光を求めてもがいた僕の夏休み

 あれから、僕たちは会えないまま数日が過ぎていった。
 僕も夏休みの間に、キャンバスの下地塗りに学校へ行っていたので、バイトに入ってなかった。
 
 僕は5日ぶりのバイトで、更衣室で制服に着替えていた。
「おはよう!」
 隼だった。
「おはよう」
「久しぶりだな」
「そうだね。夏休みの課題もやらなきゃいけないから」
「そっか。課題大変?」
「……うん」
「光と色が分かんねぇってやつ?」
「うん。そろそろ本当にやばいよね」
 僕は少しだけ笑う。

「そっか、ちょっとでもワークショップ、役に立ったら良かったんだけど。まぁ一回くらいじゃ意味ないか」
「ううん。刺激にはなったし。多分、そういうことじゃないんだ。分かってるんだけど。上手く言えない……」
「ゆっくりでいいんじゃない? 夏休みはまだあるし。俺も手伝えることあったらするから」
「うん。ありがとう」
 やっぱり優しいなぁ。
「それにお前、素早いイメージないし、それが海のペースなんじゃないの?」

 そうやって、励まそうとしてくれるのは嬉しいけど、今の僕にはちょっと辛かった。

「……隼ってやっぱり優しいね」
「そう?」

 僕は、子供の頃から絵を描くのが好きだった。

 小学生になると、コンクールで賞を貰うこともあった。

 でも、家族にはあまり理解されなかった。

 父にはよく「もっと男らしい絵は描けないのか」と言われた。

 確かに、僕の絵は淡い色や光の揺らめきばかりで、いわゆる男らしいとは言えなかったと思う。

 それでも僕は、その光輝く色たちに触れるのが好きだった。

 色に触れると、時間がなくなる。

 境界が消えて、僕は色そのものになる。

 それが最高に気持ちよかった。もっと触れていたくて、夢中になった。

 ただそれだけで十分だったのに──美大に入って、周りの才能と比べて落ち込むようになった。

 講評で誰かに言われる何気ない一言でさえ胸に刺さった。

 気づけば、鉛筆を取ることも、筆を握ることも怖くなっていた。
 焦れば焦るほど、色の輝きが見えなくなっていった。

 胸の奥がザラザラして、あんなに大好きだった光が、心のどこにも触れられなくなった。

 そして教授に言われた。
「君は、まだ掴めていない。夏休みの間に自分の形をつくりなさい」

 他の学生たちはもう、自分の課題の仮作品に向かっていた。
 迷いなく筆を動かす音だけが、アトリエの空気を震わせていた。
 その音が僕の胸を刺した。
 まだ何も掴めていないのは、僕だけだった。 
 
 でも教授の言う通り、僕には光も影も、色も、全部が分からなくなっていた。


「隼はバイトの夏休みはあるの?」
「いや、俺は稼げる時に稼ぎたいから。舞台始まるとバイト出来なくなるし」
「舞台に出るの!?」
「いや、近々は予定ないけど、いつでもその準備しときたいからさ」

「すごいな。隼は。やっぱり格好いいね」

「……お前はやっぱ癒し系だな」

 隼は困ったような顔で笑った。
 蛍光灯の光が隼の顔の影を濃くする。
 それが、僕の胸の奥をざわつかせた。

「大丈夫?」
「……うん」

「……破壊行為してない?」
 隼は冗談っぽく言った。

「破壊行為じゃないよ。存在確認だよ」
 僕も冗談っぽく笑った。

「確認くらい俺がしてやるよ」
 
 ドキッした。
 簡単に言うなよ、マジでなんなんだよ……。

「……してくれないくせに」

「そういう行為だけじゃねぇとダメなの?」
「そうだよ。だから、隼には無理」

「……じゃぁ……考えとくよ」

「え?」

 それって、どういう意味?
 僕がぼんやりと隼を眺めていると、後ろから誰に呼ばれた。 

「寺嶋〜」

 振り返ると、同じ売り場でフリーターの成宮君だった。

「今日みんなで飲み行かね?」

 見た目はメガネをかけて、真面目そうな見た目だけど、女好きで飲み好きなやつだ。
 よく飲み会を企画する。
 多分、成宮君も寂しいのだろう。そして、僕も寂しいからついつい行ってしまう。
 
「ちょっとだけなら、良いよ」

 その瞬間、隼が、何かを考えているような顔をした。
 そんな隼に成宮君が気づいた。

「あっ、わり〜、話中だった?」
「いえ、いえ、大丈夫です。ちなみにそれって、俺も参加してもいいやつっすか?」
「おう、全然。ただ飲みたいやつの集まりだから。大歓迎」
「じゃぁ、俺も行きます! 俺、携帯コーナーにいる早瀬です」
「了解。もし他にも行きたい奴いたら言ってよ。寺嶋経由でいいから」
「了解っす〜。じゃぁ、また後で」
 そう軽く言って、隼は去っていった。

「早瀬って、あいつなんだ」
「え? 有名なの?」
「売り上げすごいらしいよ」
「へ〜、そうなんだ。知らなかった」
 隼ってなんでも出来るんだなぁ……。

「とりあえず、六人で予約しとくわ。増えたらまた俺に言って」
「分かった」

 やっぱり好きにならないようにしなきゃ、後になって苦しむのは自分なんだから。
 僕は着替えが終わり、持ち場へと向かった。
 隼は僕が心配だったのだろうか? それとも本当に飲みたいだけだったのだろうか?
 
 そして、一日の業務が終わり、僕たちは成宮君が予約してくれた店へと移動した。

「早瀬君って、売り上げすごいんでしょ?」
 フリーターで、綺麗な姉御肌の加藤さんが言った。

「そうっすね」
「わぁ〜、自信満々」
「いや、だって、本当のことなんで」

「早瀬君っておもしろ〜い」
 ケラケラと加藤さんは笑った。

「あ〜ざ〜っす」
 隼は軽快に話す。

 二人は向かい合って、楽しそうだ。
 僕は、その様子を横目で見る。
 テーブルの上のジョッキから、影がぼんやりと伸びていた。

「寺嶋君と早瀬君って大学が同じとかなの?」
「いや、違いますよ」
「え〜、じゃぁ、どういう知り合いなの?」
「あ〜、こいつがぶっ倒れてたのを、俺が拾って帰ったのがきっかけっすね」

 は? それ言う?? 
 僕は驚いて隼を見た。

「なっ」
 と同意を求めるように、隼が僕を見て優しく微笑んだ。
 僕は何も言えずに呆然と隼を見ていた。

「え?? そうなの? 寺嶋君って酔っ払ってもちゃんと帰ってるイメージだった」
 加藤さんが興味津々で隼を見ている。

「そうなんっすか? 酷いっすよ」

「ひどいよ。隼、それ言うかな……」

「みんなにも知ってもらったほうが安心」
 
 隼は僕に優しい笑顔を向けた。
 なんだよ。その笑顔。ずるいよ。
 僕は苦しくなって、目を逸らした。

「ふ〜ん。二人って、めっちゃ仲良いんだね〜」

 僕たちを見て、加藤さんは目を輝かせていた。
 まぁ、この人も飲むとタチが悪いから、いいんだけど。

「でも、寺嶋君が酔っ払ってるの見てみた〜い」
「その前に加藤さんが酔い潰れてるからじゃないっすか」
「こら! 寺嶋、そう言うこと言う?? お前、今日は飲め!」
「いや、こいつに飲ませないで下さいよ。マジでタチ悪いんで」
「いいんだよ。だってその為に来たんでしょ? 早瀬君」
「え? いや、違いますよ。ただ飲みたかっただけっすよ」

「早瀬君って嘘つけなさそ〜う」

 加藤さんはゲラゲラと笑った。

「何の話してんの? そこめちゃ盛り上がってんじゃん」
 
 端に座っていた成宮君が声をかけた。
 成宮君は多分、加藤さんが好きだ。

「いやっ、寺嶋君が、酔い潰れないように、早瀬君が来たらしいよ〜」
「マジか。お前めっちゃいいやつじゃん」
「ですよね。俺、めっちゃいいやつなんっす〜」
「寺嶋君が酔っ払うってイメージなくない?」

 加藤さんが枝豆を食べながら、成宮君に可愛く笑顔を向けた。

「いや、いっつもすぐ顔赤くなってんじゃん。でも、気づいたらいなくなってるけどな。ってか、加藤が先に潰れてるから知らないんだろ」
 みんなが笑う。
「うるさいなぁ。私は、これのために生きてんだから、飲ませろ〜。っつかみんなで酔い潰れよ〜う!!」
 加藤さんはジョッキを持って、僕と、隼のジョッキにコツンと当てた。
 「うぃ〜っす」

 そう言って、隼はジョッキを持って、ぐびぐびっと飲んだ。
 お酒強いんだ……。
 僕も笑いながらビールをぐびっと飲んだ。

「あっ、そういえば、俺一回だけ、酔い潰れた寺嶋、家まで送ったことあったわ。思い出した」 

 そう成宮君が言った瞬間、隼の動作が一瞬止まった。
 僕も焦る。

「え? そうでしたっけ?」
「へ〜。こいつタチ悪かったっしょ?」
「ん〜、別にそんな酷い覚えないけど、まぁ加藤の印象の方が強すぎて思い出せん」
 
 そう言えば、一度だけそんなことがあった。
 でも成宮君は僕を玄関に置いて、とっとと帰っていた。
 何もないのに、やけに緊張してしまう。
 
「何?? それ! 成宮! お前は私のために来てんだから、それで良いんだよ」
「へいへい」
 
 みんなが笑ってる。

 多分、昔、成宮君と加藤さんは何かあった。
 みんなそう思っているけれど、誰も口にはしてない。
 でも、飲みの席になると、面白いくらいに明白になる。

 付き合えば良いのにと思うけれど、加藤さんには彼氏がいるらしい。
 きっと加藤さんも何かを怖がっているのかもしれない。
 だから、飲んだくれて、成宮君に絡んでいるのだ。きっと。
 
「お待たせしました〜。大ジョッキと一つと、カシスオレンジ、純米吟醸です」
「大ジョッキ」
「私〜」
「カシスオレンジは寺嶋か」
 と成宮君がそれぞれに配る。
 当たり前のように僕に渡した姿を見て、隼が言った。

「海って、カシスオレンジって決まってんの?」
「あぁ。いつもそれだよな」
「うん。僕、これが好き」

「ちょっと頂戴」

 そう言って、隼がカシスオレンジのグラスを取って飲んだ。

「あっ」
 僕の心臓がバクバクした。
 唇が微かに触れた日のことを思い出して顔が熱くなる。

「あまっ! お前が酔っ払うのが分かったわ」
「え??」
「ジュースみたいに飲んで、油断した頃に酔いが回るやつ」
「そうなの?」

「わ〜、それあるかも〜」
 加藤さんが口を出す。
「私みたいにジョッキにしなよ〜。それか、あれ、純米吟醸がいいんじゃない?」

「いやいや、ダメでしょ。そんなのこいつに飲ませたら」
 隼が焦ったように止める。

「いや、でも逆にぐびぐび飲めないじゃん」

「ちょっと飲んでみる?」
 純米吟醸を頼んだ成宮君が、僕に差し出した。

「飲めるよ。たまに飲むし」

 なんなんだよ、今日は! ゆっくり楽しく飲めない。

「本当かよ〜。飲めよ〜。お子ちゃま寺嶋く〜ん」

「いや、やめてくださいよ。そんなのこいつに飲ませたら、やばいっしょ」

 さらに慌てて、隼が止める。
 僕はなんか腹が立って、成宮君の純米吟醸を奪い、ぐびっと飲んだ。

「あ〜。お前、一口だけだよ。そんなに飲んだら俺のがなくなるだろ〜」
「おいおい。お前何やってんだよ」

 隼は呆れていた。
 一気にお酒が回る。体の中で、ビールとカシスオレンジと純米吟醸が混ざった。

「だって、お前ら、うるぅさいんだよぉ。僕が何飲もうと勝手だろ!」
「おっ良いぞ! 寺嶋〜。もっと飲め飲め〜!」
 
 だいぶ出来上がってきた、加藤さんが楽しそうに笑いながら、突っ込んできた。
 
 あ〜、なんなんだよ。僕、めっちゃやばい奴みたいになってんじゃん。
 
 格好悪くて、情けなくて、いてもたってもいられず、立ち上がる。
 うわぁ。ちょっとくらっとくる。きっと顔も赤いだろう……。

「僕、トイレ行ってくる」

「大丈夫か?」
 隼が心配そうに僕を見た。

「大丈夫だよ。そんなに心配してもらわなくても良いから!」
 
 ついきつく言ってしまう。
 これじゃぁ本当にただの酔っ払いだよ。
 胸の奥がきゅっと縮んで痛い。
 僕は隼の顔も見ずにトイレへ向かった。

「あ〜あ、振られちゃったね〜」
 後ろの方から、加藤さんの声が聞こえた。
 
 あ〜やっぱり、ちょっとふらつく。

 でも気持ちがいい。なんでお酒ってこんなに気持ちがいいんだろう。
 ふわふわする〜。もう全部どうでも良くなる。

 僕はトイレを済ませて、手を洗った。
 ――振り返ると、隼が立っていた。

「あっ、隼だ〜」
 僕は隼に抱きついた。

「お前、やっぱり飲み過ぎじゃん」
「飲み過ぎじゃないもん。まだまだ大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないやつのセリフな。それ」
「ん〜。じゃぁ本当に大丈夫な人はなんて言ったらいいんだよぉ」

「……もう、帰らない?」

「やだ! まだ飲みたい! せっかく気持ちよくなって来たのに〜」
「お前……それもうアウトじゃん」
「まだ気持ち悪くない」
「いや、気持ち悪くなってからじゃおせ〜よ」
「じゃぁ気持ち悪くなるちょっと前にやめるから〜。もっと飲みたい〜」
 
 隼は少し黙ってから、ため息を吐いた。

「なぁ……俺のうちに帰ろうよ」

「……隼のうちに行ってもいいの?」

「うん……一緒に帰ろう」

「……じゃぁ帰る」

「うん。俺、お前の荷物も持ってくるから、待っててよ。適当に言ってくるから」
「あっでもお金」
「とりあえず、俺が出しとくわ」
「うん。ありがとう」
 そう言うと、隼は一旦席に戻ってから、すぐにトイレの前まで戻ってきた。

「行こう」
 僕たちは、隼の家に向かった。
 
 なんだよ。どうしたら良いんだよ。

 ……好きになって良いのかよ。
 
 僕は胸の鼓動が速くなるのを感じながら、ちょっと切なくなった。


 隼の家に着くと、すぐに「飲め」と水を渡された。

「僕、そんなに酔ってないよ」
 なんだか、悲しくなって泣きそうになった。

「酔ってるよ。目がおかしい」
「そりゃ少しはふわふわしてるけどさぁ」
「酔い潰れる前に阻止しないと俺が行った意味ねぇだろ」
「ん。やっぱり僕を止めるために来たんだ」

「俺、心配なんだよ。お前見てると」

 その言葉を聞いて、僕は泣き出した。
 溜まっていた感情が吹き出る様に泣いた。

「どうして、僕に優しくするんだよ〜!!」
 体が震える。

「僕のこと抱けないなら優しくなんかするなよ〜……うぅ。うわぁ〜ん」

 隼は僕を抱きしめて、優しい声で話した。

「ごめん。抱けないわけじゃない……海と適当に付き合いたくないだけだよ」

「隼……」
「なんか分かんね〜けど、ほっとけないんだ」

「そんなの同情だろ」

「そうかもしれない。俺にもよく分かんねぇ。ただ――」
 隼が僕を真っ直ぐに見つめた。

「俺は海の、その他大勢にはなりたくない」

 息が止まりそうだった。

「隼……」

「海が怖いのも、俺は分かるよ……俺も怖い。お前にどんどん惹かれていく」

「……うん」

「海は、俺のこと……どう思ってんの?」

「……好きだよ。でも……怖い。きっとそのうち僕に飽きるよ。めんどくさいし」

「面倒なのは分かってるよ。でも今のところ飽きてない」

「うん」

「でも、この先は分かんね〜。俺も無責任なことは言いたくない」
「ふふっ。正直だね」
「うん。海の前ではちゃんと正直でいたい」

 僕は隼を思いっきり力を込めて抱きしめ返した。

「うん」
「ちゃんと自分の気持ちにも正直でいたい」
「うん」
「怖いけど、誤魔化したくもない」
「うん」
「ハァ〜。吸い込まれていくわ〜……。なんか分かんねぇけど」

 隼は僕の肩に頭を置いて、うなだれていた。
 
 無自覚のまま置いておきたい気持ち。
 僕もそれを見るのが怖かった。
 これ以上進むのが怖かった。

 友達ともそれ以上とも呼べない距離。
 でももう知らない僕たちじゃない。
 その曖昧さが今の僕たちにはちょうどいいのかもしれない。

 僕はそっと目を閉じて、その暗闇に触れた。
 ほんの少し怖かったけれど、隼の腕の中にいる限り、落ちていく気はしなかった。