赤い月の下で、半年間がひとつの世界になった

 今日も、空いた穴から、ぼんやりと欠けた月が見える。俺は屋上の縁に座り、夜風に吹かれていた。やっぱり、気持ちが落ち着くし、ここでは、呼吸が上手く出来る。

「もう帰りたくねぇな。いっそ、瓦礫になってやろうかな……」

 誰に言うでもなく、「死んでやるー」と叫んだ。その声は、夜の闇に吸い込まれて消えた。

 ここは、いつになく静かだ。風が吹くたびに、ツタの葉のざわざわという音だけが聞こえてくる。
 弓月がいなくなったら、またここに、しょっちゅう一人で来るんだろうな……。
 月を見て、誰にも見えないように透明になって気配を消す。それでいいと思っていたはずなのに。
 なんで今夜は、こんな気持ちになるんだろう……いつの間にか、一人でいることが怖くなっていた。

「あー 弓月と話したいのに、スマホは家だ。ホント俺ってバカだな」
 ブツブツ独り言を言ってから、ふて寝した。


 どれくらい時間が経ったのかわからない。気づけば、暗闇に包まれていた。持参したランタンを付けると、ボヤっとした灯りがゆらゆらと揺れ始めて、コンクリートの壁にひとつの影が広がっていく。

 その時、突然、階段を駆け上がる音が聞こえた。
 誰かくる? と身構える。

「えっ、なんで……」

 そこに、真っ赤な顔で息を切らした弓月が現れて、俺は驚きのあまり腰を抜かしそうになる。彼は俺を見るなり、安堵と怒りの入り混じった、複雑な表情を浮かべた。

「……いた。良かった……」

 スマートフォンのライトと月明かりを頼りにやって来たらしい。Tシャツは汗で張り付き、髪は乱れている。

「チャットも返信ないし、なんか嫌な予感がして、サクの家行ったら、お母さんに家出したかもって言われて……」

 とっさに立ち上がろうとしたけど、ガクッと膝から力が抜けた。
 そう言えば、弓月はここを知っていたな……でも、わざわざ探してくれるとは……。こんな所まで必死に走って来て――俺と弓月しか知らない秘密の場所に。

 もう、言葉が出なくて……張り詰めていたものが崩れた。

「それで、ここまで来てくれたのか? 悪かったな……」
「やっぱり、今日はここに泊まるのか?」
「うん……まあ、そうなるな」

「わかった。今日は帰らなくていい。でも……俺に何も言わず消えんなよ!」
「なんで探すんだよ? 俺定期的に家出してるから、慣れてるし、大丈夫だから帰れよ」

 俺は、冷たい声で返した。忙しい弓月に付き合わせるわけにはいかない。
 弓月は少し間を置き、そして、叫んだ。

「何で探しちゃダメなんだ?」

 月明かりの中の弓月は、怒っているのか泣きそうなのか、よくわからない。
 こんなの初めてだ。俺のために、ここまでするヤツがいるなんて……。

「えっと……」

 真剣に俺のこと怒ってくれるなんて、まだ信じられない。
 すると、弓月の声が、夜の闇に響いた。

「瓦礫になりたいのかよ! 誰にも繋ぎ止められない、ただの瓦礫の石になりたいのかよ!」

 彼の言葉は、あまりにも的を射ていて、何も言い返せなかった。
 弓月は目を真っ赤にして、続けた。

「毎日、放課後一緒に遊んで……半年だけかもしれないけど。お前いなくなったら……俺、ひとりになるの無理なんだけど」

 その言葉が、崩れかけた心に絡みつくツタみたいに、俺を離さなかった。

「それ、こっちが言いたい……お前がいなくなったら、俺どうなんの? また、透明人間になるしか……」

 弓月が一歩、俺に近づいた。

「バカ! お前は透明じゃねえ! 俺には見えてる! ずっと見えてるし!」

「でも、お前はいなくなるんだろ? ほっとけよ」

「いなくならねえよ!」

 弓月の声が、割れた。

「俺が向こうに帰っても、お前はここにいる。俺はここにいなくなっても、お前のことは忘れない。同じ月を見てる限り、俺たちは繋がってるから」

 その言葉で、涙がぶわっと溢れてしまった。どうしよう、全然止まらない。
 そんな俺に、弓月はまた一歩近づいた。

「もう、瓦礫になるとか、そんなこと言うなよ?」

 その声は小さくて、夜風にかき消されそうだった。

「お前が瓦礫になったら、俺が困る。お前がどれだけ崩れても……」

 息を呑んでから、静かに言った。

「心がバラバラになってもいい。全部、俺が拾う。お前の骨の最後の一片まで拾ってやるから」

 その瞬間、胸の奥がぎゅっと痛んだ。
 弓月は強すぎだ。真っ直ぐすぎる。

「……なんで、そこまで言うんだよ。俺なんかのために……なんで……」

 視界がぼやけて、何も見えない。

「理由なんかねぇよ」

 風の音だけが、二人の間を通り抜けていく。

 *

 話し始めたのは、どちらからだったのかもう覚えていない。
 俺たちは、そこから一晩中、言葉を交わした。
 俺は家での孤独を、弓月は家族の話を、すべて吐露する。

 弓月の家族の話は、電話でも軽く聞いたけど、しっかり話したのはこの日が初めてだった。お父さんの病状や弟妹のこと。このまま状況が悪化すれば、家族全員が日本に帰国し、カンボジアでの生活が終わってしまうこと。

「親父が元気だった頃は、毎月シェムリアップの領事館に出張に行くから、家族全員で旅行がてら、アンコールワットに行ってたんだ。あそこが、俺の……一番のお気に入り」

 弓月は、夜空を見上げた。

「でも、親父が体調崩してからは、行ってないな……。俺、長男だからさ、責任あって。俺が戻らないと、母さんも弟たちも、もう限界みたいだから」

 すべてを話してくれたけど、思っていたより、大変そうだった。
 俺、家出してる場合じゃないよな……。平和ボケしてるって思った。自分のことしか考えず生きてるのが、子供っぽくて恥ずかしい……。

 東にブルーモーメントの空が広がり、展望台の破れた屋根がうっすらと姿を現した。幻想的な景色だ。小鳥のさえずりが聞こえて、夜明けが、ゆっくりと近づいてくる。

 弓月が、ふいにこぼした。

「……なあ、サク。ベンメリアってさ、崩れても終わりじゃないんだ。木が繋ぎ止めてるから、また新しい形で残ってる。ここもそうだよな」

 弓月の横顔をふと見上げたとき、いつもより頼り甲斐がある大人みたいだ、と思った。

「じゃあ、帰るか」
「うん。死ぬなよ」

「死なねぇよ」と俺は、口の端を上げて言った。

「知ってる。俺が怒るし」

 弓月はそう言って、笑った。壊れそうな二人が、互いを繋ぎ止めた夜明けだった。

 早朝、家に帰ると、玄関の鍵は開いたままで、リビングからは物音ひとつしない。それでも、ダイニングのテーブルには、ラップをかけた皿が俺の席に置かれていて、「レンジでチンして食べな」とメモが残されていた。