それから数日後、槙はぼんやりと学校の廊下を歩いていた。手には生徒達の頭痛の種である、プリントの束を抱えている。
悩んでいても日々は続く。毎日は忙しいし、夜は寂しく思っても、朝になれば慌ただしい一日の始まりだ。
織人もまだ真面目に授業を受けているようだが、あれから槙のアパートにやって来る事もない。織人に距離を置かれていると感じてしまえば、バイト先に様子を見に行く事も、二の足を踏んでしまい、最近は、まともに会話も出来ていない。
可愛い弟が、いよいよ自分の元から離れるのか。
それは、槙にとっても望む事だ、間違って自分なんかを好きになったりしないで、ちゃんと、もっといい人の側にいるべきだ。
槙はそう自分に納得させ、こんな風に自分を納得させているのも、弟が離れていくのが寂しいだけだと、また自分を納得させて。だが、それをいくら繰り返しても、どうしても胸がもやもやとしてしまう。
「ぼーっとしてると転ぶぞ」
階段を上がる途中、いつぞやのように声を掛けられ振り返ると、階段の下には織人がいた。槙は驚くと同時に駆け寄ろうとしたが、案の定足を縺れさせ、体が宙に浮いてしまった。
「え、」
「槙!」
それに驚いたのは織人も同じだ。こちらを振り返ったかと思えば、そのまま倒れてくる槙を見て、織人は慌てて階段を駆け上がり、その体を受け止めた。
まるで、織人の体に飛びつくような格好になってしまったが、どっ、とぶつかる衝撃も織人の胸に吸い込まれ、槙の体はすっぽりとその腕の中に収まってしまった。
お陰で顔面から床にめり込む事はなかったが、両腕を広げて真正面から織人に飛び込んだので、持っていたプリントを華麗にばらまいた挙げ句、階段の周囲でその様を目撃した生徒には、盛大に笑われてしまった。
「何やってんの槙ちゃん!」
「相変わらずどんくさーい!」
「都築先輩カッコいい…」
それに、「え」と反応したのは槙だ、誰か織人をカッコいいと言っていた。自分が笑われるのは気にならないが、織人の事をついさっきまで考えていたからか、槙の耳は目敏くその言葉に反応していた。しかし、織人がそれに気づいた様子はなく、槙の耳元には溜め息が聞こえてきた。
「なんで注意したのに転ぶんだよ」
「う、うるさい!ありがとな!」
はっとした勢いに任せ、反抗と感謝が同じテンションのまま言葉が出た槙に、織人は思わずといった様子で笑った。久しぶりに見た笑い顔に、何だか胸が騒めいて、満たされていくような気さえするから落ち着かなくなる。
「盛大にばらまいたな」
槙とは逆に、織人は落ち着いた様子で槙の体から手を離すと、床に散ったプリントを拾い始めた。
近くの生徒も、「仕方ないなー」と言いながらプリント拾いを手伝ってくれる。槙は「ごめんごめん」と、慌ててプリントを拾いながら、そっと織人の背中に目を向けた。
その背中からは、怒ってるとか、気まずそうといった様子は何も感じられない。いつもの織人と変わらないのに、それならどうして距離を置かれているように感じるんだろうと、槙はまた胸の奥がもやもやとして落ち着かなかった。
もう、自分に興味がなくなったからだろうか。片思いも実らず、兄としても頼りないなら、織人が自分に興味をなくしても仕方ないのかもしれない。
そう思えば、なんだか胸の内に冷たい棘が刺さったみたいで、槙はそれ以上、織人を見ていられなかった。
「気をつけてよー、槙ちゃん」
「うん、ありがとうな」
生徒からプリントを受け取ると、槙は戸惑いつつ織人を振り返った。
「ん」と、拾ってくれたプリントを渡されたが、槙は顔を見る事が出来ず、俯きながらどうにか笑顔を浮かべて礼を言った。しかし、俯く槙を不思議に思ったのか、織人が顔を覗き込んできたので、槙は驚いて飛び退いた。


