相変わらず、課題も進まないまま、僕は、部屋にこもっていた。
スケッチをしてみたり、その上に絵の具を乗せてみたり、落書きみたいなものをたくさん描く。
部屋の中がぐちゃぐちゃになって足の踏み場もないくらいだ。
僕は相変わらず、カシスリキュールに手を出しては酔っ払っていた。
隼は昨日も今日も遅番だった、帰りは11時近かった。
――もうすぐ着くよ。
いつも帰りにメッセージをくれる。
それを見て、僕は玄関の鍵を開ける。
遅い時間にチャイムを鳴らすのは、隣人に迷惑になりそうで気になった。
「ただいま」
「おかえり〜」
僕はすぐに駆け寄る。
「今日は大丈夫で良かった」
隼が僕を抱きしめる。
「そんないつも酔っ払ってないよ」
とは言え、すでに1杯は飲んでいた。
「ん。……今日もたくさん描いてたんだな」
そういうと隼はその紙たちを拾ってまとめる。
「これいいじゃん」
「いやダメだよ。影の形が捉えられてない」
「……そっか」
隼が紙をまとめてくれる。
その姿を見るたびに僕は情けなくなって悲しくなる。
でも、それを見せずに一緒にまとめる。
嫌われたくないから……。
「ありがとう」
僕はまとめてくれた紙を受け取る。そして、机の上に置いた。
こんなに描いたのに何一つ掴めていない自分に、たまらない気持ちになってまた飲みたくなる。
「もうちょっと飲もうかな。隼も飲もうよ」
「ちょっとだけな」
「うん」
僕はさっき飲んだグラスに、カシスリキュールを入れる。
トロッとした濃いマゼンタの色がグラスに広がる。そこに水を注ぐとゆっくりと淡いマゼンタ色がひらひらと広がる。
その姿を少し眺めてから、冷蔵庫の中のビールを隼に渡した。
「いつも買ってなくていいよ。俺も、それ飲んでみたい」
「これ?」
手に持っていたグラスを隼に見せる。
「そう、頂戴」
「うん」
カシスリキュールを、水で薄めて、隼に渡す。
「お疲れ!」
そう言って、グラスをコツンとあてて、飲む。
あぁ。美味しい。
カシスの甘くて、濃いベリー系の香りがする。
「あまっ」
隼が少し、眉間に皺を寄せる。
僕はその姿に少し笑った。
「好きじゃない?」
「いや、嫌いではないけど、好んでは飲まないな」
「じゃぁビール飲みなよ」
「ちゃんと最後まで飲むよ」
「いいよ。僕が飲むから」
「拗ねてんの?」
「違うよ。飲むなら好きなの飲んだ方がいいと思っただけ」
「いいんだよ。今日は海が飲んでいるのを飲みたかったから」
「……ならいいけど」
「でも、なんで、これ常備してんの?」
「中々、無くならないし、僕、甘党だから」
「あ〜、そうだよな。あんぱんとか、カフェオレとか好きだもんな」
「ふふっ。よく知ってるね」
「そりゃ、好きなやつの好きなものくらい知ってるよ」
「ふ〜ん」
「海は? 俺の好きなもの知ってる?」
そう言うことを気にしてる隼が、愛おしくおもえて少し笑った。
「知ってるよ。ビール。焼酎。コーヒーはブラックだし、卵焼きを作るのが上手」
隼が嬉しそうに笑った。
「そう」
隼が僕に近づいてきて、抱きしめた。
「見てくれてるんだ」
「もちろんちゃんと見てるよ」
「うん」
僕は隼にキスをした。
隼が少し笑う。
僕はもう一度唇を重ねようと近づく。
隼が僕の頬に軽く口付けた。
喉の奥が詰まって、胸が苦しい。
僕は悲しくなって、グラスの中のカシスリキュールを全部飲んだ。
「シャワー浴びてくる」
バスタブの中でシャワーを浴びながら静かに泣いた。
隼は一度してからずっと抱いてくれない。
気持ち悪かったのかな。やっぱり女の子とする方が良いのかな。
苦しい。好きになるんじゃなかった。こんなの付き合ってるって言うのかな。
課題もしなくちゃいけないのに、隼のことで頭がいっぱいで、本当ダメだな……。
情けない自分が嫌になってまた消したい気持ちが膨らんでくる。
こんな自分なんて消えた方がいいんだ。
シャワーの水の流れる音を聞きながら、バスタブの中に座って呆然としていた。
水が顔にかかって苦しい。
このまま息が出来なくて、窒息死できたら楽になるのになぁ。
弱い自分が嫌になる。
もっとお酒が飲みたい。でも隼がいる。
飲めない。してもくれない。適当に抱いてくれる人に会いにも行けない。
僕はどこにこの気持ちを持って行けばいいのか分からない。
シャワーから上がって、ベッドに横になった。
「先に寝るね」
「俺も浴びたら寝るよ」
「うん」
隼はシャワーを浴びてから、僕を後ろから抱きしめた。
「海……好きだよ」
「うん……」
背中に隼の温かさを感じる。その温かさを感じて、さらに切なくなる。
結局僕は、隼に振り回されっぱなしだ。こうなっていくのが一番嫌だったのに。
胸の奥の深いところが沈んでいく。瞳から涙が一筋流れた。
僕はそれ以上泣かないようにして、隼の腕を抱きしめて眠った。
隼は疲れていたのか、すぐに寝息を立てて眠っていた。
暗くなった部屋には微かな月明かりが滲んでいた。
僕は白いキャンバスの前で呆然としていた。今日も何も浮かんでこないまま一日が終わりそうだった。
夕日がまた差し込んできて、部屋を黄金で包み込む。
僕はその光景を見ながら、また虚しくなった。
隼は僕のこと本当に好きなのだろうか?
やっぱり男とするなんて嫌だったのかな。
隼は優しいから、言えないのかもしれない。
……僕が他の人としたらもう、終わるのかな。
そうなったとしても、隼と会う前の自分に、また戻るだけだ。
その方が楽かもしれない。
課題も終わらない。抱いてもくれない。
それなのに、僕は隼のことで頭がいっぱいで、ずっと恐れていたように、自分が保てなくなってる。
みっともなくて、恥ずかしい。
こんな自分は本当にいなくなった方がいい。
呆れられる前に、もう別れた方がいい。
隼から別れようと言われる日が来そうで怖い。
そうなる前に自分から壊してしまった方が楽かもしれない。
隼は今日遅番だったから、帰ってくるのは十一時頃だろうと思った。
僕はアプリを開いて、約束をした。
――そして街に出た。
このどうしようもない僕をどうしようもない誰かに抱きしめて貰いたかった。
そして、僕は隼からの連絡を無視して、夜中に家に帰った。
真っ暗な中、街灯がほのかにアパートを照らしていた。
隼が家の前でタバコを吸いながら座っている。
僕を見ると立ち上がって、簡易灰皿にタバコを押し付けて火を消した。
そして僕に近づいた。
「どこに行ってたの?」
隼の声が震えている。
「……ずっと待てたの?」
「何してたの?」
その声を無視して玄関の鍵を開けた。そして僕たちは部屋の中に入った。
隼が僕の肩を持って、真っ直ぐに僕を見た。
「何してたの?」
「……もう、別れよう」
「……俺が、しないから?」
「そうだよ。隼は僕のことを本当は好きじゃないんだよ。それなのに、僕はどんどん好きになって……惨めだ」
隼が僕を抱きしめた。
「ごめんな。ごめん。海のこと大事にしたいのに、伝わらねぇな……」
「……うん。伝わらない」
「そっか。別れたいから、出掛けてきたの? それとも耐えられなかっただけ?」
涙がポロポロと流れてくる。でも心は空洞でもう何も感じないようだった。
それなのに、僕の手は、隼にしがみ付いていた。
隼は黙ったまま震えていた。
さっき吸っていた、強いタバコの煙の匂いがした。僕の好きな隼の匂いだった。
その瞬間、胸の奥が掴まれたように苦しくなった。
しばらく僕たちは震えながら黙っていた。
そして、隼の手が僕を力強く抱きしめたかと思おうと、僕の服を脱がして、お風呂に連れて行った。
自分も服を脱いで、僕にシャワーをぶっかけて、ボディーソープを垢すりタオルに取って、僕の体を洗った。
僕はただひたすら泣いていた。
隼も泣いていた。
ゴシゴシと擦る力が強くて痛かった。
初めて出会った、あの夜を思い出した。
あの時、嫌そうにしながらも優しく洗ってくれた。
でも今は痛くて痛くて仕方なかった。
擦る力が強いからなのか、心が痛いからなのか分からない。
隼は声を押し殺したように泣きながら、シャンプーをとって僕の頭を洗って、シャワーを上から叩きつけるように流した。
隼は何度も壁に手をついて嗚咽をこらえて震えていた。
隼にこんなことをさせてる自分が悲しくて悲しくてたまらなかった。
それから、隼はぶつけるように唇を重ねた。
深く深くキスをして、僕は息が出来ないくらい苦しかった。
隼は僕を強く抱きしめて、泣いた。痛くて苦しかった。僕もずっと震えていた。
そして、濡れた体のまま、僕を抱きしめて、ベッドに倒して、抱いた。
それはまるで隼が僕を大事にしてくれていた事を証明するかのようだった。
隼はずっと泣いていた。
ーーもう別れるんだと分かった。
僕は自分から手を離したんだ……。
ズタズタに引き裂いて、死んでしまいたかった。
こんな僕が生きる価値なんてあるのだろうか……。
悲しくて、虚しくて、隼をこんなに辛い気持ちにさせてしまった自分を許せなかった。
好きなのに、怖い。信じきらない方が楽だった。だから、自分から壊した。
もう、どうでもいい。
こんな僕を好きになってくれる人なんてやっぱりいないんだと思う。
次の朝、隼は「守ってあげられなくてごめん」と言って、出て行った。
――僕は完全に光を失った。
隼に出会う前に戻っただけなのに、僕の世界は隼と出会う前よりも、もっと深い闇に包まれたかの様だった。
僕はその日、ベッドから出れずに、ぼんやりとカーテンの閉まったままの窓を眺めていた。
紺色のカーテンから、透ける、白い光。この光を外に出て掴んでみたかった。
僕はただひたすらにぼんやりと、カーテンから透けるその光を見ていた。
隼の部屋で初めて目が覚めた時のあの光の粒。
あの白い光だった。
初めて隼がしてくれて一緒に朝を迎えた時も。
この白い光が輝いていた。
隼の優しい眼差し。付き合おうと言ったあの優しい声。
こんなに好きなのに、伝えきれなかった想い。
白くて、真っ直ぐなその光は、隼の光のように感じた。
もう何も感じられず、心は空っぽなのに、涙だけがこめかみから伝って、ゆっくりとまくらを濡らす。
拭う気にもなれずに、じっとして、ただ、カーテンの向こう側にあるだろう、白い光を見ていた。
そのうち、僕は少し眠った。
そして、また目が覚める。
気づけば、カーテンから透ける光が黄金の光になっていた。
カーテンレールの側で、カーテンの隙間から、黄金の光が漏れている。
隠しきれない、その光をぼんやりと眺める。
天井にその光と影が滲んでいる。
起き上がって、お酒を手に取る気持ちにもなれず、呆然とそれを見ている。
キラキラと埃が舞っていたあの風景を思い出す。
掴みきれなかったあの光。掴みたかったあの光の粒。
隼に触れるのが怖かった。
抱いて欲しいと想いながら、遠ざけていたのは僕の方なのかな。
また瞳から涙がじんわりと溢れ出て、枕がまた濡れた。
一日が終わろうとしているのに、動けない。
食べることも飲むこともしたくない。
このまま消えてしまうのもいいのかもしれない。
きっと誰も何も思わない。
僕が存在しなくてもなんの影響もない。
世界はそれでも動いていて、僕が生きていたことなんてそのうち誰も知らなくなる。
黄金の光がいつの間にか、消えて、部屋の中が真っ暗になった。
僕はその暗闇にそっと目を閉じた。
もう、どうでも良かった。怖いとも感じなくなっていた。
暗闇に抗うこともなく、ただそっとそこで息をしている。
今日一日何もしなかった。
もう何もしたくない。
このまま干からびて、跡形もなく消えてしまいたかった。
明日も明後日ももういらない。
課題ももうどうでもいい。僕はそのまま眠った。
眠ったその先は、死後の世界と同じなのだろうか?
ただの意識の世界。
そこには肉体がないけれど、感情や、体の感覚だけはちゃんと感じる。
でも本当に体はないのだろうか? ないと思っているだけで、夢の世界が現実で、こうやって生きていると思っている方が夢なのかもしれない。
だとしたら、夢なんて残酷なものだな。
まぁ現実世界で夢を見ることもまた、残酷なことでもあるか。
人はなんで夢を見るんだろう。そんなことしなきゃ傷つくこともないのに。
どうして、隼に手を伸ばしてしまったんだろう。
こうなるのが一番怖かったのに。それを分かっていたのに。
僕はそのまま眠りについた。
クーラーと、時々冷蔵庫のブーンという音だけが静かに響いていた。
スケッチをしてみたり、その上に絵の具を乗せてみたり、落書きみたいなものをたくさん描く。
部屋の中がぐちゃぐちゃになって足の踏み場もないくらいだ。
僕は相変わらず、カシスリキュールに手を出しては酔っ払っていた。
隼は昨日も今日も遅番だった、帰りは11時近かった。
――もうすぐ着くよ。
いつも帰りにメッセージをくれる。
それを見て、僕は玄関の鍵を開ける。
遅い時間にチャイムを鳴らすのは、隣人に迷惑になりそうで気になった。
「ただいま」
「おかえり〜」
僕はすぐに駆け寄る。
「今日は大丈夫で良かった」
隼が僕を抱きしめる。
「そんないつも酔っ払ってないよ」
とは言え、すでに1杯は飲んでいた。
「ん。……今日もたくさん描いてたんだな」
そういうと隼はその紙たちを拾ってまとめる。
「これいいじゃん」
「いやダメだよ。影の形が捉えられてない」
「……そっか」
隼が紙をまとめてくれる。
その姿を見るたびに僕は情けなくなって悲しくなる。
でも、それを見せずに一緒にまとめる。
嫌われたくないから……。
「ありがとう」
僕はまとめてくれた紙を受け取る。そして、机の上に置いた。
こんなに描いたのに何一つ掴めていない自分に、たまらない気持ちになってまた飲みたくなる。
「もうちょっと飲もうかな。隼も飲もうよ」
「ちょっとだけな」
「うん」
僕はさっき飲んだグラスに、カシスリキュールを入れる。
トロッとした濃いマゼンタの色がグラスに広がる。そこに水を注ぐとゆっくりと淡いマゼンタ色がひらひらと広がる。
その姿を少し眺めてから、冷蔵庫の中のビールを隼に渡した。
「いつも買ってなくていいよ。俺も、それ飲んでみたい」
「これ?」
手に持っていたグラスを隼に見せる。
「そう、頂戴」
「うん」
カシスリキュールを、水で薄めて、隼に渡す。
「お疲れ!」
そう言って、グラスをコツンとあてて、飲む。
あぁ。美味しい。
カシスの甘くて、濃いベリー系の香りがする。
「あまっ」
隼が少し、眉間に皺を寄せる。
僕はその姿に少し笑った。
「好きじゃない?」
「いや、嫌いではないけど、好んでは飲まないな」
「じゃぁビール飲みなよ」
「ちゃんと最後まで飲むよ」
「いいよ。僕が飲むから」
「拗ねてんの?」
「違うよ。飲むなら好きなの飲んだ方がいいと思っただけ」
「いいんだよ。今日は海が飲んでいるのを飲みたかったから」
「……ならいいけど」
「でも、なんで、これ常備してんの?」
「中々、無くならないし、僕、甘党だから」
「あ〜、そうだよな。あんぱんとか、カフェオレとか好きだもんな」
「ふふっ。よく知ってるね」
「そりゃ、好きなやつの好きなものくらい知ってるよ」
「ふ〜ん」
「海は? 俺の好きなもの知ってる?」
そう言うことを気にしてる隼が、愛おしくおもえて少し笑った。
「知ってるよ。ビール。焼酎。コーヒーはブラックだし、卵焼きを作るのが上手」
隼が嬉しそうに笑った。
「そう」
隼が僕に近づいてきて、抱きしめた。
「見てくれてるんだ」
「もちろんちゃんと見てるよ」
「うん」
僕は隼にキスをした。
隼が少し笑う。
僕はもう一度唇を重ねようと近づく。
隼が僕の頬に軽く口付けた。
喉の奥が詰まって、胸が苦しい。
僕は悲しくなって、グラスの中のカシスリキュールを全部飲んだ。
「シャワー浴びてくる」
バスタブの中でシャワーを浴びながら静かに泣いた。
隼は一度してからずっと抱いてくれない。
気持ち悪かったのかな。やっぱり女の子とする方が良いのかな。
苦しい。好きになるんじゃなかった。こんなの付き合ってるって言うのかな。
課題もしなくちゃいけないのに、隼のことで頭がいっぱいで、本当ダメだな……。
情けない自分が嫌になってまた消したい気持ちが膨らんでくる。
こんな自分なんて消えた方がいいんだ。
シャワーの水の流れる音を聞きながら、バスタブの中に座って呆然としていた。
水が顔にかかって苦しい。
このまま息が出来なくて、窒息死できたら楽になるのになぁ。
弱い自分が嫌になる。
もっとお酒が飲みたい。でも隼がいる。
飲めない。してもくれない。適当に抱いてくれる人に会いにも行けない。
僕はどこにこの気持ちを持って行けばいいのか分からない。
シャワーから上がって、ベッドに横になった。
「先に寝るね」
「俺も浴びたら寝るよ」
「うん」
隼はシャワーを浴びてから、僕を後ろから抱きしめた。
「海……好きだよ」
「うん……」
背中に隼の温かさを感じる。その温かさを感じて、さらに切なくなる。
結局僕は、隼に振り回されっぱなしだ。こうなっていくのが一番嫌だったのに。
胸の奥の深いところが沈んでいく。瞳から涙が一筋流れた。
僕はそれ以上泣かないようにして、隼の腕を抱きしめて眠った。
隼は疲れていたのか、すぐに寝息を立てて眠っていた。
暗くなった部屋には微かな月明かりが滲んでいた。
僕は白いキャンバスの前で呆然としていた。今日も何も浮かんでこないまま一日が終わりそうだった。
夕日がまた差し込んできて、部屋を黄金で包み込む。
僕はその光景を見ながら、また虚しくなった。
隼は僕のこと本当に好きなのだろうか?
やっぱり男とするなんて嫌だったのかな。
隼は優しいから、言えないのかもしれない。
……僕が他の人としたらもう、終わるのかな。
そうなったとしても、隼と会う前の自分に、また戻るだけだ。
その方が楽かもしれない。
課題も終わらない。抱いてもくれない。
それなのに、僕は隼のことで頭がいっぱいで、ずっと恐れていたように、自分が保てなくなってる。
みっともなくて、恥ずかしい。
こんな自分は本当にいなくなった方がいい。
呆れられる前に、もう別れた方がいい。
隼から別れようと言われる日が来そうで怖い。
そうなる前に自分から壊してしまった方が楽かもしれない。
隼は今日遅番だったから、帰ってくるのは十一時頃だろうと思った。
僕はアプリを開いて、約束をした。
――そして街に出た。
このどうしようもない僕をどうしようもない誰かに抱きしめて貰いたかった。
そして、僕は隼からの連絡を無視して、夜中に家に帰った。
真っ暗な中、街灯がほのかにアパートを照らしていた。
隼が家の前でタバコを吸いながら座っている。
僕を見ると立ち上がって、簡易灰皿にタバコを押し付けて火を消した。
そして僕に近づいた。
「どこに行ってたの?」
隼の声が震えている。
「……ずっと待てたの?」
「何してたの?」
その声を無視して玄関の鍵を開けた。そして僕たちは部屋の中に入った。
隼が僕の肩を持って、真っ直ぐに僕を見た。
「何してたの?」
「……もう、別れよう」
「……俺が、しないから?」
「そうだよ。隼は僕のことを本当は好きじゃないんだよ。それなのに、僕はどんどん好きになって……惨めだ」
隼が僕を抱きしめた。
「ごめんな。ごめん。海のこと大事にしたいのに、伝わらねぇな……」
「……うん。伝わらない」
「そっか。別れたいから、出掛けてきたの? それとも耐えられなかっただけ?」
涙がポロポロと流れてくる。でも心は空洞でもう何も感じないようだった。
それなのに、僕の手は、隼にしがみ付いていた。
隼は黙ったまま震えていた。
さっき吸っていた、強いタバコの煙の匂いがした。僕の好きな隼の匂いだった。
その瞬間、胸の奥が掴まれたように苦しくなった。
しばらく僕たちは震えながら黙っていた。
そして、隼の手が僕を力強く抱きしめたかと思おうと、僕の服を脱がして、お風呂に連れて行った。
自分も服を脱いで、僕にシャワーをぶっかけて、ボディーソープを垢すりタオルに取って、僕の体を洗った。
僕はただひたすら泣いていた。
隼も泣いていた。
ゴシゴシと擦る力が強くて痛かった。
初めて出会った、あの夜を思い出した。
あの時、嫌そうにしながらも優しく洗ってくれた。
でも今は痛くて痛くて仕方なかった。
擦る力が強いからなのか、心が痛いからなのか分からない。
隼は声を押し殺したように泣きながら、シャンプーをとって僕の頭を洗って、シャワーを上から叩きつけるように流した。
隼は何度も壁に手をついて嗚咽をこらえて震えていた。
隼にこんなことをさせてる自分が悲しくて悲しくてたまらなかった。
それから、隼はぶつけるように唇を重ねた。
深く深くキスをして、僕は息が出来ないくらい苦しかった。
隼は僕を強く抱きしめて、泣いた。痛くて苦しかった。僕もずっと震えていた。
そして、濡れた体のまま、僕を抱きしめて、ベッドに倒して、抱いた。
それはまるで隼が僕を大事にしてくれていた事を証明するかのようだった。
隼はずっと泣いていた。
ーーもう別れるんだと分かった。
僕は自分から手を離したんだ……。
ズタズタに引き裂いて、死んでしまいたかった。
こんな僕が生きる価値なんてあるのだろうか……。
悲しくて、虚しくて、隼をこんなに辛い気持ちにさせてしまった自分を許せなかった。
好きなのに、怖い。信じきらない方が楽だった。だから、自分から壊した。
もう、どうでもいい。
こんな僕を好きになってくれる人なんてやっぱりいないんだと思う。
次の朝、隼は「守ってあげられなくてごめん」と言って、出て行った。
――僕は完全に光を失った。
隼に出会う前に戻っただけなのに、僕の世界は隼と出会う前よりも、もっと深い闇に包まれたかの様だった。
僕はその日、ベッドから出れずに、ぼんやりとカーテンの閉まったままの窓を眺めていた。
紺色のカーテンから、透ける、白い光。この光を外に出て掴んでみたかった。
僕はただひたすらにぼんやりと、カーテンから透けるその光を見ていた。
隼の部屋で初めて目が覚めた時のあの光の粒。
あの白い光だった。
初めて隼がしてくれて一緒に朝を迎えた時も。
この白い光が輝いていた。
隼の優しい眼差し。付き合おうと言ったあの優しい声。
こんなに好きなのに、伝えきれなかった想い。
白くて、真っ直ぐなその光は、隼の光のように感じた。
もう何も感じられず、心は空っぽなのに、涙だけがこめかみから伝って、ゆっくりとまくらを濡らす。
拭う気にもなれずに、じっとして、ただ、カーテンの向こう側にあるだろう、白い光を見ていた。
そのうち、僕は少し眠った。
そして、また目が覚める。
気づけば、カーテンから透ける光が黄金の光になっていた。
カーテンレールの側で、カーテンの隙間から、黄金の光が漏れている。
隠しきれない、その光をぼんやりと眺める。
天井にその光と影が滲んでいる。
起き上がって、お酒を手に取る気持ちにもなれず、呆然とそれを見ている。
キラキラと埃が舞っていたあの風景を思い出す。
掴みきれなかったあの光。掴みたかったあの光の粒。
隼に触れるのが怖かった。
抱いて欲しいと想いながら、遠ざけていたのは僕の方なのかな。
また瞳から涙がじんわりと溢れ出て、枕がまた濡れた。
一日が終わろうとしているのに、動けない。
食べることも飲むこともしたくない。
このまま消えてしまうのもいいのかもしれない。
きっと誰も何も思わない。
僕が存在しなくてもなんの影響もない。
世界はそれでも動いていて、僕が生きていたことなんてそのうち誰も知らなくなる。
黄金の光がいつの間にか、消えて、部屋の中が真っ暗になった。
僕はその暗闇にそっと目を閉じた。
もう、どうでも良かった。怖いとも感じなくなっていた。
暗闇に抗うこともなく、ただそっとそこで息をしている。
今日一日何もしなかった。
もう何もしたくない。
このまま干からびて、跡形もなく消えてしまいたかった。
明日も明後日ももういらない。
課題ももうどうでもいい。僕はそのまま眠った。
眠ったその先は、死後の世界と同じなのだろうか?
ただの意識の世界。
そこには肉体がないけれど、感情や、体の感覚だけはちゃんと感じる。
でも本当に体はないのだろうか? ないと思っているだけで、夢の世界が現実で、こうやって生きていると思っている方が夢なのかもしれない。
だとしたら、夢なんて残酷なものだな。
まぁ現実世界で夢を見ることもまた、残酷なことでもあるか。
人はなんで夢を見るんだろう。そんなことしなきゃ傷つくこともないのに。
どうして、隼に手を伸ばしてしまったんだろう。
こうなるのが一番怖かったのに。それを分かっていたのに。
僕はそのまま眠りについた。
クーラーと、時々冷蔵庫のブーンという音だけが静かに響いていた。
