昼過ぎ、とある大学のカフェテリアにて。
1人の男が軽い頭痛に悩まされていた。
寝不足か、ストレスか。もしくはその両方か。
この男——最上恒星にとって、今日は良くも悪くも記憶に残る1日になろうとしていた。
「それでさぁ、さっきの教授がさ……」などと話を繰り広げる二人の友人を置いて、恒星はそそくさと昼飯を買いにいく。三人グループだとこういうことが出来るから有難いと一人で息を吐く。
「次の方どうぞ〜」
「「卵サンド2つお願いします」」
注文の声が被り、声のした方を見ると小さい中学生くらいの女の子が財布を両手で丁寧に持って立っていた。その女の子もまた、恒星と同じように驚いた顔をしていた。
「あ、先どうぞ」
「えっ、あっ、すみません……」
つい自分の良心に従って、その中学生に譲ってしまった。
まぁ、すぐ順番は来るし良いのだけれど。と思っていた矢先、「今日の卵サンド完売でーす」というカフェテリアで働くおばさんのはっきりした声が耳に届く。
「まじかよ……」
「次の方〜」
「あ、じゃあこの天むすおにぎりで……」
「はい、まいどね」
全く、今日に限って最悪だ。
まぁでも、中学生の子が食べたいものを食べれるならこのぐらいの犠牲は仕方ないよな。俺はいつでも食べれるし。そう自分に言い聞かせる。
緑茶と天むすおにぎりを手に、恒星はいつもの席に向かう……が、そこには大学内で良い噂の聞いたことがない後輩の女子二人が座っていた。恒星自身が何かされたわけでもないが、よくいじめをしていたり陰口などを言っているような二人であまり好きではなかった。というか嫌いだった。
いつも座っている席を取られ、空いていたその二人の前にあたる席に仕方なく座る。
後ろから感じる嫌な空気で背中が焦げそうだ。ストレスをひしひしと背中で感じている。
本当に今日はついてない。運がない日。
恒星はノートパソコンをトートバッグから取り出して、提出しなければならないレポートのデータを読み込み始める。データを読み込んでいる間に天むすおにぎりを包んでいるフィルムをはがして口に運ぶ。
「恒星! 歩くの早いって……」
さっきの教授がなんちゃらこうちゃらとか言っていた恒星の友達の一人が息を切らしながら恒星に話しかける。
「あ、置いてってたわ。悪い」
「お前なぁ……まぁいいや。じゃあちょっと荷物見ててくんね?」
「おっけー」
ふと後ろを振り返って見ると、もう一人に列に並んでもらっていて、その間に二人分の荷物を持ってきたことがわかった。なるほど、賢いな。と思って元の位置に戻る前に恒星はバチッと後ろの二人と目を合わせてしまった。
うわ、やらかした。と恒星が思ってからではもう遅い。
前を向き、キーボードを叩いてなるべく音が聞こえないようにするものの今の状況では逆効果だった。
「うわぁ、誰だっけ? あんな先輩とは付き合いたくないわ……」
「え、それな? あんな強くキーボードもカタカタしてて余裕なさそ〜!」
あんたらなんか、こっちから願い下げだわ。
「でもミノムシとかはお似合いな気がする〜」
ミノムシって誰だよ。お似合いって言うってことは女の子か?
何だそのセンスないあだ名。失礼すぎんだろ。
「わかるけど……あんなとろい奴と一緒にいたらイライラして手出るでしょ!」
「めっちゃありそー!」
DVなんかするか馬鹿。
こっそり悪態を飲み込み、歯を食いしばる。
今日は最悪だ。いや、最悪の中の最悪の日だ。
恒星は天むすおにぎりを大きい口でばくばく齧って、あっという間に平らげてしまった。
忘れないうちに、といつも常用している頭痛薬を飲み込む。
治らない頭痛にもまた、イライラしながら緑茶を飲んで呼吸を整える。呼吸を整えたからと言ってイライラも頭痛も治らないのだけれど。
「ただいまー」
恒星の友達二人はそれぞれラーメンと、焼肉定食を手にして戻ってきた。二人隣に並んで恒星の正面側に座る。
「おかえり。50分になったら、レポート終わらせたいから抜けるわ」
「まじ? 恒星っていっつもそうだよなー」
「たまには友達付き合いもちゃんとしないとだぞ!」
「……はは、ごめんな」
この二人の、こういうところ。普段ならもっと上手く返せるのに、イライラしている今は頭痛を悪化させる良い材料でしかない。
その時、恒星にしか聞こえないであろう小さな声で後ろから鋭く刺してきた。
「え、うちの好きな先輩! ミノムシにお似合いなさっきのあの人と一緒にご飯食べてるんだけど!?」
「がち? 釣り合ってなさすぎでしょ、ミノムシに連れ出してもらってうちらあそこ座る?」
「そーしよ! とりま食器下げいこ!」
さっきまでバカにしてたくせに、都合いいときだけ利用すんのかよ。
——その時、恒星の頭の奥でぷつん、と何かが切れるような音がした。
友達なのに、『釣り合ってない』と。さっきまでとろいと言っていたミノムシと呼ばれる子に都合良く『連れ出してもらおう』と。
ふざけんな。何なんだお前らは。
こっちの都合も知らずにズカズカ土足で踏み込んでくる友達にも、勝手に決めつけて話し込むあの後輩たちにも、腹が立つ。
頭痛はあっという間にピークを迎え、頭を寺の鐘のように打たれている気分だった。恒星のキャパはとっくに超過していた。
気付けば、恒星の右手が後ろの机に振り下ろされていた。
食器を下げに行こうと立った後輩二人が歩き出して十歩くらいのところで、ダァンッと空気を震わせた。騒がしいカフェテリアが一瞬、時が止まったかのようになる。
やってしまった。
すぐに騒然さは元に戻ったが、再び動き出した時間はもう戻せない。
夢だと思いたかったけれど、恒星の右手の鈍い痛みが夢じゃないのだと現実を見せつけてくる。
「え、やば……」
「こわ」
そう言いたげな顔をして、コソコソ話しながら後輩二人は走り去る。
「恒星……」
「お前、やりすぎじゃね? そこの席取られたからってさぁ」
勘違いをした友達二人はドン引き、という表情を浮かべる。
「……先行くわ」
弁解の余地もない。あいつらも悪いけど、俺も間違いなくやりすぎた。百パーセント無意識じゃなかった。5パーセントくらいは自分が決めた事だ。あーあ、本当人間関係って面倒くさ。
恒星は、パソコンをしまって裏口から抜け出してカフェテリアから離れたベンチに座る。
「……最悪すぎる。やり過ぎた」
最悪だ……本当に今日は最悪だった。いつもならこんなに取り乱すほど、余裕はなくならないのに。卵サンドをあの中学生に譲ったところまではまだ良かったんだ。
ただ、普段と違う事が重なったのが悪かったんだと頭を抱える恒星の左隣にふわっと影が刺す。
「色んなことが重なって、我慢の糸が切れたんだ。」
頭の中に浮かんでいた言葉が、聞き覚えのある透き通った声で流れてきた。
「そうそれ!……って、ナレーションかよ。」
「あははっ、ナイスツッコミです!」
朗らかに笑うその女の子は、何かから解放されたような、幸せそうな顔をしていた。
「あ。なんか見覚えあると思ったらあんた、さっきの中学生じゃん。」
ナレーションかのように、恒星の気持ちを読んでみせた女の子はさっき、恒星が卵サンドを譲った小さな中学生だった。
「失礼なっ!先輩の一個下ですよ。」
「……へぇ」
明らかに信じてない恒星の反応に、女の子は「あー! 疑ってる!」と指摘してすぐに表情を暗く変える。
「……じゃあ、言いますけどミノムシって呼ばれてたの私です」
「悪い、なんか俺が無理やり言わせたみたいだな。……てか、なんでミノムシなの?」
「いえ、先輩は悪くないですよ。私、蝶野実里っていうんです。それで、ミノムシ」
「うわ、あだ名のセンス壊滅的すぎだろ。こんな綺麗な名前なのに。」
急に静かになって、またやらかした!と焦った恒星は、俯いて黙り込んでしまった実里の顔を恐る恐る覗き込んだ。
実里は顔から耳まで真っ赤で、それにまんまと釣られて柄でもなく恒星も目を逸らした。
沈黙を破ったのは実里からで、「……はい、これ。卵サンド譲ってくれたから半分こしましょ!」と卵サンドを手渡した。
大して何も考えずに言った一言が、誰かを傷つけることがあるように。その逆も然り。
実里は、何かを決心したかのようにまだ赤らんだままの頬を両手で抑えて微笑んだ。
「……嬉しかったです、さっきの。お礼にこれから先輩以上の事をやろうとしている私からも一言。先輩は全然やり過ぎてないですよ。」
大して何も考えずに言った一言が、誰かを救うことがある。
これは最上恒星と蝶野実里の始まりの物語。
実里が、自分の未来と恒星のために、人生で初めて抗ったのはまた別のお話で。



