赤い月の下で、半年間がひとつの世界になった

 あれから1年数か月、俺は大学に合格した。親は「よくやった」と言っただけだったが、もう気にならなかった。俺には、行くべき場所がある。会うべき人がいるから。


 入学してから落ち着いた頃、久しぶりに秘密基地、「日本のベンメリア」の屋上に来ていた。
 もう、孤独で瓦礫になりたかったあの頃の俺じゃない。弓月との約束という、心を繋ぎ止めるためのツタがある。

 この頃には、俺は変わっていたと思う。家では相変わらず透明人間扱いだったが、その薄い反応にも、以前のような絶望感はない。生きる理由がちゃんとあるからだ。

 弓月に会いに行く。その目標が、俺を前に進ませた。

 適当に毎日をやり過ごしていた頃の俺には、目標なんてものがなかったけど、今は違う。向かう場所があり、それだけで、朝が来るのが待ち遠しくなった。こんな性格じゃなかったし、人間らしくもなかったのかも。でも今は、朝が来るのが怖くない。

 クメール語の入門書は、あれから何度も借り続けていたら、高校卒業までにノートに全文が書き写されていた。学校の勉強より熱心だったかもしれない。会えない間に上達した、と電話で弓月に自慢すると、英語にしろ、と笑われた。現在では、ノートの隅の三日月の隣には、ニョロニョロした文字が自然に添えられている。

 その頃、近所に6時から22時まで営業する、コンビニ風の店がオープンした。さすがに、こんなド田舎にコンビニは簡単には出店しないから妥当だろう。俺はこの店でバイトを始めた。週に4日、最初は品出しや在庫管理といった雑用ばかりだったけど、しばらくするとレジにも入れるようになり、出来ることが増えていった。

 給料が入ったと母に告げると、「少しは家に入れてよね。三万でいいから」と言われたから、その分を渡すと、手元に残るのは五万円。その中からやりくりして、旅費を捻出する。昼飯は購買のパンで済ませ、テキストは先輩のお下がりをもらったりして節約。

 閉店後に床を掃いていると、手が震えることがあった。嬉しいのか怖いのか、どっちかわからない。もうすぐだと思うと頑張れるし、それが俺の希望になっていた。このままここで働いていたら、本当に弓月に会いに行けそうだし、貯金通帳に少しずつ数字が増えるたびに笑顔になれる。

 俺は弓月と交わした「赤い月」の約束を、ただひたすらに守り続けた。

 皆既月食は、弓月が帰国してから約1年半後にあり、その時、俺たちは互いに写真を送り合った。俺は、崩れた校舎の瓦礫と赤い月、弓月は、赤い月とアンコールワットを。池に映る月と、空に浮かぶ月の二つが赤い光を放ち、本当に水面で繋がっているように見える。

 チャットのやりとりは、決して多くなかった。弓月はめちゃくちゃ忙しくて、父親の看病の手伝いや弟妹の世話、インターの勉強と大学受験の準備をしているようだった。秋からはプノンペンの大学に入り、家族が落ち着けば、日本留学も視野に入れているらしい。

 そんな状況でも、月が満ちる夜には、必ずメッセージをくれた。

『今日、満月だな』
『見てる。お前も見てる?』
『当たり前だろ』

 他愛もない会話ばかりだけど、それだけで満たされていた。

 大学1年の夏、弓月から嬉しい知らせが届いた。

『親父、復職した。また大使館で働けるようになった』

 俺は、心の底から安堵した。

『良かったな』
『ああ。お前のおかげだ』
『俺、何もしてないだろ』
『バカ。お前がいたから、俺、あの時踏ん張れたんだ』

 その言葉が、胸を熱くした。大学1年の終わり、通帳には十万円と少し。ここから成田までの前泊代、高速バス代、シェムリアップでの宿泊費まで数えると、正直まだ目標には足りていない。それでも、もう手の届く所まで来ていると確信している。


 バイト帰りに駅前を通ると、石井とばったり出くわした。気まずくて言葉を探していると、先に口を開いたのは彼女のほうだった。

「朔太郎くん、久しぶりだね」
「……おう、元気?」

「うん。あのさっ、まだ弓月くんと仲いいの?」
「うん。もうすぐ会いに行こうと思ってる」

「うわぁ……それは、凄い仲良しだね……でも、それって、友達の域超えてない……?」
「えっと……」
「あっ、もう行かなきゃ。またね」

 石井は慌ただしく、ひらひらと手を振り、改札の向こうへ消えていった。弓月とまだ続いているとは思わなかったみたいで、かなり驚いてたな。

 俺たちってやっぱり……友達の域、超えてるのかな? あの時、流されずに石井の告白を断ったのは、正しい選択だったのか、今でも分からない。石井がどうとかではなく、俺が……弓月を選びたいって気持ちは変わらないけど。