アトリエでは、再び三人による作業が進められていた。キャンバスに筆を走らせる織人は、どうしても幼稚になる絵の出来映えに溜め息を吐いて顔を上げた。斜め前には、服を絵の具で汚した咲良の背中がある。その背中を少し眺め、織人は壁に立て掛けられた絵に目を向けた。
線が巡るような絵は、形があるようで形がない。槙は咲良の絵を気に入ってるようだが、何を描いてるのか分からない絵は理解し難く、一体どこが良いのだろうと、織人は首を傾げるばかりだ。
ぐるぐる渦巻くような不思議な絵は、春の芽吹きを祝福しているようでいて、織人を抜け出せない春の呪縛に連れ込むようにも見える。
「…なんで、槙は教師になったんだろ」
学校なんて、槙にとっては良い思い出なんかないだろうに。
ぽつりと呟いた織人の疑問に、隣で絵から顔を上げた恋矢が答えてくれた。
「自分じゃなくて、先生の夢を叶えたかったんだって、先生がする筈だった、教師の人生を代わりに歩むってさ」
どこか投げやりにも聞こえた声に、織人は釈然としない様子で、目の前の絵を睨みつけた。
「なんだよそれ、あいつ何の為に生きてんだよ」
吐き捨てるように言い、荒々しく手を動かす織人に、恋矢と咲良は顔を見合わせた。
槙は、文人の為に生きている。文人の為に教師になった。そんな事、文人は望んでいるのだろうか。
ガシガシと、知らず内に力のこもる手を見かねてか、咲良は立ち上がると、織人の筆を持つ手を掴んで止めた。
「なにすんだよ」
「絵にあたるな、その気持ち、絵に乗るぞ」
静かな低音に、思いがけず言葉が詰まった。冷静に諭された事もだが、咲良にこの気持ちを見透かされている事にも悔しさが込み上げて、織人は咲良から目を逸らし、その手を振り払った。
こんな気持ちを槙にぶつけても、槙はきっと悲しむだけだ。だが、分かっていてももどかしさは募る、募る思いは募っただけ苛立ちに変わっていく。
「でも、それじゃあ、なんであんた達は何も言ってやんないんだよ。あいつ、いつまで背負う気だよ、何で死んだかも分かんねぇ奴の事をさ。好きだったって言ったって生徒に…」
生徒に対して、文人がどこまで本気だったかなんて分からない。結局、大事なのは家族の方だったんじゃないか、槙の事だって、都合の良い相手としか見てなかったんじゃないか。
だって、槙は文人の生徒だ、教師からしたら生徒は子供だ。
織人が途中で言葉を切ったのは、その考えが全て自分に跳ね返ってきたからだ。
織人も、教師である槙に思いを寄せている。それも、二人の関係は織人が子供の頃から始まる。槙は織人の事を、弟のようにしか見られないと、以前言っていた。
今、この世にいない文人よりも、自分が槙の心を埋める事はない。
そう思えば、胸がぎゅっと痛んで仕方ないが、それでも織人が思い浮かべるのは、涙する槙の背中と、無理したように笑う顔だ。
自分がただの弟にしか見られていなくても、それでも、槙の心を苦しめるものがあるなら、織人は許す事が出来ない。
織人はぎゅっと拳を握ると、気持ちを切り替えるように顔を上げた。
「不倫して生徒に手ぇ出すとかさ、そんな奴なのに、あんたらも何で庇うんだよ」
理解出来ないと、織人が不機嫌に言えば、恋矢は困ったように表情を緩めて笑った。


