに行ってしまいそうで、不安になる。

「…どうした?」
「あ…えっと、」

でも、どう言葉にしたら良いだろうか。槙は迷って、握った織人の手に視線を落とした。
いつの間にか自分よりも大きくなっていた織人の手、綺麗だと思っていた織人の手は、思いの外ざらついて、よく見ると小さな傷やマメの跡があった。綺麗とはいえないかもしれない、でもこの手は、本気で料理人になろうとしている手で、鍛練を惜しまない手で、槙の心を救い続けた手だ。
槙のささくれた心を、いつも大事そうに包んでくれた。槙自身が手放そうとしても、それを引き止め、気づいたらこんな所まで連れて来てくれた。
そう思えば、きゅっと胸が苦しくなって、胸の奥の騒めきは大きくなる。

離れたくないと、強く願ってしまう。

「…それ以上頼りがいがあっちゃ、俺の立つ瀬がないだろ」
「え?」

騒めきに急かされるように口を開けば、織人のきょとんとした声が聞こえて、されるがままだった手が、どこか縋るように槙の指を握った。その変化に、槙が不安を覚えて顔を上げると、織人まで不安そうに瞳を揺らしているので、今度は槙がきょとんとしてしまった。

「…それ、どういう意味?」

おずおずと、織人が聞いてくる。もしかして、織人には、槙の言葉が否定的な言葉に聞こえたのだろうか。不安そうに、けれども、絶対的な意思を持って、織人の指は槙の指を握ってくる。
離さないと言われているみたいで、織人の対照的な表情と行動に、槙は思わず頬を緩めて、その指を大事に握り返した。

「…俺だって、頼られたいし、お前を大事にしたいんだよ」

言葉にする度、胸を占める騒めきが、甘やかな心音に変化していくみたいで、槙はその手を握りしめたまま、そっと織人の肩に額を預けた。

もう頼ってばかりいては駄目だと、自分からちゃんとこの手を握るのだと、織人の側に居たいのだと示したい。ちゃんと気持ちを伝えなくては、またすれ違ったり、何も分からないまま会えなくなってしまうのは嫌だ。

だってもう、こんなにも愛しい。

「俺はもう、お前しか見えてないんだから」

言いながら、槙は照れくささから、その顔を上げる事が出来なかった。
言葉以上の気持ちが、伝わっただろうか。ドキドキと胸が煩くて、落ち着かなくて、それから少しの不安が胸を占めていく。自分に気持ちを伝えてくれる時、織人はいつもこんな気持ちだったのだろうか。思いを言葉で伝えるというのは、こんなにも緊張と不安が満ちるものだっただろうか。
言ってしまった、どうしようと、そわそわとしてしまうが、不意に新たな不安が生まれてきた。

………あれ?

いくら待っても、織人からは何の反応も返ってこない。聞こえてくるのは自分の心音ばかりで、織人からの返事も、握った手の反応も、額を預けたままの肩も、何一つ動かない。
完全なる無反応を示した織人に、槙の頭には途端に、嫌な予感がぐるぐると巡り始めた。

もしかして、引かれた…?

何か気に障るような事をしただろうか、言っただろうか。これ以上大人にならなくても、織人は十分格好いいよと言ったつもりが、また否定的な言葉に聞こえてしまった?それとも向き合った途端、興味がなくなってしまった?

そもそも、そんなに好きじゃなかった?

たどり着いた答えに、槙は一気に顔を真っ青に染め上げた。
もしかして、織人は優しさの延長での好意だったとか?こんなつもりじゃなかったとか?追いかけている内が良かったとか?
一体、どこで勘違いをしてしまった?

槙の混乱は止めどなく、とにかく、分からないけど謝らなくてはと、槙は勢いのままに顔を上げた。

「織人、」

そして、顔を上げた途端、槙の不安や必死な思いは、空に投げ出され、ぽかんとしてしまった。見上げた織人は顔を真っ赤に染め、呆然と槙を見下ろしていたからだ。

「え?何、顔真っ赤、」

指摘されて、織人は今気がついたように焦って顔を背け、それから、ぽかんとしている槙の腕を引っ張ると、背中から覆い被さるように抱きしめてくるので、今度は槙が真っ赤になってしまった。

「ちょ、織人、」
「し、仕方ないだろ!こんなの、嘘みたいで…」

ぎゅっと体を抱きしめて、槙の肩に額を埋めながら、織人は焦ったように言葉を紡ぐ。尻すぼみになった言葉に耳を擽られ、頬に当たる髪が甘えてくるみたいで、槙は胸の奥がむず痒くて、つい笑ってしまった。

「な、何笑ってんだよ!」
「だって、はは、可愛いなー織人は」

そう言って、肩に埋められた頭を撫でてやれば、織人はムッとして顔を起こし、うるさいだなんだ言って擽ってくるので、槙は身をよじってまた笑うしかなくて。気づけば織人の不満顔もどこかへ消え、じゃれ合うように抱きしめられれば、その擽ったさに思わずまた笑ってしまう。

ふと空を見上げれば、空には桜の花びらがふわりと舞っている。桜の花を見る度に、あんなに胸を痛めていたのに、今はちゃんと見る事が出来る。初恋の記憶を胸に、触れ合わせた手から視線を上げれば、こちらを優しく見下ろす織人がいて、槙はその手をきゅっと握り返した。

「帰るか」
「うん」


そして、歩き出す。桜の花びらが舞う、その扉の向こうへ、織人と共に、今度はしっとりと歩幅を合わせて、生きていく。