光。プリズム。虹。反射。太陽、月明かり、蛍光灯、街のネオン……。

 光はそこにあるのに、僕だけが取り残されてる。

 どんなに光を追いかけても、心が何も動かされない。触れたいのに、全部すり抜けていく。

 影を見るのが怖かった。 
 影の形を追うと、胸の奥のざらついたものまで見えてしまいそうで、逃げたくなる。

「はぁ〜。光の所在ってなんだよ!」

 僕はクロッキー帳と鉛筆を投げた。光がどこから来ているのか、分からない。
 床にはデッサンが散らばっていた。線だけのもの、ぐちゃぐちゃに塗り潰したもの、ペットボトル、窓のプリズム、手、体──どれも心が反応しない。

 鉛筆の粉と紙の匂いだけが、部屋に沈殿していた。
 色も光も影も掴めない。 

 色の輝きも分からないのに、課題が「光の所在」なんて……。

 光ってなんなんだよ……。
 ずっと分からないまま、夏休みも半ばになり僕は焦っていた。
 
 バイトのシフトも後半は入れてなかった。
 だから、時間はあったけれど、隼には会えないままだった。

 飲み会の後、隼のうちに行って以来、一週間が経とうとしていた。たった一週間なのに、すごく遠くに感じる。僕は相変わらず、寂しくなって、二度ほど知らない人と寝た。
 隼を知ってから、知らない人としても寂しさが埋まらない。それどころか、何故かもっと寂しさを感じた。

 隼に会いたいな……。

 ピロン! と携帯が鳴った。

 一瞬、隼かと期待してしまったけど、演劇のワークショップで会った、シンジさんからだった。

 ――元気してる?
 
 ――してない
 ――会う?

 隼の顔が横切る。
 やめた方がいいかなっと少し思ったけど、隼に会えるわけでもない。
 それに、ずっと課題に向き合うのも辛かった。

 ――会う

 そう返信して、僕はシンジさんと会う為に、街に出た。
 待ち合わせの駅に行くと彼は駅のベンチに座って待っていた。
 シンジさんが僕に気付く。

「よう!」
「……よう」

「すぐそこにさぁ、美味しい焼き鳥あるから、そこ行こうぜ」

「……それはいいから、すぐヤりたい」

「え??」
「したいから、連絡して来たんじゃないの?」
「そうじゃねぇよ」
「なんだ。じゃぁ僕、帰る」
「は!?」
「僕、今ヤりたいから、ヤってくれないなら他探す」
「いや、ちょっと待て。いつもそんな感じなの?」
「そうだけど」
「ほら、もっとお互いのこと知るとかしないの?」
「僕、そういうのいい。前も言ったけど、誰とも付き合う気ないし」
「お前ヤりたいだけなの?」
「そう」

「はぁ〜。ほれ、来い」

 そう言うと、シンジさんが両手を広げて僕を見た。
 それを呆然と見てると、彼は近づいてきて、僕をぎゅっと抱きしめた。

「そんな事ばっかしてると、壊れるぞ」

 僕はシンジさんを突き放した。

「いいんだよ。僕はすでに壊れてるんだから!」

「隼のこと好きなんだろ?」
 僕は何も答えない。

「しんどい?」
「そうじゃないよ。……隼に会う前からそうだから」
「お前、幾つ?」
「え? 二十歳だけど」
「若いね〜。なんでそんなにヤりたいの?」
「して欲しいから」
「……中毒にでもなってんの?」
「ほっといてよ」

「話なら聞くから、抱いてもらうより、効果あるかもしれないよ」

「そんなの求めてない」
「せっかく来たんだから、飯ぐらい一緒に食べようよ」
「……」
「なっ。奢ってやっから」
「……じゃぁ少しだけ」
「よし」

 結局、シンジさんおすすめの焼き鳥屋へ行った。

 中央に焼き鳥を焼いているスペースがある。
 煙が少し上がっているが、換気がいいのか、店内はそんなに煙くない。
 炭火と鶏肉の焼けるいい香りがして食欲をそそる。
 間接照明が揺らめいてジャズっぽい音楽が静かにかかっている。
 そんな大人な雰囲気の居酒屋だった。

 とりあえずビールを頼んで、飲み始める。
 夏の暑さに初めのビールは美味しい。
 それがちょっと分かるようになってから、少し大人になった気がする。

「海って美大って言ってたっけ?」
「うん。シンジさんは?」
「俺、フリーターだから」
「そうなんだ。幾つなの?」
「二十七」
「そんなに上だったんだ」
「そうそう、俺、お前より大人だよ。だからなんでも話してみ?」
「なんで、誘ってきたの?」
「ん〜? この前、ゆっくり口説くって言ったじゃん」
「そんな事、本気で思ってないくせに」
「バレてたか」
 シンジさんが笑う。
「まぁ、ノンケ好きになって辛いんかなと思って」
「別に好きになってないし」
「素直じゃないねぇ〜」

「僕は誰も好きにならないって決めてるんだ」

 ビールの入ったグラスを持って、ゴクゴク飲んだ。

「どうしてそこまで決めるんだ?」
「その方が楽だから」
「それじゃぁ寂しくない? いくら人に抱かれても虚しくねぇの?」
「そんなことない」
「俺はそれだけだと悲しいなって思うんだよね。どこかでちゃんと繋がれるやつと一生一緒にいれたら最高じゃん」
「重っ」
「重くていいじゃん」
「そんなこと言う人初めて会った」
「そもそも人と繋がるっていうことはそういうことじゃねぇの? って俺は思うんだけど」
「そうかな? 軽くてもそこにも大事な何かはあると思う」
「ほ〜。例えば?」
「例えば……その場だけでも相手を感じるとか」
「ほ〜」
「それに嫌い合わなくて済むとか」
「その場だけで、嫌われないように生きて、それって相手、そこにいなくねぇ?」
「どういう意味?」
「それって相手と行き来してねぇじゃん。なんも。結局一人でしてんのと変わらなくねぇ?」
「全然違うよ!」
 僕は思わず大きな声を出してしまった。
 
「……ごめん」

 あ〜、なに興奮してんの?
 ちゃんと伝えられない自分が未熟に見えてもどかしかった。
 僕は残りのビールをグビグビグビ〜っと一気に飲んだ。
「っはぁっ」

「……おかわり頼む?」
「うん。……カシスオレンジにする」
「了解」
 シンジさんが店員に注文する。

「別に、海のこと否定してるわけじゃねぇよ。俺にはただそれが分からないだけ。分からないからと言って、悪いって言ってるわけじゃないんだよ」
「うん」
「お前の人生なんだし、お前が体験したいことを体験すればいいんだから」
「うん。……シンジさんには分からないと思う。でも、本当に相手がいないわけじゃない」
「おう、ごめんな」

「お待たせいたしました〜。カシスオレンジと生ビールです」
 店員がテーブルにお酒を置いていく。

 僕はグラスに口を付けて一口飲んだ。
 オレンジの甘酸っぱさが僕を優しく包んでくれて、勝手に涙が頬を伝った。
 僕は慌てて、涙を手で拭った。
 
 理解して貰えないもどかしさなのか、頑固に突っぱねてる自分が愚かに見えたのか……。
 よく分からない感情が心の中でざわついた。
 

「シンジさんは隼と仲良いの?」
「そうでもないけど、ちょうど『シーン』やるから最近は少し話すかな」
「そっか」
「でも、何にも話せることはねぇよ」
「え?」
「本当は、隼のことでも聞きたかったんじゃねぇの?」
「そんなことないよ。本当に、ヤりたかっただけ」

 シンジさんは吹き出すように笑った。
「お前ってさぁ、そんな顔してすげーな」

 またこの人言ってる……。

「そんな顔ってどんな顔だよ」
「ん〜、純粋そうな、可愛い子犬みたいな顔」
「……どんなだよ。それ」
「まぁヤってもいいんだけどさ、やっぱ、隼好きなやつとは出来ねぇよな」
 
 その言葉が胸の奥を切なく振るわせた。
 店の中の温かい間接照明が静かに灯っている。
 その温かい雰囲気がさらに僕の心を切なくさせた。
 
 僕は俯いた。
「意外といいやつなんだな……」
「やっと分かったか」
「うん」
「好きなら行けばいいんじゃねぇの? ってまぁ、そう簡単にはいかねぇかぁ。あいつノンケだもんな」
「うん。でも優しくて、もしかしたらいけるんじゃないかと思っちゃうんだよね」
「へぇ〜。じゃあいけるんじゃん?」
「え?」
「たまに聞くぞ。ノンケだと思ってたけど、目覚めたやつ」
 シンジさんが、からかうように笑った。
 僕も一緒に笑った。

「でもそうだとしても、やっぱり怖いな。一人だけを好きになるのって」

「それって、すでに好きってことじゃん。気持ちくらい認めてあげたらいいんじゃねぇの?」

「……そうだね」

 また涙が出そうになる。
 人の前では泣きたくない。でも、お酒が入ると緩んでしまう。

「まぁ失恋したら、拾ってやるよ」
「だから、僕は一人の人とは付き合わねぇの」
「分かったよ」

 それから、僕たちはしばらく飲んでから店をでた。

「お前、大丈夫? 酔っ払ってねぇ?」
「そりゃ、飲んだら酔うでしょ」
「送ってこうか?」
「大丈夫。僕、まだ帰らないから〜」

「……誰か誘ってすんのか?」
「そうだよ。おまぁえしてくれないって言うから〜」
「隼のところ行けよ」
「やだ。迷惑になるぅ」
「なんでだよ」
「だって、ノンケだからっ」
「はぁ〜。……程々にしろよ」
「お〜う! 今日はありがとう! ご馳走様〜」
「ん。じゃぁな」
「うん。バイバ〜イ」

 僕はシンジさんに大きく手を振った。そして僕はアプリを開いた。
 お酒が入ると我慢していたものが一気に溢れ出す。

 普段何も感じないように閉ざしている扉が開いて、心地よくこっちにおいでと誘ってくる。
 でもそこを越えすぎると罪悪感で消えたくなってしまう。
 そうなる前に誰かに抱きしめて捕まえて欲しかった。僕という存在を。

 でも……本当は隼に会いたかった。
 
 あれから、何も連絡もない。もし拒まれたら、もう会うことが出来ない。立ち直れない。
 だから、誰でもいいから抱きしめて欲しかった。愛されたかった。その一瞬でも誰かに愛してほしかった。
 まだ、この世界にいても良いよって思わせて欲しかった。
 
 なんとか、約束を取り付けて、電車に乗ろうと改札へ向かった。
 その時、携帯の着信音が鳴った。

 隼だった。

 なんで、こんな時に限って隼なんだよ!
 出るか迷った。しばらく携帯を持ったままその画面を見ていた。
 でも、鳴り止まない……。
 恐る恐る、携帯に出る。

「……もしもし?」
「今どこいんの?」
「え? なんで?」
「今から会おう」
「ダメだよ。僕、今から人と会うし」
「それってさあ……」
「……存在確認だよ」
「確認くらい俺がしてやるって言ったろ?」
「……それってどう言う意味か分かって言ってんの??」
「――分かってるよ」
「本当に分かってるの?」
「うん。もう誤魔化さない」
「でも、僕、したらもう会わないかもしれないよ」
「そうはさせない」
「そんなこと分からないじゃん」
「いいから、とにかく会ってくれよ」
「怖いんだよ」
「いいよ。怖いままでいいから会おうよ。そっちに行くから」
「来なくていいよ」

「お願いだからさぁ、そんなどこの誰かわからねぇやつのところに行くなよ」
「隼には関係ない」
「なんでそんなこと言うんだよ! じゃぁなんで電話に出たんだよ!!」
「……怒鳴んないでよ」
「頼むよ。後悔したくないんだよ。どこにも行かせたくないんだよ」

「同情だろ。隼、僕、男なんだよ」

「分かってるよ。それでも好きだから、どこにも行かないでほしい」

 胸の奥が膨らんでじんわり温かくなる。
 僕の中で固まっていた何かが溶け出した。

「……うん。分かった。でも……」
「あぁもう! つべこべ言うなよ! どこにいんの?」
「……そっちに行く」
「分かった。待ってる」

 思わず泣いてしまった。
 もう、何がどうなってもいいや。
 電話を切って、電車に乗った。

 そして、隼の家のチャイムを鳴らす。
 扉が開くと、すぐに隼が僕を中に引き込んで抱きしめた。

「ギリギリセーフ」
 思わず笑ってしまう。

「お前、結構しぶといな」

「だって、本当に怖いんだ」

「うん。俺だって怖いって言ったろ」

「だから、放っとけばいいのに」
「うん。……シンジさんがさ」

「シンジさんが何か言ったんだ」

「うん。中途半端に優しくするなって怒られた」

「……そっか」

 僕は何かが切れたかのように泣いてしまった。こんなどうしようもない僕なのに。
 シンジさんの優しさが身に沁みた。隼もちゃんと考えてくれたことが嬉しかった。
 二人の優しさが胸の奥に刺さって痛かった。
 
「ごめん。勇気がないまま、放っておいて」
「気にしてたの?」
「うん」
「そんなこと気にしなくて良いのに。普通だよ。隼はゲイじゃないんだから」
「そう言うことじゃねぇよ」
「……うん」

「好きだ。海のこと」

「……うん。僕も隼が好き」

 嬉しさと怖さの中を遊覧するみたい、僕の心の中がぐちゃぐちゃになった。
 それでも僕は光の方へ手を伸ばした。

 隼が僕の頬に手を当てて、優しく唇を重ねた。

 唇から伝わる隼の体温に体の力が抜ける。
 普段そんなこと誰とでもしていることなのに……。

 そして、そのままベッドへ倒れ込んだ。
 隼が僕の手を握った。
 僕たちは、深い深い海の中を漂うように、沈んでいった。
 
 僕は、ずっと触れられなかった光にやっと包まれた気がした。
 本当に好きな人としたのはいつぶりだろう。

 むかーし、昔、好きな人としたことがあった。
 大好きだったけど、続かなかった。たくさん傷つけあった。
 悲しくて、苦しくて、自分を見失って、消えたくなった。
 あの時みたいになるのが怖くて、ずっと人を好きになることを避けてた。
 でも、もう隼には抗えそうになかった。


 東の空から少しずつ太陽が昇り、部屋の中に柔らかな光が差し込んだ。
 窓辺にキラキラとした光の粒を、ゆっくりと微かに浮かび上がらせる。

 あ、前にもこの風景を見た。

 ――あの時、ぶっ倒れてて、良かったなぁ。

「おはよう」
 隼の優しい声がした。

「起きてた?」
「今ちょうど起きた」
「嫌いになってない?」
「なんで?」
「……気持ち悪くなかった?」

 隼は少しだけ笑って、優しい眼差しをくれた。

「大丈夫だよ。不安?」

「うん。怖い」

「大丈夫。好きなままだよ。今日って予定あんの?」

「……課題だけ」
「そっか。俺、バイト行かなきゃ」
「……うん」
「あ〜、休もうかな」
「……ナンバーワンがそんなことしちゃダメでしょ」

「だって、お前、またどこか行っちゃいそうだから」

 そう言って、隼が僕を抱きしめた。

「大丈夫。ちゃんと確認できたから」

「……なぁ付き合おうよ」

「うん。でも怖い」

「俺も一緒だから」

「うん。嫌いにならないで欲しいな」

「今のところ……むしろ好きだよ」

「うん」
 嬉しいはずなのに、胸の奥がほんの少し苦しくなる。

「今日終わったらさぁ、海のうちに行ってもいい?」
「うん。でも汚いよ」
「そうなの?」
「課題でぐちゃぐちゃだから」
「そっか、もし、海が嫌じゃぁなかったら」
「いいよ。でも、引かないでね」
「多分大丈夫」
「多分……」

 思わず笑ってしまう。隼も優しく微笑む。
 僕は隼に軽くキスをした。そして、隼も軽くキスを返してくれた。

「ねぇ、この前みたいに、背中撫でてよ」

「いいよ。……海の背中はここだよ。お前はちゃんと存在してる。大丈夫。俺は知ってるよ」

「……うん。ありがとう」

 そして、僕たちは朝の準備をしてから、それぞれのいかなくては行けない場所へと向かった。

 街はすっかり朝になっていて、昨日のことが嘘みたいだった。
 夏の太陽は今日も容赦なく照りつける。
 その光に、目が眩みそうになりながら歩き続けた。