赤い月の下で、半年間がひとつの世界になった

 別れまで1か月を切った、10月初旬。
 俺たちは再び、「日本のベンメリア」の屋上にいた。忙しい弓月にこの日だけはと、空けてもらったのだ。季節は確実に進み、仲秋を迎えた廃校では、ツタの葉が赤く染まり始めている。

 10月の夜気は寒々しくて、もう、夏の虫や蛙の声は聞こえない。屋上には、秋風に運ばれてくる落ち葉のカサカサした音だけが響いている。

 夜更け、漆黒の闇の中で皆既月食は始まった。地球の影が月を覆い隠し、徐々に月が赤く色づいていく。
 白から灰色、橙、そして血の色へと変わっていく――月の移りゆく様子は幻想的だ。
 俺たちの頭上に、血を流したように真っ赤な月(ブラッドムーン)が浮かんでいる。

 その運命的な赤い光は、俺たちの別れを突きつけるように静かに輝いている。
 ゆっくりのようで、あっという間だった……まるで、俺たちの半年間みたいに。この楽しい日々が終わる実感なんてなかったのに……気づいたら、弓月の隣が当たり前になっていたのに……。

 弓月は膝を抱えて、赤い月を見上げている。その横顔は穏やかで、感動しているみたいだ。瞳がキラキラしているように見えるし……赤い月明かりが彼に影を落とす。

 ふいに、怒った顔、笑った顔、泣きそうな顔、いろんな弓月の姿が脳裏に蘇る。全部知っているはずなのに、今夜の彼は初めて見た気がする。こんな風にころころと変わる表情が、もうすぐ見られなくなる……考えるだけで胸が張り裂けそうだ。

「これ、凄いな、真っ赤な月……カンボジアでも見れるかな」
「うん、見れる。1年か2年に一回は見れる」

「じゃあ、次は、アンコールワットで見ようかな」と言った弓月は、赤い月から目を離さないまま、ふっと口元を緩めた。

「あ! それいいな! 俺行くわ、アンコールワット。池に赤い月が映るんだろ? きっとすげーぜ」

「あそこ、神様の家だからな、すげーと思うぞ。それに、3年後なら20歳だし、自由に動けるし、来れるかもな」

 心臓が強く脈打った。こんな約束が出来ると思わなかったから。

「俺、絶対行くから! その時、アンコールワットで待ってろよ」

 俺たちは、この赤い月の下で、3年後の再会を誓い合った。
 空を見上げながら、不意に弓月が呟く。

「俺たち、同じ月を見てる限り、迷わねぇよな。どこにいても」

「うん」と軽く頷いたけど、赤い月を眺めていたら、寂しさや不安な気持ちが溢れて、心の底から湧き出る恐怖を隠せなくなってしまった。弓月の前だと、何故こんなにも感情が外に出てしまうのか。

「短すぎるだろ……。帰るなよ! 俺だけ置いてくなよ!」

 突然飛び出した本音に、弓月はこちらを見ることなく、真っ赤に染まった月を睨みつけていた。それは見慣れない表情で、普段の彼のイメージとは違い、激しい葛藤が滲んでいる気がした。

「……俺だって、サクがいるから日本にいたいよ。このまま二人して崩れ落ちるまで、ここで一緒にいたい。でもな、俺が帰らないと、向こうで俺の家族が、瓦礫になっちまうんだ」

 彼の人生は、家族のためにある。とても立派なことだ。俺の知らない自己犠牲という精神……。俺の親は俺がいなくても、瓦礫にはならないだろうから。

 弓月がリュックサックから荷物を出そうとしていた時、金具にぶら下がっていた赤い糸で編まれた小さなお守りみたいな物に、視線を奪われる。

「これって、お守り?」
「うん。これ、カンボジアのお守り。日本のとは違うけど、僧侶が祈祷してくれたやつ。家族の無事とか、旅の安全を祈るものなんだ」

 弓月は懐かしそうに、それに軽く触れる。

「親父が元気だった頃に、家族でもらったんだ」

 弓月が大事そうに扱うから、なんか気になって、俺もそのお守りを見つめ続けた。

「……大事なもんなんだな」
「うん」

 最後に、お互いが撮影した赤い月の写真を見せ合い、同じ画像を待ち受けにした。
 そして、赤い月が見えなくなった頃、俺たちは帰路についた。

 *

 それから、時間の流れは加速し、毎日が恐ろしいほど早く過ぎていく。
 俺たちは、できる限り一緒にいた。放課後には、図書館に寄ったり、ヤギ小屋を見に行ったり、週末は必ず「日本のベンメリア」に行く。そこで、ただ月を見上げたり、他愛もない話をする。普通に過ごすその時間を、二人とも大切にしているのが分かってしまう。

 互いに無くてはならない存在になってしまった今、俺たちは一人になった時、どうなってしまうんだろう。

 弓月と過ごした日々は宝物だ。俺は別人みたいに変わったし。
 孤独なのは普通で、慣れっこだったのに……弓月がいなくなるなんて、俺、耐えられるのか……?

 10月31日が来るのが怖い。一生来ないで欲しい。神頼みしても無駄なのか?
 弓月が去った後のことを考えても、想像がつかない。

 そうこうしているうちに、とうとう明日だ。
 楽しい時は終わりを告げ、別れの時が刻々と近づいていく。