連絡先の話題になったのは、ちょうど柾と二人で、しょうもない話で腹筋やられかけていたときだった。
「でさ、その教授、レポートは自由形式でいいとか言っといて、結局、論文形式のものに限るって最後に言い出すの、マジで詐欺じゃない?」
「わかる。あの人、途中で条件増やすタイプだよね」
「そうそう。それ先に言っとけ案件だから……」
くだらない教授いじりで盛り上がって、俺と柾だけ一瞬ローカルな空気になっていた、そのとき。
「えー、じゃあさ、そろそろ連絡先交換しない?」
ぱんっ、と明るい音がして、女子幹事の田中さんが手を叩いた。
はじける音に合わせて、テーブルの空気が一気に変わる。
さっきまでただの飲み会っぽかった場が、一瞬で「ザ・合コン」みたいな雰囲気に塗り替えられた。
来た……!これが噂に聞く、連絡先交換タイム……!
心の中で、よく分からないナレーションが再生される。
脳内実況中継してないと、なんか落ち着かない。
「いいねー」
「グループ作る?それとも個別?」
「とりあえず個別でしょ!」
「交換しながら話せるしね〜」
女子たちがきゃいきゃい盛り上がって、声のトーンが半音くらい上がる。
テーブルの向こう側では、男子もそれに合わせて「お、来たね」みたいに笑っている。
その横で、俺はグラスの水をちびちびやりながら、心の準備をしていた。
……いや、正確には「覚悟」を決めていた。
どうせ、俺の番は来ないからな……!
覚悟という名の、諦めの深呼吸だ。
視線が向かう先は、だいたい決まっている。
「成瀬くん、インスタやってる?」
案の定、最初に名前を呼ばれたのは、隣の彫刻イケメンだった。
「一応」
柾が軽く笑ってスマホを取り出す。
その仕草が、いちいち絵になるのがムカつく。いや、羨ましい。
その瞬間、女子全員の上半身が一斉に柾側へスライドした。
椅子はほぼ動いてないのに、身体だけ綺麗に斜めに寄っていく。
「え、教えて〜!」
「アイコンどんなの?」
「LINEも交換しよ?」
「ゼミ違うけど、またみんなでご飯行こうよ!」
言葉が矢継ぎ早に飛んでいく。
俺のほうには、ひとつも飛んできてないけど。
「うん、いいよ」
柾は特に嫌そうな顔もせず、淡々とIDを見せたりQR出したりしていく。
スマホを傾ける角度すらスマートで、なんかもう、そういうふうに生まれてきたとしか思えない。
そのたびに「ありがと〜!」って歓声があがって、笑い声が弾ける。
俺のほうには誰も身体を向けてこない。
うんうん、知ってた。これは想定内。俺は背景の観葉植物ポジだからな。
観葉植物だって、ないよりあったほうがマシ、くらいの存在感はある。
……と、自分で自分に言い聞かせながら、空になりかけたグラスの氷をストローでつついた。
カラン、と小さな音がして、テーブルの喧騒から一瞬だけ浮く。
その音に気づいた人は、多分いない。
テーブルの向こうでは、榊原がそれなりに女子と楽しそうに喋っている。
「そっちの大学ってさ〜」
「え、そっちの学祭さ〜」
リア充っぽい会話が交わされていて、笑いのタイミングも完璧だ。
別の男子も「じゃあ俺も」とか言いながら、それぞれ交換している。
「はい、じゃあ、これ読み込んで〜」
「ありがと!」
「あとでグループ作るね〜」
わいわいしたやりとりを、俺は半分ぼんやり、半分冷静な目で眺めていた。
……で、俺のところには——。
「……」
誰も来ない。
はい、知ってたー!
心の中で、拍手喝采の効果音を流してやる。
予定調和すぎて、もはや清々しい。
ちょっとだけ胸がきゅっとしたけど、すぐに「まあそうだよな」で自己処理する。
この「まあそうだよな」は便利だ。だいたいの悲しみをうやむやにしてくれる。
今日は初めての合コンだし、「空気を壊さない引き立て役」に徹するのが、いちばん被害が少ない。
目立たない。張り切らない。調子に乗らない。これ大事。
自分にルールを復唱していると、女子幹事の明るい声が聞こえた。
「ありがとー。じゃあ、あとでグループも作ろっか」
「いいねいいね」
「写真も共有しよ〜」
どうやら、連絡先交換フェーズはひとまず終了したらしい。
盛り上がってる女子たちを横目に見ながら、俺はグラスを口に運ぶ。
氷がカランと鳴る音が、さっきよりもはっきり耳に届いた。
あー、水うま。現実、しょっぱい。
半分冗談で、半分本気でそう思ったそのときだった。
すぐ隣から、低めの声が落ちてくる。
「……気に入った子いたら、アドレス教えるよ」
「へ?」
喉の奥で変な音が出た。
今のって、絶対に俺に向かって言ったよね?
「え、な、何の話?」
思わず聞き返すと、柾はさっき女子に囲まれてたときと同じくらい、なんでもなさそうな顔で言う。
「あの子たちの中で、誰か気になる子とかいたらさ」
軽く顎でテーブルの向こうを指し示す。
さっきの連絡先交換で盛り上がっていた女子たちが、まだわちゃわちゃ話している。
「俺、全員と交換したから。間に入って紹介しよっか?」
紹介しよっか?じゃないんだよな!?
さらっととんでもないことを言うな、この人。
いやいやいや、発想がイケメンすぎる。
そんなの、モテる男の世界のルールだろ……?
庶民の俺には、遠い世界の話だ。
「……いらない」
気づいたら、口が勝手に動いていた。
想像以上に即答だった。自分でもびっくりするくらいの反射速度。
柾が少しだけ目を丸くする。
でも、ほんの一瞬だけで、すぐに口元だけでくすっと笑った。
「即答だね」
「だって……俺なんか紹介されても、向こう困るでしょ」
口から滑り出た言葉は、ほぼ反射神経だけで構成されている。
自虐は止まらない。言った瞬間に、ちょっとだけ後悔した。
うわ、また俺なんかとか言った……クセなんだよな……
けど、柾は首を傾げただけだった。
「困らないと思うけど」
「……いやいや、困るって」
条件反射で否定する。
だって、困る。俺が女子だったら困る。会話続けられる自信ない。
「なんで決めつけるの?」
「そ、それは……」
イケメンに真正面からそんなことを言われると、なんかこう、心の防御力がガリガリ削られていく。
視線を逸らしてテーブルを見ると、さっきの連絡先交換で置きっぱなしになった女子のスマホが数台、雑然と並んでいる。
ケースの色も、ストラップも、それぞれ個性があって可愛い。
そのどれもに、柾のIDが新しく登録されたんだろう。
そりゃそうだよな。あの顔なら、聞かないほうがおかしい。
なんか急に、同じテーブルに座ってるはずなのに、別の世界の住人みたいに思えてくる。
同じ年齢、同じ大学、同じ合コンに参加。
なのに、生きてるレイヤーが違う感じ。
「……ほんとに、いらない」
もう一度、はっきり言う。
今度はさっきよりも、少しだけ落ち着いた声で。自分に言い聞かせるみたいに。
柾がふっと目を細めた。
じっと、俺を見ている。
やめてくれ……そんな目で見ないでくれ……!
真正面から光を当てられてるみたいで、居心地が悪い。
心臓が変な跳ね方をして、耳の裏がじんわり熱くなる。
ごまかすように氷を噛んだら、ガリッて音がやけに大きく響いた。
数秒の沈黙のあと。
「じゃあさ」
柾が、テーブルの下でスマホを操作しながら、さらっと言った。
「俺と連絡先交換しない?」
「…………は?」
今度は、心の声と口から出た声が完全に一致した。
いや、待て。今なんて言った?
柾は、俺のほうに体を少しだけ近づけた。
椅子の脚は動いてないのに、距離が縮んだ気がする。
スマホの画面を向けてくる。そこには、おなじみの緑のアイコンとQRコード。
「ほら」
「……え、ほんとに?」
さらっと言うその声が、なんか反則だった。
距離近いし、香水の匂いもさっきより強く感じるし、頭がうまく回らない。
ちょっと待って?
ドキドキしすぎる……!
「……なんで?俺なんかと?」
口から出てきたのは、また「俺なんか」で。
言った瞬間、あ、またやらかしたって思ったときにはもう遅い。
「俺なんかって言うの、やめれば?」
柾が、小さくため息をつく。
呆れた、というより、ちょっと困ってるみたいな息。
それから、ふっと笑った。
「俺は、相沢くんと話してて楽しいし」
「…………」
言葉が詰まった。
喉の奥がぎゅっと掴まれたみたいに、うまく声が出ない。
「さっきからずっと笑ってるよね、俺たち」
その一言で、顔から火が出そうになった。
言われてみれば、さっきからずっとくだらないこと話してて、気づけば時間が過ぎていた。
うわ、指摘されると恥ずかしすぎる……!
楽しかったことを「楽しい」と言われると、一気に現実味を持って襲ってくる。
今まで「錯覚かな」でごまかしてたのに。
「だから、交換しよ。俺がしたい」
最後の一押しが、優しくてずるい。
そこまで言われて、断れる人類がこの世にいるのか。
頭の中の小さな俺たちが会議を開いて、「これはもうOK出すしかない」と全会一致で決議した。
「……じゃあ、その……お願いします」
情けないくらい小声でそう言って、自分のスマホを取り出す。
手が震えて、QRコードを出すまでにやたら時間がかかった。
「あれ?メニューどこだっけ」
「ここ押して」
「……あ、あった」
タップする指先が、変に意識しすぎて空振りする。
スクリーンを滑る指の音すら、やけに大きく聞こえた。
「緊張してる?」
柾がくすくす笑いながら、俺のスマホを覗き込んでくる。
距離近い。画面より顔のほうが気になる。
「してない」
反射で否定する。
「してる」
即座に訂正された。
即答返しが妙に優しくて、否定できない。
画面越しに、柾のIDがぽんっと表示される。
その瞬間、胸の奥で何かがぱっと明るく灯った気がした。
「……登録、しとくね」
うわ、本当に登録された……!
成瀬柾って入ってる……!
「うん。俺も」
柾のスマホに、自分の名前が入力されていくのを横目で見ながら、変な笑いが込み上げてくるのを必死で堪える。
「……これで、いつでも連絡できるね」
ぽそっと、柾が当たり前みたいに言う。
「い、いつでもって……?」
「授業のこととか。今日の教授の愚痴とか」
「愚痴前提なんだ……」
「だって、また話したいし」
さらっと続けられた一言に、心臓がまた変な跳ね方をする。
——俺と柾だけの、小さな秘密みたいな連絡先交換が成立した。
……やば。めっちゃ嬉しい。
その嬉しさは、グラス一杯の水じゃ薄まらない。
心の中でだけ、何度もガッツポーズを決めた。
顔には出さないように、必死で平常心を装いながら。
でも、グラスの縁に映った自分の口元が、かすかに上がっているのを見て、慌てて真顔に戻したのは——ここだけの話だ。
「でさ、その教授、レポートは自由形式でいいとか言っといて、結局、論文形式のものに限るって最後に言い出すの、マジで詐欺じゃない?」
「わかる。あの人、途中で条件増やすタイプだよね」
「そうそう。それ先に言っとけ案件だから……」
くだらない教授いじりで盛り上がって、俺と柾だけ一瞬ローカルな空気になっていた、そのとき。
「えー、じゃあさ、そろそろ連絡先交換しない?」
ぱんっ、と明るい音がして、女子幹事の田中さんが手を叩いた。
はじける音に合わせて、テーブルの空気が一気に変わる。
さっきまでただの飲み会っぽかった場が、一瞬で「ザ・合コン」みたいな雰囲気に塗り替えられた。
来た……!これが噂に聞く、連絡先交換タイム……!
心の中で、よく分からないナレーションが再生される。
脳内実況中継してないと、なんか落ち着かない。
「いいねー」
「グループ作る?それとも個別?」
「とりあえず個別でしょ!」
「交換しながら話せるしね〜」
女子たちがきゃいきゃい盛り上がって、声のトーンが半音くらい上がる。
テーブルの向こう側では、男子もそれに合わせて「お、来たね」みたいに笑っている。
その横で、俺はグラスの水をちびちびやりながら、心の準備をしていた。
……いや、正確には「覚悟」を決めていた。
どうせ、俺の番は来ないからな……!
覚悟という名の、諦めの深呼吸だ。
視線が向かう先は、だいたい決まっている。
「成瀬くん、インスタやってる?」
案の定、最初に名前を呼ばれたのは、隣の彫刻イケメンだった。
「一応」
柾が軽く笑ってスマホを取り出す。
その仕草が、いちいち絵になるのがムカつく。いや、羨ましい。
その瞬間、女子全員の上半身が一斉に柾側へスライドした。
椅子はほぼ動いてないのに、身体だけ綺麗に斜めに寄っていく。
「え、教えて〜!」
「アイコンどんなの?」
「LINEも交換しよ?」
「ゼミ違うけど、またみんなでご飯行こうよ!」
言葉が矢継ぎ早に飛んでいく。
俺のほうには、ひとつも飛んできてないけど。
「うん、いいよ」
柾は特に嫌そうな顔もせず、淡々とIDを見せたりQR出したりしていく。
スマホを傾ける角度すらスマートで、なんかもう、そういうふうに生まれてきたとしか思えない。
そのたびに「ありがと〜!」って歓声があがって、笑い声が弾ける。
俺のほうには誰も身体を向けてこない。
うんうん、知ってた。これは想定内。俺は背景の観葉植物ポジだからな。
観葉植物だって、ないよりあったほうがマシ、くらいの存在感はある。
……と、自分で自分に言い聞かせながら、空になりかけたグラスの氷をストローでつついた。
カラン、と小さな音がして、テーブルの喧騒から一瞬だけ浮く。
その音に気づいた人は、多分いない。
テーブルの向こうでは、榊原がそれなりに女子と楽しそうに喋っている。
「そっちの大学ってさ〜」
「え、そっちの学祭さ〜」
リア充っぽい会話が交わされていて、笑いのタイミングも完璧だ。
別の男子も「じゃあ俺も」とか言いながら、それぞれ交換している。
「はい、じゃあ、これ読み込んで〜」
「ありがと!」
「あとでグループ作るね〜」
わいわいしたやりとりを、俺は半分ぼんやり、半分冷静な目で眺めていた。
……で、俺のところには——。
「……」
誰も来ない。
はい、知ってたー!
心の中で、拍手喝采の効果音を流してやる。
予定調和すぎて、もはや清々しい。
ちょっとだけ胸がきゅっとしたけど、すぐに「まあそうだよな」で自己処理する。
この「まあそうだよな」は便利だ。だいたいの悲しみをうやむやにしてくれる。
今日は初めての合コンだし、「空気を壊さない引き立て役」に徹するのが、いちばん被害が少ない。
目立たない。張り切らない。調子に乗らない。これ大事。
自分にルールを復唱していると、女子幹事の明るい声が聞こえた。
「ありがとー。じゃあ、あとでグループも作ろっか」
「いいねいいね」
「写真も共有しよ〜」
どうやら、連絡先交換フェーズはひとまず終了したらしい。
盛り上がってる女子たちを横目に見ながら、俺はグラスを口に運ぶ。
氷がカランと鳴る音が、さっきよりもはっきり耳に届いた。
あー、水うま。現実、しょっぱい。
半分冗談で、半分本気でそう思ったそのときだった。
すぐ隣から、低めの声が落ちてくる。
「……気に入った子いたら、アドレス教えるよ」
「へ?」
喉の奥で変な音が出た。
今のって、絶対に俺に向かって言ったよね?
「え、な、何の話?」
思わず聞き返すと、柾はさっき女子に囲まれてたときと同じくらい、なんでもなさそうな顔で言う。
「あの子たちの中で、誰か気になる子とかいたらさ」
軽く顎でテーブルの向こうを指し示す。
さっきの連絡先交換で盛り上がっていた女子たちが、まだわちゃわちゃ話している。
「俺、全員と交換したから。間に入って紹介しよっか?」
紹介しよっか?じゃないんだよな!?
さらっととんでもないことを言うな、この人。
いやいやいや、発想がイケメンすぎる。
そんなの、モテる男の世界のルールだろ……?
庶民の俺には、遠い世界の話だ。
「……いらない」
気づいたら、口が勝手に動いていた。
想像以上に即答だった。自分でもびっくりするくらいの反射速度。
柾が少しだけ目を丸くする。
でも、ほんの一瞬だけで、すぐに口元だけでくすっと笑った。
「即答だね」
「だって……俺なんか紹介されても、向こう困るでしょ」
口から滑り出た言葉は、ほぼ反射神経だけで構成されている。
自虐は止まらない。言った瞬間に、ちょっとだけ後悔した。
うわ、また俺なんかとか言った……クセなんだよな……
けど、柾は首を傾げただけだった。
「困らないと思うけど」
「……いやいや、困るって」
条件反射で否定する。
だって、困る。俺が女子だったら困る。会話続けられる自信ない。
「なんで決めつけるの?」
「そ、それは……」
イケメンに真正面からそんなことを言われると、なんかこう、心の防御力がガリガリ削られていく。
視線を逸らしてテーブルを見ると、さっきの連絡先交換で置きっぱなしになった女子のスマホが数台、雑然と並んでいる。
ケースの色も、ストラップも、それぞれ個性があって可愛い。
そのどれもに、柾のIDが新しく登録されたんだろう。
そりゃそうだよな。あの顔なら、聞かないほうがおかしい。
なんか急に、同じテーブルに座ってるはずなのに、別の世界の住人みたいに思えてくる。
同じ年齢、同じ大学、同じ合コンに参加。
なのに、生きてるレイヤーが違う感じ。
「……ほんとに、いらない」
もう一度、はっきり言う。
今度はさっきよりも、少しだけ落ち着いた声で。自分に言い聞かせるみたいに。
柾がふっと目を細めた。
じっと、俺を見ている。
やめてくれ……そんな目で見ないでくれ……!
真正面から光を当てられてるみたいで、居心地が悪い。
心臓が変な跳ね方をして、耳の裏がじんわり熱くなる。
ごまかすように氷を噛んだら、ガリッて音がやけに大きく響いた。
数秒の沈黙のあと。
「じゃあさ」
柾が、テーブルの下でスマホを操作しながら、さらっと言った。
「俺と連絡先交換しない?」
「…………は?」
今度は、心の声と口から出た声が完全に一致した。
いや、待て。今なんて言った?
柾は、俺のほうに体を少しだけ近づけた。
椅子の脚は動いてないのに、距離が縮んだ気がする。
スマホの画面を向けてくる。そこには、おなじみの緑のアイコンとQRコード。
「ほら」
「……え、ほんとに?」
さらっと言うその声が、なんか反則だった。
距離近いし、香水の匂いもさっきより強く感じるし、頭がうまく回らない。
ちょっと待って?
ドキドキしすぎる……!
「……なんで?俺なんかと?」
口から出てきたのは、また「俺なんか」で。
言った瞬間、あ、またやらかしたって思ったときにはもう遅い。
「俺なんかって言うの、やめれば?」
柾が、小さくため息をつく。
呆れた、というより、ちょっと困ってるみたいな息。
それから、ふっと笑った。
「俺は、相沢くんと話してて楽しいし」
「…………」
言葉が詰まった。
喉の奥がぎゅっと掴まれたみたいに、うまく声が出ない。
「さっきからずっと笑ってるよね、俺たち」
その一言で、顔から火が出そうになった。
言われてみれば、さっきからずっとくだらないこと話してて、気づけば時間が過ぎていた。
うわ、指摘されると恥ずかしすぎる……!
楽しかったことを「楽しい」と言われると、一気に現実味を持って襲ってくる。
今まで「錯覚かな」でごまかしてたのに。
「だから、交換しよ。俺がしたい」
最後の一押しが、優しくてずるい。
そこまで言われて、断れる人類がこの世にいるのか。
頭の中の小さな俺たちが会議を開いて、「これはもうOK出すしかない」と全会一致で決議した。
「……じゃあ、その……お願いします」
情けないくらい小声でそう言って、自分のスマホを取り出す。
手が震えて、QRコードを出すまでにやたら時間がかかった。
「あれ?メニューどこだっけ」
「ここ押して」
「……あ、あった」
タップする指先が、変に意識しすぎて空振りする。
スクリーンを滑る指の音すら、やけに大きく聞こえた。
「緊張してる?」
柾がくすくす笑いながら、俺のスマホを覗き込んでくる。
距離近い。画面より顔のほうが気になる。
「してない」
反射で否定する。
「してる」
即座に訂正された。
即答返しが妙に優しくて、否定できない。
画面越しに、柾のIDがぽんっと表示される。
その瞬間、胸の奥で何かがぱっと明るく灯った気がした。
「……登録、しとくね」
うわ、本当に登録された……!
成瀬柾って入ってる……!
「うん。俺も」
柾のスマホに、自分の名前が入力されていくのを横目で見ながら、変な笑いが込み上げてくるのを必死で堪える。
「……これで、いつでも連絡できるね」
ぽそっと、柾が当たり前みたいに言う。
「い、いつでもって……?」
「授業のこととか。今日の教授の愚痴とか」
「愚痴前提なんだ……」
「だって、また話したいし」
さらっと続けられた一言に、心臓がまた変な跳ね方をする。
——俺と柾だけの、小さな秘密みたいな連絡先交換が成立した。
……やば。めっちゃ嬉しい。
その嬉しさは、グラス一杯の水じゃ薄まらない。
心の中でだけ、何度もガッツポーズを決めた。
顔には出さないように、必死で平常心を装いながら。
でも、グラスの縁に映った自分の口元が、かすかに上がっているのを見て、慌てて真顔に戻したのは——ここだけの話だ。



