あれから、僕たちは会えないまま数日が過ぎていった。
僕も夏休みの間に、キャンバスの下地塗りに学校へ行っていたので、バイトに入ってなかった。
僕は5日ぶりのバイトで、更衣室で制服に着替えていた。
「おはよう!」
隼だった。
「おはよう」
「久しぶりだな」
「そうだね。夏休みの課題もやらなきゃいけないから」
「そっか。課題大変?」
「……うん」
「光と色が分かんねぇってやつ?」
「うん。そろそろ本当にやばいよね」
僕は少しだけ笑う。
「そっか、ちょっとでもワークショップ、役に立ったら良かったんだけど。まぁ一回くらいじゃ意味ないか」
「ううん。刺激にはなったし。多分、そういうことじゃないんだ。分かってるんだけど。上手く言えない……」
「ゆっくりでいいんじゃない? 夏休みはまだあるし。俺も手伝えることあったらするから」
「うん。ありがとう」
やっぱり優しいなぁ。
「それにお前、素早いイメージないし、それが海のペースなんじゃないの?」
そうやって、励まそうとしてくれるのは嬉しいけど、今の僕にはちょっと辛かった。
「……隼ってやっぱり優しいね」
「そう?」
僕は、子供の頃から絵を描くのが好きだった。
小学生になると、コンクールで賞を貰うこともあった。
でも、家族にはあまり理解されなかった。
父にはよく「もっと男らしい絵は描けないのか」と言われた。
確かに、僕の絵は淡い色や光の揺らめきばかりで、いわゆる男らしいとは言えなかったと思う。
それでも僕は、その光輝く色たちに触れるのが好きだった。
色に触れると、時間がなくなる。
境界が消えて、僕は色そのものになる。
それが最高に気持ちよかった。もっと触れていたくて、夢中になった。
ただそれだけで十分だったのに──美大に入って、周りの才能と比べて落ち込むようになった。
講評で誰かに言われる何気ない一言でさえ胸に刺さった。
気づけば、鉛筆を取ることも、筆を握ることも怖くなっていた。
焦れば焦るほど、色の輝きが見えなくなっていった。
胸の奥がザラザラして、あんなに大好きだった光が、心のどこにも触れられなくなった。
そして教授に言われた。
「君は、まだ掴めていない。夏休みの間に自分の形をつくりなさい」
他の学生たちはもう、自分の課題の仮作品に向かっていた。
迷いなく筆を動かす音だけが、アトリエの空気を震わせていた。
その音が僕の胸を刺した。
まだ何も掴めていないのは、僕だけだった。
でも教授の言う通り、僕には光も影も、色も、全部が分からなくなっていた。
「隼はバイトの夏休みはあるの?」
「いや、俺は稼げる時に稼ぎたいから。舞台始まるとバイト出来なくなるし」
「舞台に出るの!?」
「いや、近々は予定ないけど、いつでもその準備しときたいからさ」
「すごいな。隼は。やっぱり格好いいね」
「……お前はやっぱ癒し系だな」
隼は困ったような顔で笑った。
蛍光灯の光が隼の顔の影を濃くする。
それが、僕の胸の奥をざわつかせた。
「大丈夫?」
「……うん」
「……破壊行為してない?」
隼は冗談っぽく言った。
「破壊行為じゃないよ。存在確認だよ」
僕も冗談っぽく笑った。
「確認くらい俺がしてやるよ」
ドキッした。
簡単に言うなよ、マジでなんなんだよ……。
「……してくれないくせに」
「そういう行為だけじゃねぇとダメなの?」
「そうだよ。だから、隼には無理」
「……じゃぁ……考えとくよ」
「え?」
それって、どういう意味?
僕がぼんやりと隼を眺めていると、後ろから誰に呼ばれた。
「寺嶋〜」
振り返ると、同じ売り場でフリーターの成宮君だった。
「今日みんなで飲み行かね?」
見た目はメガネをかけて、真面目そうな見た目だけど、女好きで飲み好きなやつだ。
よく飲み会を企画する。
多分、成宮君も寂しいのだろう。そして、僕も寂しいからついつい行ってしまう。
「ちょっとだけなら、良いよ」
その瞬間、隼が、何かを考えているような顔をした。
そんな隼に成宮君が気づいた。
「あっ、わり〜、話中だった?」
「いえ、いえ、大丈夫です。ちなみにそれって、俺も参加してもいいやつっすか?」
「おう、全然。ただ飲みたいやつの集まりだから。大歓迎」
「じゃぁ、俺も行きます! 俺、携帯コーナーにいる早瀬です」
「了解。もし他にも行きたい奴いたら言ってよ。寺嶋経由でいいから」
「了解っす〜。じゃぁ、また後で」
そう軽く言って、隼は去っていった。
「早瀬って、あいつなんだ」
「え? 有名なの?」
「売り上げすごいらしいよ」
「へ〜、そうなんだ。知らなかった」
隼ってなんでも出来るんだなぁ……。
「とりあえず、六人で予約しとくわ。増えたらまた俺に言って」
「分かった」
やっぱり好きにならないようにしなきゃ、後になって苦しむのは自分なんだから。
僕は着替えが終わり、持ち場へと向かった。
隼は僕が心配だったのだろうか? それとも本当に飲みたいだけだったのだろうか?
そして、一日の業務が終わり、僕たちは成宮君が予約してくれた店へと移動した。
「早瀬君って、売り上げすごいんでしょ?」
フリーターで、綺麗な姉御肌の加藤さんが言った。
「そうっすね」
「わぁ〜、自信満々」
「いや、だって、本当のことなんで」
「早瀬君っておもしろ〜い」
ケラケラと加藤さんは笑った。
「あ〜ざ〜っす」
隼は軽快に話す。
二人は向かい合って、楽しそうだ。
僕は、その様子を横目で見る。
テーブルの上のジョッキから、影がぼんやりと伸びていた。
「寺嶋君と早瀬君って大学が同じとかなの?」
「いや、違いますよ」
「え〜、じゃぁ、どういう知り合いなの?」
「あ〜、こいつがぶっ倒れてたのを、俺が拾って帰ったのがきっかけっすね」
は? それ言う??
僕は驚いて隼を見た。
「なっ」
と同意を求めるように、隼が僕を見て優しく微笑んだ。
僕は何も言えずに呆然と隼を見ていた。
「え?? そうなの? 寺嶋君って酔っ払ってもちゃんと帰ってるイメージだった」
加藤さんが興味津々で隼を見ている。
「そうなんっすか? 酷いっすよ」
「ひどいよ。隼、それ言うかな……」
「みんなにも知ってもらったほうが安心」
隼は僕に優しい笑顔を向けた。
なんだよ。その笑顔。ずるいよ。
僕は苦しくなって、目を逸らした。
「ふ〜ん。二人って、めっちゃ仲良いんだね〜」
僕たちを見て、加藤さんは目を輝かせていた。
まぁ、この人も飲むとタチが悪いから、いいんだけど。
「でも、寺嶋君が酔っ払ってるの見てみた〜い」
「その前に加藤さんが酔い潰れてるからじゃないっすか」
「こら! 寺嶋、そう言うこと言う?? お前、今日は飲め!」
「いや、こいつに飲ませないで下さいよ。マジでタチ悪いんで」
「いいんだよ。だってその為に来たんでしょ? 早瀬君」
「え? いや、違いますよ。ただ飲みたかっただけっすよ」
「早瀬君って嘘つけなさそ〜う」
加藤さんはゲラゲラと笑った。
「何の話してんの? そこめちゃ盛り上がってんじゃん」
端に座っていた成宮君が声をかけた。
成宮君は多分、加藤さんが好きだ。
「いやっ、寺嶋君が、酔い潰れないように、早瀬君が来たらしいよ〜」
「マジか。お前めっちゃいいやつじゃん」
「ですよね。俺、めっちゃいいやつなんっす〜」
「寺嶋君が酔っ払うってイメージなくない?」
加藤さんが枝豆を食べながら、成宮君に可愛く笑顔を向けた。
「いや、いっつもすぐ顔赤くなってんじゃん。でも、気づいたらいなくなってるけどな。ってか、加藤が先に潰れてるから知らないんだろ」
みんなが笑う。
「うるさいなぁ。私は、これのために生きてんだから、飲ませろ〜。っつかみんなで酔い潰れよ〜う!!」
加藤さんはジョッキを持って、僕と、隼のジョッキにコツンと当てた。
「うぃ〜っす」
そう言って、隼はジョッキを持って、ぐびぐびっと飲んだ。
お酒強いんだ……。
僕も笑いながらビールをぐびっと飲んだ。
「あっ、そういえば、俺一回だけ、酔い潰れた寺嶋、家まで送ったことあったわ。思い出した」
そう成宮君が言った瞬間、隼の動作が一瞬止まった。
僕も焦る。
「え? そうでしたっけ?」
「へ〜。こいつタチ悪かったっしょ?」
「ん〜、別にそんな酷い覚えないけど、まぁ加藤の印象の方が強すぎて思い出せん」
そう言えば、一度だけそんなことがあった。
でも成宮君は僕を玄関に置いて、とっとと帰っていた。
何もないのに、やけに緊張してしまう。
「何?? それ! 成宮! お前は私のために来てんだから、それで良いんだよ」
「へいへい」
みんなが笑ってる。
多分、昔、成宮君と加藤さんは何かあった。
みんなそう思っているけれど、誰も口にはしてない。
でも、飲みの席になると、面白いくらいに明白になる。
付き合えば良いのにと思うけれど、加藤さんには彼氏がいるらしい。
きっと加藤さんも何かを怖がっているのかもしれない。
だから、飲んだくれて、成宮君に絡んでいるのだ。きっと。
「お待たせしました〜。大ジョッキと一つと、カシスオレンジ、純米吟醸です」
「大ジョッキ」
「私〜」
「カシスオレンジは寺嶋か」
と成宮君がそれぞれに配る。
当たり前のように僕に渡した姿を見て、隼が言った。
「海って、カシスオレンジって決まってんの?」
「あぁ。いつもそれだよな」
「うん。僕、これが好き」
「ちょっと頂戴」
そう言って、隼がカシスオレンジのグラスを取って飲んだ。
「あっ」
僕の心臓がバクバクした。
唇が微かに触れた日のことを思い出して顔が熱くなる。
「あまっ! お前が酔っ払うのが分かったわ」
「え??」
「ジュースみたいに飲んで、油断した頃に酔いが回るやつ」
「そうなの?」
「わ〜、それあるかも〜」
加藤さんが口を出す。
「私みたいにジョッキにしなよ〜。それか、あれ、純米吟醸がいいんじゃない?」
「いやいや、ダメでしょ。そんなのこいつに飲ませたら」
隼が焦ったように止める。
「いや、でも逆にぐびぐび飲めないじゃん」
「ちょっと飲んでみる?」
純米吟醸を頼んだ成宮君が、僕に差し出した。
「飲めるよ。たまに飲むし」
なんなんだよ、今日は! ゆっくり楽しく飲めない。
「本当かよ〜。飲めよ〜。お子ちゃま寺嶋く〜ん」
「いや、やめてくださいよ。そんなのこいつに飲ませたら、やばいっしょ」
さらに慌てて、隼が止める。
僕はなんか腹が立って、成宮君の純米吟醸を奪い、ぐびっと飲んだ。
「あ〜。お前、一口だけだよ。そんなに飲んだら俺のがなくなるだろ〜」
「おいおい。お前何やってんだよ」
隼は呆れていた。
一気にお酒が回る。体の中で、ビールとカシスオレンジと純米吟醸が混ざった。
「だって、お前ら、うるぅさいんだよぉ。僕が何飲もうと勝手だろ!」
「おっ良いぞ! 寺嶋〜。もっと飲め飲め〜!」
だいぶ出来上がってきた、加藤さんが楽しそうに笑いながら、突っ込んできた。
あ〜、なんなんだよ。僕、めっちゃやばい奴みたいになってんじゃん。
格好悪くて、情けなくて、いてもたってもいられず、立ち上がる。
うわぁ。ちょっとくらっとくる。きっと顔も赤いだろう……。
「僕、トイレ行ってくる」
「大丈夫か?」
隼が心配そうに僕を見た。
「大丈夫だよ。そんなに心配してもらわなくても良いから!」
ついきつく言ってしまう。
これじゃぁ本当にただの酔っ払いだよ。
胸の奥がきゅっと縮んで痛い。
僕は隼の顔も見ずにトイレへ向かった。
「あ〜あ、振られちゃったね〜」
後ろの方から、加藤さんの声が聞こえた。
あ〜やっぱり、ちょっとふらつく。
でも気持ちがいい。なんでお酒ってこんなに気持ちがいいんだろう。
ふわふわする〜。もう全部どうでも良くなる。
僕はトイレを済ませて、手を洗った。
――振り返ると、隼が立っていた。
「あっ、隼だ〜」
僕は隼に抱きついた。
「お前、やっぱり飲み過ぎじゃん」
「飲み過ぎじゃないもん。まだまだ大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないやつのセリフな。それ」
「ん〜。じゃぁ本当に大丈夫な人はなんて言ったらいいんだよぉ」
「……もう、帰らない?」
「やだ! まだ飲みたい! せっかく気持ちよくなって来たのに〜」
「お前……それもうアウトじゃん」
「まだ気持ち悪くない」
「いや、気持ち悪くなってからじゃおせ〜よ」
「じゃぁ気持ち悪くなるちょっと前にやめるから〜。もっと飲みたい〜」
隼は少し黙ってから、ため息を吐いた。
「なぁ……俺のうちに帰ろうよ」
「……隼のうちに行ってもいいの?」
「うん……一緒に帰ろう」
「……じゃぁ帰る」
「うん。俺、お前の荷物も持ってくるから、待っててよ。適当に言ってくるから」
「あっでもお金」
「とりあえず、俺が出しとくわ」
「うん。ありがとう」
そう言うと、隼は一旦席に戻ってから、すぐにトイレの前まで戻ってきた。
「行こう」
僕たちは、隼の家に向かった。
なんだよ。どうしたら良いんだよ。
……好きになって良いのかよ。
僕は胸の鼓動が速くなるのを感じながら、ちょっと切なくなった。
隼の家に着くと、すぐに「飲め」と水を渡された。
「僕、そんなに酔ってないよ」
なんだか、悲しくなって泣きそうになった。
「酔ってるよ。目がおかしい」
「そりゃ少しはふわふわしてるけどさぁ」
「酔い潰れる前に阻止しないと俺が行った意味ねぇだろ」
「ん。やっぱり僕を止めるために来たんだ」
「俺、心配なんだよ。お前見てると」
その言葉を聞いて、僕は泣き出した。
溜まっていた感情が吹き出る様に泣いた。
「どうして、僕に優しくするんだよ〜!!」
体が震える。
「僕のこと抱けないなら優しくなんかするなよ〜……うぅ。うわぁ〜ん」
隼は僕を抱きしめて、優しい声で話した。
「ごめん。抱けないわけじゃない……海と適当に付き合いたくないだけだよ」
「隼……」
「なんか分かんね〜けど、ほっとけないんだ」
「そんなの同情だろ」
「そうかもしれない。俺にもよく分かんねぇ。ただ――」
隼が僕を真っ直ぐに見つめた。
「俺は海の、その他大勢にはなりたくない」
息が止まりそうだった。
「隼……」
「海が怖いのも、俺は分かるよ……俺も怖い。お前にどんどん惹かれていく」
「……うん」
「海は、俺のこと……どう思ってんの?」
「……好きだよ。でも……怖い。きっとそのうち僕に飽きるよ。めんどくさいし」
「面倒なのは分かってるよ。でも今のところ飽きてない」
「うん」
「でも、この先は分かんね〜。俺も無責任なことは言いたくない」
「ふふっ。正直だね」
「うん。海の前ではちゃんと正直でいたい」
僕は隼を思いっきり力を込めて抱きしめ返した。
「うん」
「ちゃんと自分の気持ちにも正直でいたい」
「うん」
「怖いけど、誤魔化したくもない」
「うん」
「ハァ〜。吸い込まれていくわ〜……。なんか分かんねぇけど」
隼は僕の肩に頭を置いて、うなだれていた。
無自覚のまま置いておきたい気持ち。
僕もそれを見るのが怖かった。
これ以上進むのが怖かった。
友達ともそれ以上とも呼べない距離。
でももう知らない僕たちじゃない。
その曖昧さが今の僕たちにはちょうどいいのかもしれない。
僕はそっと目を閉じて、その暗闇に触れた。
ほんの少し怖かったけれど、隼の腕の中にいる限り、落ちていく気はしなかった。
僕も夏休みの間に、キャンバスの下地塗りに学校へ行っていたので、バイトに入ってなかった。
僕は5日ぶりのバイトで、更衣室で制服に着替えていた。
「おはよう!」
隼だった。
「おはよう」
「久しぶりだな」
「そうだね。夏休みの課題もやらなきゃいけないから」
「そっか。課題大変?」
「……うん」
「光と色が分かんねぇってやつ?」
「うん。そろそろ本当にやばいよね」
僕は少しだけ笑う。
「そっか、ちょっとでもワークショップ、役に立ったら良かったんだけど。まぁ一回くらいじゃ意味ないか」
「ううん。刺激にはなったし。多分、そういうことじゃないんだ。分かってるんだけど。上手く言えない……」
「ゆっくりでいいんじゃない? 夏休みはまだあるし。俺も手伝えることあったらするから」
「うん。ありがとう」
やっぱり優しいなぁ。
「それにお前、素早いイメージないし、それが海のペースなんじゃないの?」
そうやって、励まそうとしてくれるのは嬉しいけど、今の僕にはちょっと辛かった。
「……隼ってやっぱり優しいね」
「そう?」
僕は、子供の頃から絵を描くのが好きだった。
小学生になると、コンクールで賞を貰うこともあった。
でも、家族にはあまり理解されなかった。
父にはよく「もっと男らしい絵は描けないのか」と言われた。
確かに、僕の絵は淡い色や光の揺らめきばかりで、いわゆる男らしいとは言えなかったと思う。
それでも僕は、その光輝く色たちに触れるのが好きだった。
色に触れると、時間がなくなる。
境界が消えて、僕は色そのものになる。
それが最高に気持ちよかった。もっと触れていたくて、夢中になった。
ただそれだけで十分だったのに──美大に入って、周りの才能と比べて落ち込むようになった。
講評で誰かに言われる何気ない一言でさえ胸に刺さった。
気づけば、鉛筆を取ることも、筆を握ることも怖くなっていた。
焦れば焦るほど、色の輝きが見えなくなっていった。
胸の奥がザラザラして、あんなに大好きだった光が、心のどこにも触れられなくなった。
そして教授に言われた。
「君は、まだ掴めていない。夏休みの間に自分の形をつくりなさい」
他の学生たちはもう、自分の課題の仮作品に向かっていた。
迷いなく筆を動かす音だけが、アトリエの空気を震わせていた。
その音が僕の胸を刺した。
まだ何も掴めていないのは、僕だけだった。
でも教授の言う通り、僕には光も影も、色も、全部が分からなくなっていた。
「隼はバイトの夏休みはあるの?」
「いや、俺は稼げる時に稼ぎたいから。舞台始まるとバイト出来なくなるし」
「舞台に出るの!?」
「いや、近々は予定ないけど、いつでもその準備しときたいからさ」
「すごいな。隼は。やっぱり格好いいね」
「……お前はやっぱ癒し系だな」
隼は困ったような顔で笑った。
蛍光灯の光が隼の顔の影を濃くする。
それが、僕の胸の奥をざわつかせた。
「大丈夫?」
「……うん」
「……破壊行為してない?」
隼は冗談っぽく言った。
「破壊行為じゃないよ。存在確認だよ」
僕も冗談っぽく笑った。
「確認くらい俺がしてやるよ」
ドキッした。
簡単に言うなよ、マジでなんなんだよ……。
「……してくれないくせに」
「そういう行為だけじゃねぇとダメなの?」
「そうだよ。だから、隼には無理」
「……じゃぁ……考えとくよ」
「え?」
それって、どういう意味?
僕がぼんやりと隼を眺めていると、後ろから誰に呼ばれた。
「寺嶋〜」
振り返ると、同じ売り場でフリーターの成宮君だった。
「今日みんなで飲み行かね?」
見た目はメガネをかけて、真面目そうな見た目だけど、女好きで飲み好きなやつだ。
よく飲み会を企画する。
多分、成宮君も寂しいのだろう。そして、僕も寂しいからついつい行ってしまう。
「ちょっとだけなら、良いよ」
その瞬間、隼が、何かを考えているような顔をした。
そんな隼に成宮君が気づいた。
「あっ、わり〜、話中だった?」
「いえ、いえ、大丈夫です。ちなみにそれって、俺も参加してもいいやつっすか?」
「おう、全然。ただ飲みたいやつの集まりだから。大歓迎」
「じゃぁ、俺も行きます! 俺、携帯コーナーにいる早瀬です」
「了解。もし他にも行きたい奴いたら言ってよ。寺嶋経由でいいから」
「了解っす〜。じゃぁ、また後で」
そう軽く言って、隼は去っていった。
「早瀬って、あいつなんだ」
「え? 有名なの?」
「売り上げすごいらしいよ」
「へ〜、そうなんだ。知らなかった」
隼ってなんでも出来るんだなぁ……。
「とりあえず、六人で予約しとくわ。増えたらまた俺に言って」
「分かった」
やっぱり好きにならないようにしなきゃ、後になって苦しむのは自分なんだから。
僕は着替えが終わり、持ち場へと向かった。
隼は僕が心配だったのだろうか? それとも本当に飲みたいだけだったのだろうか?
そして、一日の業務が終わり、僕たちは成宮君が予約してくれた店へと移動した。
「早瀬君って、売り上げすごいんでしょ?」
フリーターで、綺麗な姉御肌の加藤さんが言った。
「そうっすね」
「わぁ〜、自信満々」
「いや、だって、本当のことなんで」
「早瀬君っておもしろ〜い」
ケラケラと加藤さんは笑った。
「あ〜ざ〜っす」
隼は軽快に話す。
二人は向かい合って、楽しそうだ。
僕は、その様子を横目で見る。
テーブルの上のジョッキから、影がぼんやりと伸びていた。
「寺嶋君と早瀬君って大学が同じとかなの?」
「いや、違いますよ」
「え〜、じゃぁ、どういう知り合いなの?」
「あ〜、こいつがぶっ倒れてたのを、俺が拾って帰ったのがきっかけっすね」
は? それ言う??
僕は驚いて隼を見た。
「なっ」
と同意を求めるように、隼が僕を見て優しく微笑んだ。
僕は何も言えずに呆然と隼を見ていた。
「え?? そうなの? 寺嶋君って酔っ払ってもちゃんと帰ってるイメージだった」
加藤さんが興味津々で隼を見ている。
「そうなんっすか? 酷いっすよ」
「ひどいよ。隼、それ言うかな……」
「みんなにも知ってもらったほうが安心」
隼は僕に優しい笑顔を向けた。
なんだよ。その笑顔。ずるいよ。
僕は苦しくなって、目を逸らした。
「ふ〜ん。二人って、めっちゃ仲良いんだね〜」
僕たちを見て、加藤さんは目を輝かせていた。
まぁ、この人も飲むとタチが悪いから、いいんだけど。
「でも、寺嶋君が酔っ払ってるの見てみた〜い」
「その前に加藤さんが酔い潰れてるからじゃないっすか」
「こら! 寺嶋、そう言うこと言う?? お前、今日は飲め!」
「いや、こいつに飲ませないで下さいよ。マジでタチ悪いんで」
「いいんだよ。だってその為に来たんでしょ? 早瀬君」
「え? いや、違いますよ。ただ飲みたかっただけっすよ」
「早瀬君って嘘つけなさそ〜う」
加藤さんはゲラゲラと笑った。
「何の話してんの? そこめちゃ盛り上がってんじゃん」
端に座っていた成宮君が声をかけた。
成宮君は多分、加藤さんが好きだ。
「いやっ、寺嶋君が、酔い潰れないように、早瀬君が来たらしいよ〜」
「マジか。お前めっちゃいいやつじゃん」
「ですよね。俺、めっちゃいいやつなんっす〜」
「寺嶋君が酔っ払うってイメージなくない?」
加藤さんが枝豆を食べながら、成宮君に可愛く笑顔を向けた。
「いや、いっつもすぐ顔赤くなってんじゃん。でも、気づいたらいなくなってるけどな。ってか、加藤が先に潰れてるから知らないんだろ」
みんなが笑う。
「うるさいなぁ。私は、これのために生きてんだから、飲ませろ〜。っつかみんなで酔い潰れよ〜う!!」
加藤さんはジョッキを持って、僕と、隼のジョッキにコツンと当てた。
「うぃ〜っす」
そう言って、隼はジョッキを持って、ぐびぐびっと飲んだ。
お酒強いんだ……。
僕も笑いながらビールをぐびっと飲んだ。
「あっ、そういえば、俺一回だけ、酔い潰れた寺嶋、家まで送ったことあったわ。思い出した」
そう成宮君が言った瞬間、隼の動作が一瞬止まった。
僕も焦る。
「え? そうでしたっけ?」
「へ〜。こいつタチ悪かったっしょ?」
「ん〜、別にそんな酷い覚えないけど、まぁ加藤の印象の方が強すぎて思い出せん」
そう言えば、一度だけそんなことがあった。
でも成宮君は僕を玄関に置いて、とっとと帰っていた。
何もないのに、やけに緊張してしまう。
「何?? それ! 成宮! お前は私のために来てんだから、それで良いんだよ」
「へいへい」
みんなが笑ってる。
多分、昔、成宮君と加藤さんは何かあった。
みんなそう思っているけれど、誰も口にはしてない。
でも、飲みの席になると、面白いくらいに明白になる。
付き合えば良いのにと思うけれど、加藤さんには彼氏がいるらしい。
きっと加藤さんも何かを怖がっているのかもしれない。
だから、飲んだくれて、成宮君に絡んでいるのだ。きっと。
「お待たせしました〜。大ジョッキと一つと、カシスオレンジ、純米吟醸です」
「大ジョッキ」
「私〜」
「カシスオレンジは寺嶋か」
と成宮君がそれぞれに配る。
当たり前のように僕に渡した姿を見て、隼が言った。
「海って、カシスオレンジって決まってんの?」
「あぁ。いつもそれだよな」
「うん。僕、これが好き」
「ちょっと頂戴」
そう言って、隼がカシスオレンジのグラスを取って飲んだ。
「あっ」
僕の心臓がバクバクした。
唇が微かに触れた日のことを思い出して顔が熱くなる。
「あまっ! お前が酔っ払うのが分かったわ」
「え??」
「ジュースみたいに飲んで、油断した頃に酔いが回るやつ」
「そうなの?」
「わ〜、それあるかも〜」
加藤さんが口を出す。
「私みたいにジョッキにしなよ〜。それか、あれ、純米吟醸がいいんじゃない?」
「いやいや、ダメでしょ。そんなのこいつに飲ませたら」
隼が焦ったように止める。
「いや、でも逆にぐびぐび飲めないじゃん」
「ちょっと飲んでみる?」
純米吟醸を頼んだ成宮君が、僕に差し出した。
「飲めるよ。たまに飲むし」
なんなんだよ、今日は! ゆっくり楽しく飲めない。
「本当かよ〜。飲めよ〜。お子ちゃま寺嶋く〜ん」
「いや、やめてくださいよ。そんなのこいつに飲ませたら、やばいっしょ」
さらに慌てて、隼が止める。
僕はなんか腹が立って、成宮君の純米吟醸を奪い、ぐびっと飲んだ。
「あ〜。お前、一口だけだよ。そんなに飲んだら俺のがなくなるだろ〜」
「おいおい。お前何やってんだよ」
隼は呆れていた。
一気にお酒が回る。体の中で、ビールとカシスオレンジと純米吟醸が混ざった。
「だって、お前ら、うるぅさいんだよぉ。僕が何飲もうと勝手だろ!」
「おっ良いぞ! 寺嶋〜。もっと飲め飲め〜!」
だいぶ出来上がってきた、加藤さんが楽しそうに笑いながら、突っ込んできた。
あ〜、なんなんだよ。僕、めっちゃやばい奴みたいになってんじゃん。
格好悪くて、情けなくて、いてもたってもいられず、立ち上がる。
うわぁ。ちょっとくらっとくる。きっと顔も赤いだろう……。
「僕、トイレ行ってくる」
「大丈夫か?」
隼が心配そうに僕を見た。
「大丈夫だよ。そんなに心配してもらわなくても良いから!」
ついきつく言ってしまう。
これじゃぁ本当にただの酔っ払いだよ。
胸の奥がきゅっと縮んで痛い。
僕は隼の顔も見ずにトイレへ向かった。
「あ〜あ、振られちゃったね〜」
後ろの方から、加藤さんの声が聞こえた。
あ〜やっぱり、ちょっとふらつく。
でも気持ちがいい。なんでお酒ってこんなに気持ちがいいんだろう。
ふわふわする〜。もう全部どうでも良くなる。
僕はトイレを済ませて、手を洗った。
――振り返ると、隼が立っていた。
「あっ、隼だ〜」
僕は隼に抱きついた。
「お前、やっぱり飲み過ぎじゃん」
「飲み過ぎじゃないもん。まだまだ大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないやつのセリフな。それ」
「ん〜。じゃぁ本当に大丈夫な人はなんて言ったらいいんだよぉ」
「……もう、帰らない?」
「やだ! まだ飲みたい! せっかく気持ちよくなって来たのに〜」
「お前……それもうアウトじゃん」
「まだ気持ち悪くない」
「いや、気持ち悪くなってからじゃおせ〜よ」
「じゃぁ気持ち悪くなるちょっと前にやめるから〜。もっと飲みたい〜」
隼は少し黙ってから、ため息を吐いた。
「なぁ……俺のうちに帰ろうよ」
「……隼のうちに行ってもいいの?」
「うん……一緒に帰ろう」
「……じゃぁ帰る」
「うん。俺、お前の荷物も持ってくるから、待っててよ。適当に言ってくるから」
「あっでもお金」
「とりあえず、俺が出しとくわ」
「うん。ありがとう」
そう言うと、隼は一旦席に戻ってから、すぐにトイレの前まで戻ってきた。
「行こう」
僕たちは、隼の家に向かった。
なんだよ。どうしたら良いんだよ。
……好きになって良いのかよ。
僕は胸の鼓動が速くなるのを感じながら、ちょっと切なくなった。
隼の家に着くと、すぐに「飲め」と水を渡された。
「僕、そんなに酔ってないよ」
なんだか、悲しくなって泣きそうになった。
「酔ってるよ。目がおかしい」
「そりゃ少しはふわふわしてるけどさぁ」
「酔い潰れる前に阻止しないと俺が行った意味ねぇだろ」
「ん。やっぱり僕を止めるために来たんだ」
「俺、心配なんだよ。お前見てると」
その言葉を聞いて、僕は泣き出した。
溜まっていた感情が吹き出る様に泣いた。
「どうして、僕に優しくするんだよ〜!!」
体が震える。
「僕のこと抱けないなら優しくなんかするなよ〜……うぅ。うわぁ〜ん」
隼は僕を抱きしめて、優しい声で話した。
「ごめん。抱けないわけじゃない……海と適当に付き合いたくないだけだよ」
「隼……」
「なんか分かんね〜けど、ほっとけないんだ」
「そんなの同情だろ」
「そうかもしれない。俺にもよく分かんねぇ。ただ――」
隼が僕を真っ直ぐに見つめた。
「俺は海の、その他大勢にはなりたくない」
息が止まりそうだった。
「隼……」
「海が怖いのも、俺は分かるよ……俺も怖い。お前にどんどん惹かれていく」
「……うん」
「海は、俺のこと……どう思ってんの?」
「……好きだよ。でも……怖い。きっとそのうち僕に飽きるよ。めんどくさいし」
「面倒なのは分かってるよ。でも今のところ飽きてない」
「うん」
「でも、この先は分かんね〜。俺も無責任なことは言いたくない」
「ふふっ。正直だね」
「うん。海の前ではちゃんと正直でいたい」
僕は隼を思いっきり力を込めて抱きしめ返した。
「うん」
「ちゃんと自分の気持ちにも正直でいたい」
「うん」
「怖いけど、誤魔化したくもない」
「うん」
「ハァ〜。吸い込まれていくわ〜……。なんか分かんねぇけど」
隼は僕の肩に頭を置いて、うなだれていた。
無自覚のまま置いておきたい気持ち。
僕もそれを見るのが怖かった。
これ以上進むのが怖かった。
友達ともそれ以上とも呼べない距離。
でももう知らない僕たちじゃない。
その曖昧さが今の僕たちにはちょうどいいのかもしれない。
僕はそっと目を閉じて、その暗闇に触れた。
ほんの少し怖かったけれど、隼の腕の中にいる限り、落ちていく気はしなかった。
