8月の初旬、夕方頃に、俺たちは再び「日本のベンメリア」の屋上にいた。
特に用事があったわけじゃなく、遠足気分でやって来たのだ。ここは夏でも不思議と涼しくて、太陽の光が大木で遮られるからか、外でも意外と過ごしやすい。
俺たちは、今にも落ちてきそうな屋根の下に潜り込んで、持参したドリンクとお菓子を広げた。
夕陽がツタの葉を透かして茜色の不思議な模様の影を落とし、大木からのセミの声が、ため池からの蛙の大合唱と重なって騒がしい。
弓月が、ドリンクを飲みながら口を開いた。
「なあ、ここって、本当に誰も来ないよな」
「うん。誰にも会ったことないし」
「じゃあ、ここは俺たちだけの世界ってことか」
俺はその言葉を否定しない。夕陽が沈んで辺りが暗くなり始めた頃、弓月は、頭上の裂け目から広がる空を指差した。
「あそこから見える月は、カンボジアから見える月と同じなんだ。だから、俺たち、繋がってる」
隣の弓月をチラ見すると、持参したランタンに照らされているからか、いつもよりもちょっと大人びて見える。
俺たちは、それ以上何も語らず沈黙を楽しんだ。無理に会話をしなくても、二人なら気まずくない。しばらく月を眺めているうちに夜も更けていき、残っていたドリンクを飲み干して廃墟を後にした。
夏休み中は、しょっちゅう弓月と遊んだ。弓月が「遊ぼ」ってよく誘ってくれるからだけど。自分から誘えない俺にはありがたい。俺の家や図書館で宿題したり、秘密基地ではゲームをしたり、漫画を読んだ。持ってきたお菓子を広げ、夜空を見上げながら、くだらない話もした。
宿題の合間に、俺の家で一緒に昼飯を食べたりもして、特に、うちのざる蕎麦が気に入ったらしい。弓月は妙にハマっていたけど、たまたま親戚から送られてきた十割蕎麦があったから、茹でてあげただけなのにこんなに喜ばれるなんて……。
「これ、旨いな。俺、また食べたい」
「うん。任せろ」
「次も楽しみしてる」
「楽しみにしてる、だぞ」
「あっ、また間違えた」
弓月の言い間違えを訂正するのも最近では自然になっている。カンボジアで、蕎麦をあまり食べたことがなかったのは意外だった。海外暮らしが長いと、日本だと普通にあるものでも、新鮮なのかもしれない。
母には、友達を連れて来るなんて……と驚かれた。ぼっちな俺しか知らないから、当然なのだけど。
こんなに人と過ごした夏休みは初めてかもしれない。基本一人が好きなはずなのに、変だ。空いてる日は全部弓月と遊んでいる。こんな夏休みは、一生の中でも二度とないだろう。そのくらい、俺は弓月に心を許しているのだ。
*
夏休みが終わり、新学期が始まって、暑さのピークも少し落ち着いた9月初旬、事件は起こった。
幼馴染の石井に、放課後、空き教室に呼び出された。これはあの時と全く同じで、デジャヴか……と思ってしまう。
実は、中3の卒業式に告白されたけど、断った相手でもある。なんか気まずい。最近は普通になってて、話しかけられることも無かったのに、今度はなんなんだ。
弓月には、教室で待ってもらっている。他のクラスメイトの好奇の視線に耐えながら、恐る恐る、空き教室に向かった。
ドアを開けると石井と目が合った。
「朔太郎くん、久しぶり」
「あー、久しぶり」
石井は満面の笑みで俺を迎え入れ、マシンガンのように話し始める。
「あれから、一年半だね。最近、弓月くんと仲いいけど、もうすぐ帰っちゃうんでしょ? 朔太郎くん、きっと寂しくなると思うから、私のこともう一度考えてくれない? まだ、諦めてないんだよね……どうかな?」
うっ……まだ諦めてないのか。断ったのに。それに、今の俺の頭の中には、弓月と一緒にどう過ごしていくか、でいっぱいなんだけど。
「ごめん。今も、そういうの考える余裕がないんだ。弓月、もうすぐ帰っちゃうから……その前に、やっておきたいことが沢山あって」
俺の言葉に、廊下で覗き見しているクラスのヤツらが盛大にざわついている。でも、俺の心には一点の曇りもなかった。
恋人が欲しいと思ったことは、正直……ある。誰かに好かれるって、悪い気はしなかった。断ってもまた来てくれるのは、まあ、ありがたいし。
でも、今は恋より大事なものがある。それは弓月だ。もう時間がないから、誰にも邪魔されたくない。俺の時間は弓月のために使いたい。
石井は粘り強かったが、何とか断って安堵した。解放された俺は教室へ急いだ。弓月を待たせちゃ悪いと思って。
でも、足は途中で鉛みたいに重くなっていく。断る直前、石井の笑顔が一瞬だけ歪んだのを思い出したからだ。恋愛より友情を選ぶなんて変なのかもしれない。石井を2回も傷つけているし、罪悪感が急に込み上げてくる。……それでも、俺の時間は弓月のものだと言い切れてしまう。大切な時は今しかないのだから。
その時、弓月が廊下の角から現れて、有無を言わせず俺を人目につかない体育館裏に連れていく。そして、頬を真っ赤にして、すごい剣幕で怒鳴り始める。
「お前、何やってんだよ!」
「何って、お前も盗み聞きしてたのか? 真実を言ったまでだ」
「俺のせいで、断るのはダメだろ」
「いいだろー もう時間無いんだから、俺の自由にさせろよ」
「ばっ……か、お前……! そんなこと言われたら、俺、帰りづれーだろ……」
そっぽを向いたかと思うと、肩を小さく震わせた。俺には、かける言葉が見つからない。その後ろ姿を見つめていると、次第に空が赤から紫へ変わっていく。
弓月はまだ背中を向けたままだ。でも、落ち着いたのか、肩の震えは止まっている。俺は何も言わず、待ち続けた。
俺のしてやれることは、ただ傍で寄り添う――それしかない。
しばらくして、弓月が鼻をすすって、こちらに振り返った。
「……帰るか」
「うん」
ぽつぽつと会話をしながら、帰路についた。
特に用事があったわけじゃなく、遠足気分でやって来たのだ。ここは夏でも不思議と涼しくて、太陽の光が大木で遮られるからか、外でも意外と過ごしやすい。
俺たちは、今にも落ちてきそうな屋根の下に潜り込んで、持参したドリンクとお菓子を広げた。
夕陽がツタの葉を透かして茜色の不思議な模様の影を落とし、大木からのセミの声が、ため池からの蛙の大合唱と重なって騒がしい。
弓月が、ドリンクを飲みながら口を開いた。
「なあ、ここって、本当に誰も来ないよな」
「うん。誰にも会ったことないし」
「じゃあ、ここは俺たちだけの世界ってことか」
俺はその言葉を否定しない。夕陽が沈んで辺りが暗くなり始めた頃、弓月は、頭上の裂け目から広がる空を指差した。
「あそこから見える月は、カンボジアから見える月と同じなんだ。だから、俺たち、繋がってる」
隣の弓月をチラ見すると、持参したランタンに照らされているからか、いつもよりもちょっと大人びて見える。
俺たちは、それ以上何も語らず沈黙を楽しんだ。無理に会話をしなくても、二人なら気まずくない。しばらく月を眺めているうちに夜も更けていき、残っていたドリンクを飲み干して廃墟を後にした。
夏休み中は、しょっちゅう弓月と遊んだ。弓月が「遊ぼ」ってよく誘ってくれるからだけど。自分から誘えない俺にはありがたい。俺の家や図書館で宿題したり、秘密基地ではゲームをしたり、漫画を読んだ。持ってきたお菓子を広げ、夜空を見上げながら、くだらない話もした。
宿題の合間に、俺の家で一緒に昼飯を食べたりもして、特に、うちのざる蕎麦が気に入ったらしい。弓月は妙にハマっていたけど、たまたま親戚から送られてきた十割蕎麦があったから、茹でてあげただけなのにこんなに喜ばれるなんて……。
「これ、旨いな。俺、また食べたい」
「うん。任せろ」
「次も楽しみしてる」
「楽しみにしてる、だぞ」
「あっ、また間違えた」
弓月の言い間違えを訂正するのも最近では自然になっている。カンボジアで、蕎麦をあまり食べたことがなかったのは意外だった。海外暮らしが長いと、日本だと普通にあるものでも、新鮮なのかもしれない。
母には、友達を連れて来るなんて……と驚かれた。ぼっちな俺しか知らないから、当然なのだけど。
こんなに人と過ごした夏休みは初めてかもしれない。基本一人が好きなはずなのに、変だ。空いてる日は全部弓月と遊んでいる。こんな夏休みは、一生の中でも二度とないだろう。そのくらい、俺は弓月に心を許しているのだ。
*
夏休みが終わり、新学期が始まって、暑さのピークも少し落ち着いた9月初旬、事件は起こった。
幼馴染の石井に、放課後、空き教室に呼び出された。これはあの時と全く同じで、デジャヴか……と思ってしまう。
実は、中3の卒業式に告白されたけど、断った相手でもある。なんか気まずい。最近は普通になってて、話しかけられることも無かったのに、今度はなんなんだ。
弓月には、教室で待ってもらっている。他のクラスメイトの好奇の視線に耐えながら、恐る恐る、空き教室に向かった。
ドアを開けると石井と目が合った。
「朔太郎くん、久しぶり」
「あー、久しぶり」
石井は満面の笑みで俺を迎え入れ、マシンガンのように話し始める。
「あれから、一年半だね。最近、弓月くんと仲いいけど、もうすぐ帰っちゃうんでしょ? 朔太郎くん、きっと寂しくなると思うから、私のこともう一度考えてくれない? まだ、諦めてないんだよね……どうかな?」
うっ……まだ諦めてないのか。断ったのに。それに、今の俺の頭の中には、弓月と一緒にどう過ごしていくか、でいっぱいなんだけど。
「ごめん。今も、そういうの考える余裕がないんだ。弓月、もうすぐ帰っちゃうから……その前に、やっておきたいことが沢山あって」
俺の言葉に、廊下で覗き見しているクラスのヤツらが盛大にざわついている。でも、俺の心には一点の曇りもなかった。
恋人が欲しいと思ったことは、正直……ある。誰かに好かれるって、悪い気はしなかった。断ってもまた来てくれるのは、まあ、ありがたいし。
でも、今は恋より大事なものがある。それは弓月だ。もう時間がないから、誰にも邪魔されたくない。俺の時間は弓月のために使いたい。
石井は粘り強かったが、何とか断って安堵した。解放された俺は教室へ急いだ。弓月を待たせちゃ悪いと思って。
でも、足は途中で鉛みたいに重くなっていく。断る直前、石井の笑顔が一瞬だけ歪んだのを思い出したからだ。恋愛より友情を選ぶなんて変なのかもしれない。石井を2回も傷つけているし、罪悪感が急に込み上げてくる。……それでも、俺の時間は弓月のものだと言い切れてしまう。大切な時は今しかないのだから。
その時、弓月が廊下の角から現れて、有無を言わせず俺を人目につかない体育館裏に連れていく。そして、頬を真っ赤にして、すごい剣幕で怒鳴り始める。
「お前、何やってんだよ!」
「何って、お前も盗み聞きしてたのか? 真実を言ったまでだ」
「俺のせいで、断るのはダメだろ」
「いいだろー もう時間無いんだから、俺の自由にさせろよ」
「ばっ……か、お前……! そんなこと言われたら、俺、帰りづれーだろ……」
そっぽを向いたかと思うと、肩を小さく震わせた。俺には、かける言葉が見つからない。その後ろ姿を見つめていると、次第に空が赤から紫へ変わっていく。
弓月はまだ背中を向けたままだ。でも、落ち着いたのか、肩の震えは止まっている。俺は何も言わず、待ち続けた。
俺のしてやれることは、ただ傍で寄り添う――それしかない。
しばらくして、弓月が鼻をすすって、こちらに振り返った。
「……帰るか」
「うん」
ぽつぽつと会話をしながら、帰路についた。



