桜と星と初こいと





「…(まき)ちゃんが、学校に来たからだよ」

その静かな言葉に、織人(おりと)恋矢(れんや)に顔を向ければ、恋矢は重い空気の気配を消すように、からっと笑った。

「俺、槙ちゃんから、先生と付き合う事になったって聞いても、あんま驚かなかったんだよね。先生の気持ちは分かんないけど、槙ちゃんの気持ちは分かったからさ。槙ちゃんが好きになるのも、まぁ無い事じゃないなってさ」

恋矢は言いながら、丁寧な仕草でパレットに筆を置いた。

「俺は幼なじみとして、槙ちゃんが普通に生活出来るようになったのが嬉しかったんだよ。そりゃ、不道徳な事して何考えてんだってくらい言いたかったけど、槙ちゃん見てたら、先生にだって言えなかった。そしたら先生、急に死んじゃうし、何死んでんだよって、それこそ逃げたのかって腹立ったりもしたよ。でも、逃げたなんて思いたくないのよ俺は」
「なんで」
「槙ちゃん、自分のせいだって思うだろ」

困ったように眉を下げて表情を緩めたその様子からは、槙を思う恋矢の正直な気持ちが伝わってくる。恋矢だって、槙の事を心配して見守ってきたのだろう。恋と友情の差はあれど、それは織人と同じで、同じだと思えば、腹を立てるしかない自分がまた子供のように思えて、織人は堪らず、ふいっと恋矢から顔を背けた。

「…逃げたとして、そいつの勝手だろ」
「でも槙ちゃんは、そうは思わないよ。いくら不道徳でも、先生が槙ちゃんの気持ち変えたのは本当でしょ?槙ちゃんが見てきたものとか、信じたものとか、全部が先生の最期に繋がるなんて…そんなの辛いだろ」

恋矢は寂しそうに笑った。
幼なじみとして、槙が辛い思いをしているのを恋矢は見てきた。恋矢は、自分では何の力になれなかったと悔いてきたのかもしれない。恋矢には、文人(ふみと)が救世主に見えたのだろうか、それが間違った恋だとしても。

「確証は何もない、先生が何を思ってたのかなんて分からない。でも、遺書もない。突発的なって事はあるかもしれないけど、でも、先生が自ら命を絶つなんてさ、やっぱり違う気がしてさ。
それでも、俺らが何を言っても、槙ちゃんの心には届かないんだ。届ける事が出来なかった」

もう自分を責めるのはやめてほしいと思っても、槙は必ず桜の時期には涙を零し、自分が幸せにならないようにと生きてる。
教師と生徒、しかも不倫の恋だ、それは誰をも不幸にする。でも、それを悔いて文人が命を落としたとは言いきれないのではないか。
相手の家族から見れば、槙は責めて憎む存在だろう。でも、咲良(さくら)や恋矢は、槙の友人だ。これ以上苦しむ友人を見たくないと、どうしたって願ってしまう。

「だからさ、…まぁだからって訳じゃないけど、織人は槙ちゃんの側にいてやってな」

ぽん、と恋矢に頭を撫でられ、織人はきょとんとして顔を上げた。話の矛先が突然自分に向けられ、織人は、「だから」と言った恋矢の思いが分からなかった。
恋矢の中で、何がどう自分に繋がったのか、織人は分からずにぽかんとしていたが、ふと、恋矢に頭を撫でられている状況に気づくと、遅ればせながら目一杯に眉を寄せた。そのまま、その手を振りほどこうとしたが、そんな織人の思いに気づいてか、また恋矢はからっと笑ってその手をかわすと、ぽんと織人の肩を叩いて手を離した。

織人は、不機嫌な顔を浮かべたまま、撫でられた頭をくしゃと掻き混ぜたが、内心では、心が沸き立つような思いを感じていた。

今、託されたのだろうか、自分は何も出来ないのに。

織人は絵の具に染まった筆を握りしめ、色とりどりのキャンバスを眺めた。
子供だから、分からない。周りの事とか分からない。
織人はわざとそう開き直った。自分が子供だというなら、それに甘えてしまおう、今は。子供じみた思いでいい。文人の思いとか、文人が槙に与えたものとか、そんなものはどこかに置いて、自分だけは、今の槙だけの事を考える。そういう人間が一人いたって、構わないんじゃないか。
織人は気を取り直して、ただ槙を思う、それを伝える為に、再びキャンバスに向き直った。