桜と星と初こいと




久瀬ノ戸(くぜのと)の家の事は、まだ生徒達には知られていないようだったが、散々学校をサボっていたお陰で、(まき)はすっかり不良生徒として周知されており、クラスメイト達には興味と怯えの混じった視線を浴びる事になった。それでも、学校には文人(ふみと)がいる、味方がいる、それだけで槙にとっては心強かった。

文人は、槙の外側ではなく、内側を見てくれる嘘のない人。文人を信じたいと思ったし、信じられると思った、文人は槙にとっての新しい居場所になってくれた。

そんな文人に対する信頼が、恋心に変わるのに時間は掛からなかった。もしかしたら、槙自身が気づいていなかっただけで、出会った時から文人は特別だったのかもしれない。


そうして学校に通い始めた槙だったが、今までより文人と一緒に過ごせる時間が増えるかと思いきや、そうとは限らなかった。たしかに顔を合わす機会は増えたが、二人きりで過ごせる時間はほとんど無くなってしまった。槙が学校に行くようになったので、槙の家に文人が通う事もない。文人は教師なので仕事があるし、生徒も槙一人ではない。分かっているけど、それが寂しくて、少し不安で。だけど、そんな事を打ち明けるのは恥ずかしいし、勇気が出なかった。

文人を特別に思ってしまったから、離れていかれるのが怖かった。もっと近づきたいと望んでしまった、もし、恋心を抱いているなんて知られたら、文人は今度こそ自分を突き放すのではないか。

そう思ったら、臆病が顔を覗かせて、せっかく文人が声を掛けてくれても、上手く顔を見て話す事が出来なかった。

だけど、それでも文人は、槙の視線に合わせて話してくれる。
放課後、階段の踊り場で偶然行き合った時、「さようなら」も言えずに黙って立ち尽くす槙を、文人はそっと頬を緩めて、俯く頭をぽんと撫でた。校内に響く生徒達の賑やかな声が、途端に遠くに消えて、槙は目を瞬いて顔を上げた。

「最近、元気ないな。何かあった?」

その腕の距離に自分がいて、その瞳いっぱいに自分を映してくれる。この瞬間だけ二人きりで、今だけは自分だけを見てくれている、そんな風に思えば、顔が熱くなって、どうしてか泣きそうになって、それでも振り払えないこの距離に、槙は必死に視線を俯けて声を絞り出した。

「…なんもない」

そう言いながら、槙はどうしても気持ちが抑えきれなくて、文人がいつも着ているカーディガンの裾を小さく握った。この距離にまだ自分を置いてほしくて、でも、言葉にするのは怖くて、心はもどかしいくらい揺れ動いて落ち着かない。そんな槙の姿を、文人はどう思っただろうか。ややあって、文人はそれきり黙ってしまった槙の手をそっと握った。誰が通るとも限らない階段の踊り場、文人は人が来ない事を確かめたのだろうか、それとも、ただの生徒の手を握ったくらいで、文人にとっては何の問題もない事なのかもしれない。でも、槙は違う。他の誰とも違う、文人の前でしか、こんな風に苦しくなる程、胸を打ち付けたりはしない。

槙が反射的に顔を上げれば、文人はそっと微笑みながら、ゆっくりとカーディガンから槙の手を離していく。途端に寂しい思いが胸を過ったが、離れるとばかり思った手が、文人の大きな手にそっと包まれて、槙はどきりと胸を震わせた。

「他の先生達とも話してたんだけど、久瀬ノ戸君、ちょっと勉強遅れてるでしょ?放課後、時間作れるなら、勉強会をやれないかなって」
「…それ、あんたが見てくれんの?」
「僕は、担任の先生だからね、責任を持って、」
「やる!勉強する!」

思わず勢い込んだ槙に、今度は文人が目を瞬いて、それから彼は嬉しそうに笑って、わしゃわしゃと槙の頭を撫でた。

「それじゃ、授業の遅れを取り戻す為に頑張ろうね」
「うん!」

槙の心を占めていた、寂しさや不安は一気に吹き飛んで、翌日から、早速二人きりの授業が始まった。