桜と星と初こいと





「…それで仕返し?」

その声に、いつもは見えない怒りが含まれている気がして、(まき)は困惑して咲良(さくら)に視線を向けた。表情からは読み取れないが、やはり怒っているように見える。自分の為に怒ってくれているのだろうか、だとしたら、咲良の気持ちは嬉しいけど、怒ってもらう資格は自分にはない。槙はそんな思いで口を開きかけたが、それはひなの声によって遮られてしまった。

「…悔しかったのは本当だけど、怖かったから」

思いがけない言葉に、槙は思わず後部座席を振り返った。

「…お母さん、ちょっとおかしい事言って泣いてたから」

「おかしい事って?」と、咲良も戸惑いを滲ませつつ尋ねると、ひなは唇を噛みしめて俯いた。

「…お母さんのせいじゃない、きっと。悪いのはあんたなんだから」

ひなは咲良の問いには答えず、その視線を窓の外へ向けた。
それからひなは、何を聞いても答えてはくれなかった。





ひなの家は、住宅街の中にある、二階建ての一軒家だ。建物の外壁はグレーで、玄関前にはポーチがあり、敷地を囲う白い壁に、胸の高さ程の門扉がある。駐車スペースが建物の隣にあるが、車は実咲(みさき)が使って出て行ったのか空っぽだった。
家の近くにはパーキングがあるので、槙達はそこに車を停め、家の前までやって来た所だ。

ひなが玄関ドアの鍵を開けている間、槙はその手前、門前で立ち止まった。とても入れるような気持ちにはなれなかった。

「…俺、外で待ってるよ」

そう呟けば、ひなが「は?」と、苛立ったように振り返った。

「あんたも来てって言ったじゃん」
「いや、でもさ、」
「でも、なに?」
「………」

問い詰められ、槙は自然と俯いた。
文人の気持ちがどうあれ、槙が文人とそういうつもりで付き合っていたのは変わらない。自分は文人の不倫相手だ、それも文人の死の原因を作った男だ、そんな自分が、文人が家族と共に築いた家に上がるなんて。家族の幸せで満ちていた家に自分が踏み込んでしまったら、綺麗な思い出までも汚してしまうのではないかと、どうしても足を踏み出す事が出来なかった。

それに、ここは、何度も実咲に突き返された場所だ、例えひなが許しても、実咲が許さないだろうし、彼女が不在の中で上がり込むのは、良いものとは思えなかった。

躊躇いに下がる槙に、ひなは怒った顔をして門まで戻ってくると、その手首を掴んだ。驚いて槙が顔を上げれば、こちらを睨むひなと目が合った。ひなは怒っている、苛立っている、泣き出しそうなのを必死に我慢して、この手を掴んでいる、そんな気がして、槙は言葉を失った。

「大人なんだから、しっかりしてよ!私が来てって言ってるんだから!」

許せないはずの手をぐいぐいと引いて、ひなはドアを開ける。槙はひなの行動にそれでも躊躇い、縋るように咲良を見れば、咲良は苦笑い、槙の視線に頷いて返した。それは、ひなに従った方が良いと言っているようで、槙はまだ戸惑いを抱きつつも、それでも意を決して家に上がった。

「誰もいないから、遠慮しないで。正直、私も怖いんだ」

玄関に上がれば、部屋の中がきちんと掃除や手入れが行き届いているのが分かった。きっと、いつ来客があっても困る事はないだろう。母である実咲の丁寧な暮らしが、娘のひなにも受け継がれているのかもしれない。
文人が亡くなって、今もその苦しみを抱えている。彼と共に過ごしたこの家は、きっとその当時のままなのだろう、そう思うと、実咲の文人に対する愛情がこの家に満ちているように感じられて、槙の胸を苦しくさせた。

「綺麗にしてるんだね」
「私も今は友達の家に泊まってるけど、掃除とか風通しにちょくちょく来てるから」
「そうなんだ、偉いね」
「…別に。その…二階は私達の部屋とお母さん達の寝室で、父さんの書斎が一階にあるの」

感心した様子で咲良が褒めれば、ひなは照れくさかったのか、不機嫌な様子で説明してくれる。そのあからさまな様子に、咲良は肩を竦めて槙に目配せするので、槙は少しだけ胸の強ばりがほどけたような気がした。


廊下の突き当たりにその書斎はあった。部屋のドアを開ければ、目の前にはデスクがあり、壁には本棚がある。デスクは磨かれ、筆記用具がきちんと並べられており、本棚の本も埃が被る事はない。

六畳の書斎は、今も主が帰ってくるのを待ちわびているようだった。