その後の車内では、ますます言葉少なくなってしまった槙を気遣ってか、龍貴の口は良く回った。
ジムで起きた事や、ご近所の奥さんとの立ち話で得たスーパーの安売り情報、そのスーパーの人事の裏に隠された秘密など、槙にしてみればどうでも良い話だが、そのどうでも良さが、槙の心を蝕む影を少しずつ宥めたのかもしれない。
途中でご飯屋さんに立ち寄り、ちょっとその辺をドライブして帰れば、アパートに着く頃にはすっかり日が落ちて、槙の表情も幾分柔らかくなっていた。
夕飯はどうしようか、なんて会話を挟みながら、龍貴がひとまずアパート脇に車を停めると、アパートの二階、槙の部屋の前に人影が見えた。
「お、ナイトの登場っすね」
「違うから」
龍貴のからかいに、槙は苦々しく言いながら車から降りた。部屋の前で待ちぼうけをしていたのは織人で、織人もこちらに気づき、アパートの階段を駆け下りてきた。
「お前、バイトは?」
「早めに上がった」
「なんでまた」
「…別に、俺の勝手だろ」
織人は不機嫌そうに、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。だが、誤魔化しきれない思いが、その顔を赤く染めている。
きっと、織人は少しでも早くと思って、槙に会いに来てくれたのだろう。それは織人の為のようでいて、槙の為でもある。今日が槙にとってどんな意味を持つ日なのか、織人もそれを知っているからだ。
「織人さん、今日は泊まってくんすか?」
龍貴は、どこかそわそわとして尋ねた。龍貴からすれば、織人は大分年下で付き合いも長い、それでも槙にとって大事な人は、龍貴にとっても大事な人だ。なので、自然と敬意を払った態度になる、龍貴なりの、だが。
「そのつもりで来た」
龍貴の問いかけに、織人はスーパーの袋を掲げた。それを見て、槙は眉間に皺を寄せた。今晩の夕飯は、織人の手料理で決まりのようだ、それに対して龍貴は「良かったっすね!坊っちゃん」と、槙の顔を覗き込んだが、槙は嬉しさやら気まずさがない交ぜになったような、微妙な表情を浮かべるので、それを見た織人は、不機嫌そうに唇を尖らせた。
「なんだよ、その顔」
「いや、ほら…たまには織人もさ、母ちゃんとのんびりしたら?」
「昨日のんびりして来た。だから、良いんだよ」
昨日は、織人の母親も休みだったのだろう。織人の母親は、女手ひとつで織人を育てて来た人だ、今も変わらず仕事を掛け持ち、忙しい日々を送っているという。だから、自分の家にばかり来ないで、母子水入らずの時間を大事にして欲しい、そんな思いで槙は言ったのだが、織人はそんな槙の思いも見抜いていたように、槙の断る口実を断っていく。
「でも、」
そう言葉にしかけて、槙は続く言葉を飲み込んだ。織人を見上げれば、良いと言うまでこの先には行かせない、そんな意思がありありと伝わってくる。槙にとって織人はどうしたって可愛い存在だ、最近は織人が何を考えているのか分からない事も多くなったが、織人が可愛い事には変わらない。それでも、今日は特別な日だ、今日のこの日に織人が側に居てくれること、それを自分に許して良いのか、槙には葛藤があった。
「なんだよ、いつもの事だろ。母さんにも言ってあるし、飯だって作って置いてきたし、帰ってくるの夜中だから、それまで俺どうせ一人だし。それに、あんたの家はすぐ散らかるし、それ片したりしてんのは俺が勝手にやってるだけだし、飯だってそうだろ」
槙の抱く、いつもとは違う葛藤に、織人も気づいているのだろう、それでも引けないのだと、織人は自分が槙の側に居ても良い理由を、断る必要のない理由を探して埋めてくる。不機嫌そうにムッとしながらだが、それが健気に見えてしまって、槙の心はどうしたって和らいでいくようで。
「…分かったよ」
結局、折れてしまえば、織人は嬉しそうに瞳を瞬かせた。だが、それも一瞬の事で、すぐに何故か勝ち誇ったかのように笑うので、槙は思わずといった様子で吹き出してしまった。


