桜と星と初こいと



この時の文人(ふみと)が、(まき)の家系の事を知っていたのか槙には分からなかったが、槙は文人に知らしめてやろうと思った。
自分の家系の事を知れば、文人も怖がってここには来なくなる。人とはそういうものだ、優しくしてくれても上辺だけで、それも最初の内だけだ。その内、誰も自分には近寄らなくなる、ヤクザの家の出だと知れば、皆、槙とは無関係を装うのだ。
誰だって、自分の事が大事だ。槙は、それでいいと思っている。自分を必死に守る気持ちは、槙にも分かる。槙だって自分を守ろうと思うから、学校にも行かないし、うっかり信じてしまいそうになった文人を、こうして突き放そうとしている。

もう、誰かの優しさに期待して一人傷つくのは、懲り懲りだった。


「うちのじーさん、ヤクザやってんの。久瀬ノ戸(くぜのと)組、母さんはそれが嫌で家を出た。でも、結局バレるから、また、誰も知らないこの町に来たんだ。こいつも組員だよ、あんまりしつこいと、あんたどうなるか分かんないよ」
「久瀬ノ戸君、」
「だから、もううちに来んな。五体満足でいたきゃな」

槙はそう言うと、何か言いかけた文人をそのままに、玄関のドアを閉めると鍵を掛けた。トン、と、ドアに手を当てたような音が聞こえたが、文人はそれ以上、何かを言うでもなく、その内に遠ざかる足音が聞こえてきた。

「坊っちゃん、良かったんですか?あんな堂々と言って、もし言いふらされたりしたら、また」
「良いんだよ、どうせ知られる事になるんだ」

これで良い。もし、文人が槙の家がヤクザの家系だと知らなかったとしても、今の槙の発言で調べるだろうし、そうしたら、文人も納得して、きっとこの家に来る事もなくなる。今までも、そうだった。教師も友人も、槙の家系を知れば、途端に厄介なものを見るように遠巻きに眺め、そして噂話をして、睨めば怯えたような視線を向けられる。

どうせ居なくなるなら、期待なんてさせないで欲しい。もう誰もいらない、母親がいて、龍貴がいて、恋矢がいて、槙にはそれだけで十分だった。だから、もう放っておいてほしかった。



しかし、その翌日、槙は言葉を失う事になる。文人が何事も無かったかのように、翌日も現れたからだ。

「なんで、あんた怖くないのかよ!」

そう噛みついてみせても、文人は柔らかに笑うばかりだ。

「久瀬ノ戸君は僕の生徒だから、怖くないよ」
「だから、俺じゃなくて…」
「君のお祖父さんが何をしていようが、君が僕の生徒には変わりないからね」

その柔らかくも芯を持つような言葉に、槙の心はまた揺れそうになる。

そんなの上辺だけだ、本心は分からない。今までだって、物分かりの良い事を言いながら、本心では恐れ、結局、自分は否定され続けてきた。

文人もそれと同じだと、槙は何度も自分に言い聞かせてみても、見上げた眼差しは真っ直ぐと槙を見つめていて、どうしても、その言葉が嘘だとは思えなかった。
柔らかに微笑み、文人はそっと槙の頭を撫でた。どうしてそんな事をするんだ、どうして優しくなんかするんだと、心は必死に抵抗しようとするのだが、どうしてか体が動かなくて。俯いた足元に、ぽた、と滴が落ちて、槙は自分が泣いている事に気づいた。

そして、思わされる。自分は、この教師を信じたいのだと、槙は、もう自分に嘘はつけなかった。

「大丈夫、僕は君を怖がったりしないよ。だから大丈夫、怖くないからね」

優しく大きな手のひら、槙が恐る恐る顔を上げると、文人はまるで槙を包み込むように、優しく微笑んでくれて。
真っ暗な夜空に見つけた、ただ一つの星みたいだった。



それから少しして、槙は学校へ通うようになった。
朝の何でもないような会話が心地よくて、もう少し一緒に話していたくて、側に居たくて、もっと知りたいと思ってしまって。そうしたら、学校や他人への恐怖が不思議と薄れて、学校が文人に会える特別な場所のように思えてしまったからだ。