あれから槙は織人を意識してしまい、クローバーに行っても店内に入る事が出来ず、学校では必要以上に話しかける事も出来ないという日々が続いていた。
本日も、そんな日だった。昼休みを迎えた校舎をうろうろしていると、織人の姿が見えた。校舎の端で友人といるようだ。
あれは以前、織人を夜遊びに連れ出そうとしていた、鈴木と福本だ。また夜遊びの算段でも立てているのかと、槙は自然と眉を寄せ、目を細めてしまう。目を細めたって話し声は聞こえないのに。
そんな風に、壁の影に隠れて様子を窺っていれば、「何やってんの?」と、白けた声が背中にかかり、槙はびくりと震えて振り返った。
「なんだ、お前らか…」
そこには、三人の女子生徒がいて、槙の反応を見て、三人の女子生徒は露骨に不機嫌な顔をした。
「なんだって何?」「感じ悪い!」そうむくれる生徒達に、槙は慌てて壁の影から身を離した。こんなところで騒がれて、もし自分が居ることが織人に気づかれたら、こっそり織人を見ていた事がバレてしまう。そんな事が知れたら、織人はどう思うだろう、勝ち誇ったように笑うだろうか、それとも、いい加減飽き飽きしたと、冷たく見放されるのだろうか。
槙はそんな想像をして、きゅっと唇を噛みしめた。この期に及んで、まだ自分勝手な想像しか出来ない自分が嫌になる。織人は、こんな自分にいよいよ呆れて距離を置いているかもしれないというのに、まだ往生際悪く、遠くへ行ってしまわないでと望む自分がいる。
「ごめんごめん、どうした?」
「これ開けてー」
そんな思いを慌てて頭の隅へ追いやって、槙は精一杯、教師の顔をして彼女達に向き直った。困り顔の彼女達から、ずいっと差し出されたのは、小さな蜂蜜の瓶だった。
「何これ、蜂蜜?」
「パンに塗るの。それ超美味しいんだよ!」
「へぇー、ちっさいな、開かないの?」
「だから頼んでるんじゃん!」
「…そうでした」
「早く」と急かされ、槙は手に力を込め瓶の蓋を捻るが、これが全く開きそうもない。
「開かないのー?」
「待って、開く開く」
そう言うが、まったくもってびくともしない瓶の蓋。
「かってぇな!なんでこんなの持ってくんだよー」
「皆に食べて欲しかったんだもん」
「気持ちはわかるけどさー」
「槙ちゃん意外と非力ー」
「鍛えてるんじゃないの?それ何の筋肉?」
なかなか開かない蓋に痺れ、生徒が槙の腕を突いてくる。控えめに触るものだからこそばゆく、槙はくすぐったそうに身をよじった。
「はは、やめろよ、触んなって!」
「槙ちゃんて、顔は良いんだよねー」
「人柄も良いんだけどねー」
「何だよ!モテない男みたいに言うなって!てか、先生だろ」
「槙ちゃんは同級生っぽい」
「カズ先生の方が先生っぽいよね」
「少しは俺も敬え」
「じゃあ、開けてよそれ」
「待ってろって、だからくすぐったいから!」
端から見れば、きゃっきゃと女子生徒と戯れているようにしか、いや、完全に遊ばれてるようにしか見えない槙だ。それでも真面目に瓶と格闘していると、新たな腕が後ろからにゅっと伸びてきた。
「あ、」
皆が目を向けた先には、織人がいた。織人は何も言わず、槙の肩を軽く掴んで自分の方へ向けると、空いた片方の手で、槙の手から蜂蜜の小瓶を取り上げた。
小瓶の行方を目で追いかけた槙だが、その視線が止まったのは、無表情の織人の顔だ。何か怒ってるのかと思ったが、肩に触れる手は柔らかい。突然の事にぽかんとしていれば、不意に織人がこちらを見下ろしたので、槙は慌てて視線を外した。
…いや、目を逸らすのはおかしいよな。
側には人の目もある、槙と織人は、その関係を知らない人々からすれば、単なる教師と生徒で、教師が生徒からあからさまに視線を逸らす姿は、他の人からはどんな風に映るだろう。二人の間に何があったか勘づく人間はいないにしても、何かあったのではと察する人間はいるかもしれない、そんな事になりでもしたら、織人の評価に傷がつく、それは避けなければならない。
人が下す評価の残酷さを、槙は痛いほど知っている。
「織…、都筑、」
危うく下の名前を言いそうになりながらも踏み止まり、槙が焦って顔を上げると、織人の視線は自身の手元にある蜂蜜の小瓶に向けられていた。そして、ふと気づく。手の触れる距離に居た女子生徒達と、距離が出来ている事に。


