僕は帰る途中、家の近くの公園に寄った。
 小さな子供たちが、砂場で遊んでいる。
 砂場の遊び道具が入っているビニールの袋に太陽の光があたって、水滴みたいにキラキラしている。
 ところどころに少し虹みたいな色も見えた。

 ……光だ。

 綺麗なのに、どこか遠い。

 その様子をぼんやりと見る。

 太陽に向けて手をかざす。
 指の血管が光を通して浮き上がり、影が滲む。
 掴もうとすると、ふっと逃げていく。

 なんでだろう。
 どうして、僕だけ、うまく触れられないんだろう。

 突然昨日のことが頭に浮かぶ。

 胸の奥がじんわり温かくなると同時に切なくなった。
 今、どうしてるかな。
 そう思っていたら、携帯にメッセージが届いた。
 隼だった。

 ――無事帰ってる?

 また一言だった。思わずクスクスと笑ってしまう。

 僕は公園の景色を撮って送った。
 ――ちゃんと帰ってるよ。

 ――帰ってねぇじゃん。
 ――近くの公園だよ。気持ちいいよ。
 ――それなら良かった。ちゃんと帰れよ。
 ――うん。分かってるよ。
 ――また後でな。

 携帯を胸ポケットにそっとしまう。

 ……嬉しい。隼はまめだなぁ。

 僕は少し安心した。それから、コンビニでお昼を買ってから家に帰った。

 家に着くと、窓を開けた。
 こもった空気が一気に流れ出して、湿った紙と鉛筆の粉の匂いがふわっと立ちのぼった。
 スケッチブックの古い紙の匂い、飲みかけのペットボトルの甘い残り香、床に落ちた練り消しのラバー臭。
 
 誰もいない部屋の匂いだった。
 
 僕は、床に散らばった、デッサン用紙を拾いあげ、机に置いた。
 それから、部屋のゴミを集める。
 ペットボトルのラベルを剥がして分別した。
 いつぶりか分からないくらいの掃除機を久しぶりにかけると、部屋に清々しい空気が流れた。

 はぁ〜。あっちぃ〜。

 部屋の窓を閉めてクーラーをかけた。
 ピッという音と同時に風が巻き起こる音がする。
 冷たい風が頬を撫でて、心が少しホッとした。

 ふぁ〜。気持ちいい。
 
 僕はしばらくの間、その風に体を預けて心地よさを感じていた。
 体の火照りがちょうどよく収まった頃に、ようやくその場から離れて、買ってきた、あんぱんに口をつけた。ペットボトルのカフェオレを飲む。

 口の中であんぱんとカフェオレが混ざり合って、いつもより更に美味しく感じる。

 久しぶりに綺麗になった部屋を眺めた。

 ……こんな部屋だったっけ?

 僕は苦笑した。流石にあの汚さに隼は呼べない。
 片付ける時間があって良かったと思った。

 ふと、公園で子供がおもちゃを入れていた、ビニールの袋を思い出す。
 僕はあんぱんをくわえたまま、クロッキー帳を開いた。
 確か、こんな感じだったよな〜っと線を入れていく。
 鉛筆の独特の匂いがする。それとあんぱんが口の中で混ざる。
 鉛筆が口に入るわけじゃないのに、匂いだけで、まるで口に入ったかのように感じる。

 頭に残っているイメージを紙に描こうとするが上手くいかない。

 もう少し、こうか……。いや、こうだったかな。

 ……あ〜!もう違う! 

 僕は上からぐちゃぐちゃっと塗りつぶし、クロッキー帳と鉛筆を机に投げるようにして置く。
 そして、カフェオレを飲んだ。

 掴めそうで掴めない。

 僕はベッドに横たわった。
 隼の匂いが自分の服から漂ってきた。
 タバコと、白檀が混ざったような、落ち着く匂い。
 その匂いが僕を少し安心させる。
 でもその一瞬で胸の奥がぎゅっと切なくなった。

 ――隼。

 僕は自分の体を抱きしめた。視界が滲んでいく。涙が枕に零れる。

 ……そしてそのまま眠りに落ちていった。

 ふっと眼が覚める。
 うわっ。寝てしまった! 今何時だ? 
 時計を見ると、ほぼ四時だった。
 三時間も寝てしまった。

 とにかく少しでも課題に取り組まないと。
 そう思って、クロッキー帳と鉛筆を手に取る。
 自然と、隼のタバコを吸う手を思いだし描く。
 隼の笑顔、隼の腕、隼の体の線。
 気がつくと隼ばかり描いていた。

 やばっ。僕、ストーカーみたいじゃん。

 恥ずかしくなって、その紙を破いた。
 はぁ。もう、何やってんだろう。

 朝『付き合おうよ』と隼が言っていた。
 どうして、一人の人とは付き合わないって言わなかったんだろう。

 やっぱり怖い。自分が保てなくなりそうだった。
 こんなに描いてしまうほど、自分の中に隼がいる。
 そう思うと途端に逃げたくなった。

 シンク横に置いてあったカシスリキュールの瓶を手に取り、グラスに入れてそのまま飲んだ。
 喉の奥がバーっと熱くなる。僕は慌てて、水を飲んだ。
 やっぱりこのままだと飲めない。強すぎる。
 でも一気に体がふわっとして、少しホッとする。
 
 お酒は僕の感じ方を少し麻痺させてくれる。
 縋り(すがり)付いているのは分かるけど、僕の感覚を鈍らせるのには一番良かった。
 
 気づくと夕暮れの黄金の光が、僕の部屋を包んでいた。

 明るい。強い光だ。

 僕はしばらくその綺麗な光景をただ眺めていた。

 携帯の着信音が鳴る。
 隼からだった。
「もしもし」
「今終わったよ。今から行くけどいい?」
「……うん」
「どうした? 大丈夫か?」
「今ね、夕陽が部屋に入ってきて、黄金色になってて、綺麗なんだ」
「そっか。一緒に見たかったな」
「うん。僕も、一緒に見たかったなぁ」
「今から行くから、どこにも行くなよ」
「……うん」
「約束だからな」
「分かってるよ」

 携帯を切ってからも、しばらくその光を眺めていた。
 そして、慌てて、クロッキー帳と鉛筆を片付けた。

 グラスに入れた、カシスリキュールの残りを水で薄めて飲んだ。
 さらに体の感覚が鈍る。ふわふわして、そして、泣けてくる。

 あ〜何してるんだろう。これから隼が来るというのに、まるで当てつけみたいだ。
 嫌われたらどうしよう。
 その瞬間また怖くなって、少しだけ入れて薄めて飲んだ。
 
 ダメだ。これじゃあアル中みたいだ。情けない。
 
 好きになればなるほど、見捨てられそうで、怖い。
 隼は本当に僕のことが好きなのかな? ただの同情じゃないのかな。
 
 うわぁ〜ん!! 
 
 胸がはち切れそうに痛い。このまま消えてしまいたい。
 こんな僕がこの世界にいるなんて、きっと誰も望んでない。
 
 美大にまで行ったのに、何もなってない。課題の意味さえも分からない。
 周りの人たちはどんどん自分の表現を見つけていくのに、僕は全然掴めないままだ。

 こんな僕じゃぁ、隼だって、きっとがっかりする。
 そうなった時が怖い。
 
 早く会いたい。でも会うのも怖い。どうしたらいいのか分からない。
 ダメだ。こんな自分じゃ会えない。
 
 僕は慌てて、冷蔵庫からペットボトルを出して、水を飲んだ。
 ちゃんとしなきゃ。ちゃんと。

 ピンポーンっと部屋のチャイムが鳴った。

 僕はゆっくり鍵を開けた。
 自分で扉を開ける勇気もなく、取っ手を眺める。
 ゆっくりと隼の方から扉を開けた。
 
「お〜、お前、どうしたの? もしかして、また飲んで辛くなってたのかよ」
「うわぁ〜ん」
「おいおい。とりあえず落ち着け。なっ」
「……僕、もう消えたいんだ」
「おう……分かった。分かったけど、とりあえず中に入れてくれ」
 そう言って、隼は部屋の中に入って来た。

「あっ。海の匂いがする。これ画材の匂い?」
「え? 臭い?」

「いや、頑張って来たやつの匂い」

 隼が僕の頭を撫でた。
「うわぁ〜ん。それなのに、僕、何も出来てない〜」
 隼が僕をぎゅっと抱きしめた。
「あ〜、もう、大丈夫だから、なっ。とにかく落ち着けよ」

「……僕、やっぱり無理だと思う」

「何が?」

「こんな僕といたら隼に迷惑かける」

「もう、迷惑とかどうでもいいんだよ。俺がそうしたいからしてんの。お前の許可とかいらねぇよ」

「ごめ〜ん」
「なぁ海。俺をちょっとは信頼してよ。お前が怖いなら、それごと全部引き受けるから。一人で抱えんなよ」
「うわぁ〜ん」
「……まぁ待っててくれただけでもいいのかもな」
 そう言って、隼は俺の頭を撫でた。

「しよう」
「……今、来たところなんだけどな」
「隼……お願い……」
「……今はしない」
「今、全部引き受けるって言ってた……」
「……海、引き受けるよ。でも」

 隼は少しだけ目線を下げて、息をついた。

「今のお前……俺じゃなくてもいいんだろ? それが嫌なんだよ」

「え……?」

「だから今はしない。お前がちゃんと、俺を見てる時にしたい」

 隼が真剣な眼差しで僕を見た。
 
「お前がしてきたやつと俺を一緒にすんなよ」
 
 その瞬間、胸の奥がぎゅっと掴まれたように苦しくなった。

「一緒になんてしてないよ!! だったら、こんなに辛くないんだよ〜!! うわぁ〜ん」

「……悪りぃ。でも、体だけで繋がろうとするなよ」

「……消えそうだから……したいんだよ」

 体だけで繋がろうとしているわけじゃない……。 
 でも、掴みたいのに掴めない光みたいに、どうやって伝えたらいいのか分からない。

「俺はそれだけじゃなくて……ちゃんと海の全部と繋がりたいんだ」

「……もう、やだ〜。こんな自分なんて消えたい」

「海は消えないよ。俺が絶対に消さない」

 隼のその言葉が僕の心臓を鷲掴みにした。
 さらに涙が頬を伝う。

「隼……。ごめ〜ん」
「海……ごめんは禁止な」

 隼は僕の顔を両手で包み込んでじっと見つめた。

 涙で滲む視界の中で、隼の瞳だけは真っ直ぐだった。
 そっと額に口をつけて、抱きしめながら背中を撫でてくれた。

「お腹空いてるから、なんか食べようぜ」
「……うん。でも何もないよ」
「じゃぁ食べに行こう」
「こんな顔じゃ食べに行けない」
「じゃぁ……ピザでも頼もうか」
「……うん」

 ピザが来るまで隼はずっと僕を抱きしめてくれた。
 隼の腕の中で少しずつ落ち着きを取り戻した。
 
 優しくされればされるほど、僕はダメになる。
 どんどんその優しさに溺れて、息が出来ない。
 でも、もう自分でどうやって泳いだらいいのか分からなくなっていた。

 僕たちはその日、何もせずにただ抱き合って眠った。
 
 こんなに近くにいるのに、隼の心はどこか遠く感じる。
 隼はちゃんと、しないことはしない。 
 しっかりと自分の足で立ち過ぎていて、その安定が僕を逆に不安にさせた。
 僕が入る隙がないように思えて、いつか、本当に嫌われそうで怖かった。
 それでも今は隼の温もりを頼りにするしかなかった。

 部屋の中は暗かった。

 月明かりだけがカーテンの隙間からぼんやり部屋を照らしていた。
 僕は隼の心臓の音を聞きながら、静かに眠りに落ちていった。