柾が、グラスの縁を人差し指でなぞりながら、ほとんど息だけみたいな声で囁いた。氷がかすかに揺れて、カラン、と小さく鳴る。

「榊原に呼ばれたんだよね?」

耳元すれすれで落ちてきた声に、心臓が一瞬だけ変な跳ね方をする。
距離が近い。物理的な距離も近いけど、それ以上に、声の温度が近い。

え、近……耳元ボイス近……!

周りの笑い声やら店員さんの「生ビール入りまーす」の声やらが、一瞬だけ遠のく。

俺も慌てて、同じくらいの音量まで声を落として、ささやきで返した。

「うん、今日いきなり、授業後に。多分数合わせだけど」

「へえ」

柾が小さく笑う。喉の奥で転がるみたいな、低い音。
それが、俺の耳の中だけに落ちてくる感じがして、なんかずるい。

「俺も当日に来いって言われてさ。俺も数合わせだね」

さらっとそう言って、またグラスに視線を落とす。

いやいやいや!イケメンを数合わせで呼ぶなよ!

心の中で、全力でホイッスル吹いて抗議する。
そこはちゃんと「主役枠」か「本命候補枠」で呼べよ、幹事。
数合わせ枠に放り込んでいい顔じゃないだろ、どう見ても。

内心で全力ツッコミを入れながらも、それを顔に出したら負けな気がして、必死で無表情を装う。
いや、無表情を装ってるつもりの顔って、たいてい変な顔になってるんだけど。

でも、目の前では女子陣がきゃっきゃしていて、その真ん中にはしっかり成瀬柾がいる。
笑い声の中心。視線の中心。今日の「当たり」的な扱いを、一身に受けている。

なのに、本人はどこか退屈そうだ。
口角だけ少し上がってるのに、目が笑ってないというか、
「ちゃんと場は盛り上げるけど、心ここにあらず」みたいな、妙に冷静な光が宿っている。

(……あの顔、たぶん慣れてるな。こういう場)

思わずそんなことまで考えてしまって、自分で勝手にダメージを受ける。

「でもさ」

柾が、テーブルの奥をちらっと見た。
その視線につられて、俺もつい同じ方向を追う。

「さっきから露骨すぎるよねえ。ほら」

彼がちょん、と顎で示した先。
女子側の幹事・田中さんと、男子側の幹事・榊原が、並んでグラスを掲げていた。

二人の前には、頼まれた料理がちょうど運ばれてきたところで、店員さんが「こちらチーズ盛り合わせでーす」と言って皿を置いていく。

「どう見てもさっきから、女性側の幹事の田中さんのこと狙ってるもん」

「え?」

反射的に声が出そうになって、慌ててボリュームを下げる。

言われてみれば——だった。

榊原はやたらと田中さんに話を振っているし、飲み物のおかわりを頼むときも「田中さん、何飲む?」って真っ先に聞いてるし、さっきの乾杯のときなんて、明らかに田中さんとだけ目を合わせてた。

『今日、みんな来てくれてありがとー!田中さんも、いろいろ段取りありがとな!』

——って、自己紹介のときも、さりげなく名前を強調してたな。

うわ、意識して見ると気づくな、これ……

一度そういうフィルターで見てしまうと、もう全部そう見える。
俺はグラスを持ち直しながら、ひそひそ声で返す。

「じゃあさ、俺たちは、榊原が田中さんといい感じになりたいがための、かませ犬的な?」

「かませ犬」

柾がくすっと笑って、こっちを見る。
その目が、さっきよりも柔らかい。さっきまで合コンモードだった目が、ちょっとだけ「素」のほうに戻った気がした。

「そうかもね。ちょっと観察してみようよ」

「観察……」

俺は思わず復唱して、それから自分の状況を整理する。

俺:初めての合コン。
榊原:フランス語クラスの、まあ顔が広いリア充。今日の仕掛け人。
田中さん:女子側の幹事で、愛想が良くて話しやすそうな人。笑うと目じりにしわが寄るタイプ。
柾:場の空気を変えるレベルの彫刻イケメン。

で、俺と柾が、今や「かませ犬」ポジション。
テーブルの端っこで、こそこそ実況している二人組。

なんだ、この役回り……

「なに、その顔」

柾が、小さな声で笑いながら言う。
声だけじゃなくて、表情も柔らかい。さっき女子に向けてた笑顔とは、微妙に違う。

「顔に、かませ犬ってなんだよって書いてあるよ」

「……だって」

俺も、つられて笑ってしまう。
苦笑いなんだけど、少しだけ肩の力が抜ける。

「かませ犬ってさ、漫画とかドラマだと、だいたい報われない役じゃん。名前からしてもう不憫な匂いしかしないというか……」

「あー、分かる」

柾はすぐ頷く。

「視聴者的には、いいやつって評価されるんだけどね。恋愛的に幸せになれるかっていうと、そうでもないポジション」

「そうそう。視聴者人気はあるんだけど、ヒロインとはくっつかないみたいな」

「まあ、メインカップルを引き立てるための存在だもんね」

柾はあっさり認める。

「でも、そういう役がいないと盛り上がらないしさ。必要な存在なんだよ、きっと」

「うわ、それ言われるとかませ犬冥利に尽きるな……」

自虐しながらも、どこか救われたような、変な気分になる。
この人、無責任なこと言わないというか、ちゃんとフォローを入れてくるタイプだ。

さらっと本音を混ぜてくるからずるい。
しかもそれを、耳元ボイスでやってくるからさらにずるい。

俺たちはグラスを口元に持っていきながら、テーブルの端からそっと様子をうかがう。

榊原と田中さんは、すでに二人で何か盛り上がっていた。
二人の前だけ、笑い声の温度がちょっと高い気がする。

「えー、そうなんですか?めちゃくちゃおもしろそう」

「いやいや、そんな大したもんじゃないって〜。でもさ、今度もしよかったら、一緒に——」

はい出た、今度もしよかったらのやつ……

合コン初心者の俺でも分かる、完全に「次につなげたい」やつだ。
榊原の声はいつもより一トーン高くて、分かりやすくテンションが上がっている。
身振り手振りも、さっきより明らかにオーバーだ。

「ね、狙ってるでしょ」

隣で柾がささやく。
声の端に、ちょっとだけ楽しそうな色が混じっている。

「うん……これは、かなり分かりやすいね」

「幹事ってさ、基本的に全員に気を配らないといけない立場なのに、あきらかに一人に重心寄ってる感じする」

「……言われてみれば確かに」

柾の分析が妙に具体的で、ちょっと感心する。

「え、なんか、観察慣れしてない?」

「まあ、見てるのはわりと好きかも」

サラッと言ってから、柾はグラスをひと口。
氷が喉を通っていく音まで聞こえそうな気がして、思わず喉が鳴りそうになる。

慣れてるな~。

そう思った瞬間、自分で勝手に脳内で爆発音が鳴る。

「昔はさ〜、こういう会しょっちゅうでさ〜」とか言い出したらどうしよう……
「元カノが〜」とか「前の彼女が〜」とか、そういう単語が出てくる未来を想像して、自分で勝手にダメージを先取りしてしまう。

質問してみたい気もするけど、なんか怖くて口に出せない。
長年彼女がいたとか、モテ武勇伝とか、そんな話がさらっと出てきたら、俺のちっぽけな自尊心が跡形もなく吹き飛びそうだから。

「相沢くん」

「ん?」

名前を呼ばれて、びくっとなる。
さっきまで榊原&田中ウォッチングしてたと思ったら、柾はもう俺の方を見ていた。

距離が近い。さっきから思ってたけど、近い。
椅子と椅子の間はそこまで狭くないはずなのに、ひそひそ声で話すせいで、自然と顔が寄る。

「さっきさ、数合わせって言ったでしょ」

「……うん」

「それ、俺も同じこと思ってたんだけど」

柾はグラスの飲み口を軽く指で叩いた。
コン、と小さな音が鳴るたびに、俺の鼓動もセットで鳴ってる気がする。

「でもさ、数合わせでも、来なかったよりはマシかなって思ってる」

「え?」

意外すぎる言葉に、瞬きが増える。
ポーカーフェイスになりたいのに、顔の筋肉がふにゃっと崩れそうになる。

「だって、こうして相沢くんと話せてるし」

さらっと言うなよ、その台詞。

喉の奥で「え」が渋滞して、変な顔になってないか不安になる。
絶対いま、口が半開きのまま固まってる。

「……俺なんかと話しても、別に楽しくないでしょ」

やっと出てきたのが、情けない反応だ。
もっと気の利いた「いや俺より他の女子と話してたほうが楽しいでしょ」とか、なんかスマートな返しがあるはずなのに、出ない。

「ううん?」

柾は、そこで少しだけ首を傾げる。
その仕草が、猫っぽいというか、無防備というか。

「俺、さっきのサラダのときとかも思ったんだけどさ」

サラダ。
さっき、テーブルの真ん中のボウルに手が届かなくて、もじもじしてたあのとき。

「ちゃんと周り見てるよね、相沢くん。人の会話とか、空気とか」

「そ、それは……」

すぐ否定できなくて、言葉が詰まる。
そういう風に意識した覚えはあんまりないのに、そう言われると図星みたいで、変に照れる。

「そういう人と話すの、けっこう好きなんだよね。俺」

柔らかい声でそんなこと言われたら、心臓がどこにあるのか分からなくなる。
胸の奥が、じわっと熱くなっていく。

待って、俺、いま、どんな顔してる?絶対ニヤついてない?だいじょうぶ?

頬がじんわり熱くなってきてるのが自分でも分かる。
ここだけクーラーをつけてほしい。

「……観察好き同士ってこと?」

なんとか冗談めかして返すと、柾は嬉しそうに目を細めた。

「そうそう。だからさ——」

そこで、彼はまた視線を榊原たちに戻す。
目線の動きが、さっきより軽くなっている。

「観察続行しようよ。俺たち、公式かませ犬として」

「公式って言うな」

小声でツッコみながらも、笑いがこみ上げる。
ふと、グラスがカチンと触れ合って、ささやかな乾杯みたいな音がした。

テーブルの向こう側では、榊原がやたらと身振り手振りを大きくして話している。
田中さんは、ちょっと照れたように笑いながら相槌を打っていた。

「榊原くんって、人の話聞くの上手ですよね〜」

「いや〜田中さんがリアクションいいからだって!」

はいはい、完全にいい感じです、というテロップが頭の中に流れる。

「……でもさ」

俺はグラスの中で氷をくるっと回しながら、ぽつりとこぼす。

「本命同士がいい感じになっていくの、目の前で見るのって、案外悪くないかも」

「うん?」

柾が、少しだけ首を傾げる。

「なんか、ドラマの撮影現場を、一番前の特等席で見てるみたいで」

「なるほど」

柾は楽しげに頷く。

「じゃあ、俺たちはスタッフロールにも名前が出ない裏方かな」

「録音とか照明とか、そのへん?」

「そうそう。技術協力:その他大勢みたいな」

「それはそれで、渋くていいかもね」

そう答えながら、俺たちは視線を合わせて、声を殺して笑った。

グラスの氷が、カラン、と軽い音を立てる。
隣からは、柾の体温と、ほんのりしたシトラスの香り。
店内の照明が、グラスの水滴をきらりと光らせる。

テーブルの向こうでは、分かりやすい恋の芽生えが進行中。
笑い声と、ちょっと照れた沈黙と、また笑い声と。

そして、ここには——メインキャストでもエキストラでもない、なんとも中途半端な立ち位置の「かませ犬」二人。

でも、その中途半端さが、妙に心地いい。

まあ……こうやって並んで笑っていられるなら、かませ犬も悪くない、かも

そんなことを思いながら、俺はもう一口だけ、薄くなったドリンクを飲んだ。
炭酸の抜けかけた甘さが、さっきまでより、少しだけやわらかく喉を通っていった。