9月中旬になると、弓月の帰国への焦燥感が、俺たちの間に影を落とし始めた。
弓月といる時間は、まるで太陽の陽射しを浴びているように暖かく、グレーの世界を忘れさせてくれる。しかし、学校から家に帰ると、俺の存在は壁のシミのように薄くなり、孤独は決して消えなかった。
この日の夜、弓月から珍しく電話がかかってきた。彼の声はいつもより低くて、どこか疲れた様子だ。
「サク、ちょっといいか」
「どうした」
「……帰国日、決まった」
その言葉で、俺の心臓は止まった。
「10月31日。ハロウィンだってさ」
弓月が、無理やり笑おうとしているのが、痛いほど伝わってきた。
「まだ、あと一か月半あるけど……なんか、急に実感湧いちゃって」
電話の向こうで、息を吸い込む音が聞こえる。
「……母さんから、電話あってさ。向こうの状況が、思ったより悪いみたいで」
「悪いって、何が」
「……親父が倒れたんだ。過労で」
俺は、息を呑んだ。
「意識は戻ったけど、プノンペンの病院じゃ検査する機材が全然足りなくて……結局、バンコクの病院に運ばれた。今、母さん一人で付き添ってる」
「バンコクまで運ぶって、そんな遠くまで……」
「うん。カンボジアだと、ちょっと重い病気とか怪我になったら、タイに運ばれるんだ。あの国では高度医療が受けられないから」
「日本は遠いからか……」
「そう。親父が倒れたのも、大使館の仕事がめちゃくちゃ忙しかったらしくて、無理してたみたいだ」
弓月の声が、少しだけ沈んだ。
「おまけに、頼りにしてたメイドも急に辞めちゃって……。日本と違って、向こうは全部が人手で回ってるから、メイドがいなくなるってことは、家が止まるってことなんだ」
「お母さんは……?」
「バンコクでも一人で、家事と弟妹の面倒と、病院の付き添いもして、現地での手続きも全部止まってるみたいで……」
「大変なんだな、海外生活って……」
「バンコクの病院とのやり取りも、母さん、英語そんな得意じゃなくて。親父の秘書のカンボジア人スタッフが窓口なんだけど、その人も日本語話せるわけじゃないから、結局俺が電話することになってる」
「弟たちは?」
「あいつら、言葉はわかっても、内容まではわかんねーし。まだ、小学生だし。だから、俺しかいないんだ」
力なく笑い、声は掠れている。
「俺がここに来たのは、半分逃げだったんだ。交換留学で日本に来たのは、日本の学校に通ってみたいって思ってたのもあるけど、家族から離れて、親父みたいに外交官になるのか……とか考えたくて。でも親父が倒れるなんて思わなかったから」
俺は、何も言えずに立ちすくんでいた。
「半年経ったら戻らなきゃいけない。それが条件だったけど、上手く延長出来ないかな? とか考えてた。日本が思ったより楽しくて……」
声がさらに低くなる。
「でも、親父の病状や、家のことが大変だから、自分の学校や進路のこと考えてる場合じゃない。俺がいない間に、母さんも弟たちも限界きてる。俺が戻って、崩壊寸前の家族を繋ぎ止めないと……サク、お前に会えて良かったよ。本当に」
電話がブツっと切れて、俺は呆然としたまま、部屋の窓から夜空を見上げた。月は、まだ半分も満ちていなかった。同じ年齢なのに、全然違う環境に置かれている弓月のために、俺は何をしてあげられるんだろう。
それから2週間は、帰国の準備で弓月は忙しそうで、一緒に遊ぶことも減ってしまった。チャットで短いやりとりをすることが増えて、あまり話せていない。
俺の心にも、暗い影がじりじりと迫っているようだ。弓月との別れが日々近づいていく。
それに加え、家での空気が重くなっていた。
父は仕事のストレスからか、些細なことで苛立つようになり、食事中に俺が椅子を引く音が煩いと怒鳴り、テレビのボリュームが気に入らないと舌打ちをする。
母は、相変わらずスマートフォンから目を離さない。俺が話しかけても、生返事ばかり。
この2週間、ほとんど家族と口を利いていなかった。
9月下旬の蒸し暑い夜。きっかけは、本当に些細なことだった。
リビングでノートを広げていた時、父が「邪魔だ」と一言だけ言って、ノートをテーブルの端に押しやった瞬間、俺の中の堪忍袋の緒が切れた。
「……いつも邪魔なんだろ、俺」
そうこぼすと、父にぎろっと睨まれた。
「お前は、生意気なんだよ!子供のくせに! いったい、何考えてんだ? 何も言わないし! まるで、いてもいなくても同じだ!」
父の言葉が、心に突き刺さる。傷つけられるのは慣れているけど、今日は我慢できそうにない。
母は一瞬、父を宥めようとしたが、すぐ諦めて口を閉ざし、俺に向けて「謝りなさい」とだけ告げた。
父を睨みつけるが、言い返す言葉が出ない。
「どうせ、出ていくんだろ? 気が済んだら、すぐ帰ってくるんだから」
父はそう吐き捨てて、テレビに視線を戻し、母もそれ以上は何も言わなかった。
俺は、踵を返して自分の部屋へ走った。父の怒鳴り声がまだ耳の奥に残っていて消えないし、もう、ここにはいられない。部屋の机の上にあったスマートフォンは、電源が切れていたから、そのまま置いていく。親と連絡がつかないようにする、ささやかな抵抗だ。
何もかも嫌だった。弓月との奇跡のような半年が終われば、この世界が完全に瓦礫になる。それなら、いっそ今、この瞬間に壊れてしまいたい。
リュックに家出に必要なものを詰め込み、衝動的に家を飛び出した。
行先は決まっている。俺の秘密基地、「日本のベンメリア」へ。
弓月といる時間は、まるで太陽の陽射しを浴びているように暖かく、グレーの世界を忘れさせてくれる。しかし、学校から家に帰ると、俺の存在は壁のシミのように薄くなり、孤独は決して消えなかった。
この日の夜、弓月から珍しく電話がかかってきた。彼の声はいつもより低くて、どこか疲れた様子だ。
「サク、ちょっといいか」
「どうした」
「……帰国日、決まった」
その言葉で、俺の心臓は止まった。
「10月31日。ハロウィンだってさ」
弓月が、無理やり笑おうとしているのが、痛いほど伝わってきた。
「まだ、あと一か月半あるけど……なんか、急に実感湧いちゃって」
電話の向こうで、息を吸い込む音が聞こえる。
「……母さんから、電話あってさ。向こうの状況が、思ったより悪いみたいで」
「悪いって、何が」
「……親父が倒れたんだ。過労で」
俺は、息を呑んだ。
「意識は戻ったけど、プノンペンの病院じゃ検査する機材が全然足りなくて……結局、バンコクの病院に運ばれた。今、母さん一人で付き添ってる」
「バンコクまで運ぶって、そんな遠くまで……」
「うん。カンボジアだと、ちょっと重い病気とか怪我になったら、タイに運ばれるんだ。あの国では高度医療が受けられないから」
「日本は遠いからか……」
「そう。親父が倒れたのも、大使館の仕事がめちゃくちゃ忙しかったらしくて、無理してたみたいだ」
弓月の声が、少しだけ沈んだ。
「おまけに、頼りにしてたメイドも急に辞めちゃって……。日本と違って、向こうは全部が人手で回ってるから、メイドがいなくなるってことは、家が止まるってことなんだ」
「お母さんは……?」
「バンコクでも一人で、家事と弟妹の面倒と、病院の付き添いもして、現地での手続きも全部止まってるみたいで……」
「大変なんだな、海外生活って……」
「バンコクの病院とのやり取りも、母さん、英語そんな得意じゃなくて。親父の秘書のカンボジア人スタッフが窓口なんだけど、その人も日本語話せるわけじゃないから、結局俺が電話することになってる」
「弟たちは?」
「あいつら、言葉はわかっても、内容まではわかんねーし。まだ、小学生だし。だから、俺しかいないんだ」
力なく笑い、声は掠れている。
「俺がここに来たのは、半分逃げだったんだ。交換留学で日本に来たのは、日本の学校に通ってみたいって思ってたのもあるけど、家族から離れて、親父みたいに外交官になるのか……とか考えたくて。でも親父が倒れるなんて思わなかったから」
俺は、何も言えずに立ちすくんでいた。
「半年経ったら戻らなきゃいけない。それが条件だったけど、上手く延長出来ないかな? とか考えてた。日本が思ったより楽しくて……」
声がさらに低くなる。
「でも、親父の病状や、家のことが大変だから、自分の学校や進路のこと考えてる場合じゃない。俺がいない間に、母さんも弟たちも限界きてる。俺が戻って、崩壊寸前の家族を繋ぎ止めないと……サク、お前に会えて良かったよ。本当に」
電話がブツっと切れて、俺は呆然としたまま、部屋の窓から夜空を見上げた。月は、まだ半分も満ちていなかった。同じ年齢なのに、全然違う環境に置かれている弓月のために、俺は何をしてあげられるんだろう。
それから2週間は、帰国の準備で弓月は忙しそうで、一緒に遊ぶことも減ってしまった。チャットで短いやりとりをすることが増えて、あまり話せていない。
俺の心にも、暗い影がじりじりと迫っているようだ。弓月との別れが日々近づいていく。
それに加え、家での空気が重くなっていた。
父は仕事のストレスからか、些細なことで苛立つようになり、食事中に俺が椅子を引く音が煩いと怒鳴り、テレビのボリュームが気に入らないと舌打ちをする。
母は、相変わらずスマートフォンから目を離さない。俺が話しかけても、生返事ばかり。
この2週間、ほとんど家族と口を利いていなかった。
9月下旬の蒸し暑い夜。きっかけは、本当に些細なことだった。
リビングでノートを広げていた時、父が「邪魔だ」と一言だけ言って、ノートをテーブルの端に押しやった瞬間、俺の中の堪忍袋の緒が切れた。
「……いつも邪魔なんだろ、俺」
そうこぼすと、父にぎろっと睨まれた。
「お前は、生意気なんだよ!子供のくせに! いったい、何考えてんだ? 何も言わないし! まるで、いてもいなくても同じだ!」
父の言葉が、心に突き刺さる。傷つけられるのは慣れているけど、今日は我慢できそうにない。
母は一瞬、父を宥めようとしたが、すぐ諦めて口を閉ざし、俺に向けて「謝りなさい」とだけ告げた。
父を睨みつけるが、言い返す言葉が出ない。
「どうせ、出ていくんだろ? 気が済んだら、すぐ帰ってくるんだから」
父はそう吐き捨てて、テレビに視線を戻し、母もそれ以上は何も言わなかった。
俺は、踵を返して自分の部屋へ走った。父の怒鳴り声がまだ耳の奥に残っていて消えないし、もう、ここにはいられない。部屋の机の上にあったスマートフォンは、電源が切れていたから、そのまま置いていく。親と連絡がつかないようにする、ささやかな抵抗だ。
何もかも嫌だった。弓月との奇跡のような半年が終われば、この世界が完全に瓦礫になる。それなら、いっそ今、この瞬間に壊れてしまいたい。
リュックに家出に必要なものを詰め込み、衝動的に家を飛び出した。
行先は決まっている。俺の秘密基地、「日本のベンメリア」へ。



