朝、更衣室に行くと、早瀬君がいた。
 昨日のことを謝りに、僕はロッカーが並んだ中をすり抜けて、早瀬君のところへ向かう。
 
「早瀬君、おはよう」
「お前大丈夫だったの?」
「うん。ごめん。メッセージすぐに気づかなくて」
「既読もつかないから、ちょっと焦ったよ。無事で良かった」
「うん。ごめん」
「ごめん禁止」

 早瀬君は笑って、僕のおでこをポンと押した。
 僕はおでこを触りながら、小さく笑った。

「ありがとう。本当に優しいね」
「ん。じゃぁ、行くわ」

 一瞬、早瀬君は照れたような顔をした。
 そして、僕の肩をポンポンと叩き、去っていた。

 やだな。やっぱり好きになりそう。
 ……怖い。

 僕は売り場へ向かった。
 朝の朝礼が始まる。

「おはようございます」

 僕はホビー売り場のフロアーでレジをしている。所謂(いわゆる)、家電量販店でのバイトだ。
 朝礼が終わり、少しすると店内放送と音楽が店の中に響き始める。

「いらっしゃいませ〜」

 店内が活気付く。
 僕はレジの前に立ち、お客に挨拶をした。

 そうして忙しい午前中が終わり、お昼休憩の順番が回ってきた。
 僕は朝買ってきた、菓子パンの入ったコンビニの袋を持って、休憩室へと向かう。

 扉を開けると、長机がいくつも並んでいる中に、たくさんの人が食事をとっている風景が広がっている。
 食堂の前に並んでいる従業員。お弁当を広げているパートのおばさん、お弁当を買って来ているフリーターの人たちや派遣社員の人。
 そして、僕と同じようなコンビニの袋を広げている、学生バイトの人たち。
 隅の方では疲れて眠っている社員さんもいた。
 室内はそんな人たちの雑談と、電子レンジのブーンという音が響いていた。
 
 そのごった返した中で、僕はすぐに気付いてしまう。

 あっ、早瀬君がいる。
 
 何故か、彼の周りだけ少し明るく見える。
 胸の奥がざわざわする。

 誰かと一緒に食べている。
 早瀬君が笑う。楽しそう。
 僕はそれを横目に隅の方に向かおうと動き始める。
 
 すると、早瀬君が僕に気付いて、手を振った。
 
 嬉しくて、思わず顔がにやけそうになる。

 好きになりたくないのに、頭と心がバラバラになる。
 一瞬、足を止めるけど、行かない選択肢はなかった。

「お前も今、昼なの?」
「うん」

 彼の手元を見ると、手作りのお弁当があった。
 僕は驚いた。

「早瀬君ってお弁当持って来てるの?」
「おう、役者は体が資本だからな」
「自分で??」
「他に誰が作るんだよ」
「すごっ……」
「お前は? コンビニか?」
「うん」
 そんな話をしていると、一緒にいた人が席を立った。

「俺、そろそろだから行くわ」
「おう、また後で」
 そう言ってその人は売り場へと戻っていった。

「そこ座れば? それとも誰かと約束してる?」

「……なんか邪魔しちゃったかな?」

「いや、時間だったから行っただけだよ。気にしなくていいよ」
「だって……」
「大丈夫だよ。みんなお前みたいに他人に気を遣ったりしてね〜から」
「……ありがとう」

 そう言って僕は早瀬君の向かい側に座った。
 あんぱんを取り出して、ついばむように一口食べる。
 早瀬君の顔がまともに見れない。

 まさかの弁当男子……。

 自分の適当さがなんだか恥ずかしくなる。

「いつもそんなの食ってんの?」
「うん。僕、料理しないから」
「……そんなのばっかり食ってるとメンタルによくね〜ぞ」
「いいよ。元々よくね〜から」
「なら尚更、気をつけた方が良くね〜?」

 僕はちょっとムッとして、無言で食べ続けた。
 
「悪い。要らんおせっかいだな」
「いや。まぁ言われて当然だから……」

「あ〜もう、なんだよ。お前、悪かったよ。ほれ、俺の卵焼きやるから、許せよ」 

 そう言うと、僕の口元に卵焼きを差し出した。
 
 え!? このまま食べていいのかな?
 僕の鼓動が速くなる。

「あっ、卵大丈夫だよな?」
「う、うん」
「じゃぁ、口開けろよ。ほれ」
 
 僕は恐る恐る口を開いた。僕の口の中にポンと卵焼きが入ってくる。
 心が一気に騒ぎ出す。

「うまいだろ?」

 笑顔が眩しくて苦しい。

「……うん。美味しい」

 それは出汁の効いた塩味の大人な卵焼きだった。
 苦しいけど、でも胸の奥の何かがじんわりと明るくなっていく気がした。
 早瀬君は少し笑って、自分のお弁当を食べ続けた。

「……すごいね。料理好きなの?」
「う〜ん。好きではないけど、コンビニばっかりだと味気ないし、食堂は金かかるし、いつもじゃねぇけど、まあ出来るだけ」
「ふ〜ん。やっぱり、早瀬君てすごいね。僕なんて。何も出来ない」

「そうやって人と比べてると、お前のいいところが見えなくなるぞ」

「いいところなんてないよ」

「あるよ、絶対。ないやつなんて居ね〜よ」

 あまりにも素直な早瀬君を見て笑みが零れる。

「ふふっ。早瀬君って凄いね」
「何がだよ」
「なんて言うか、真っ直ぐって感じ」
「まぁ……俺『はやぶさ』だからな」
「はやぶさ?」
「そう、(じゅん)って漢字」
「そうなんだ、じゅん……。やっぱ格好いいね」
 
 早瀬君が一瞬止まった。よく見ると耳が赤い。

 この人って、本当にノンケなの? あ〜もう、好きになりたくないのに!

「寺嶋は夏休み実家帰ったりしね〜の?」
 
「うん。まぁ僕の実家そんな遠くないし、いつでも帰れるから。早瀬君は?」
「まぁ……俺も、そんな感じかな」
「そっか」
「じゃあ、ほとんどバイトか?」

「そうでもないかな。課題やらなきゃだし」

「ん。じゃぁあんまり会わねぇか」

「……そうだね」
 
 休憩室のざわめきが少し遠くに感じた。
 カフェオレのペットボトルを空けて飲む。

「そういえばさ、光と色が分からなくなったって言ってただろ」

「あっうん」
 胸の奥がざわっとする。

「俺さぁ、演劇のワークショップ行ってんだよ。そこでさぁ、五感を鍛えるみたいなのがあるわけ。そこって、演劇やりたいやつだけが来てるわけじゃね〜からさ。体験だけでも来ねぇ?」

「あ〜……」
「感覚刺激したらさあ、なんかヒントになるかも?」
「ん〜、でも、僕、演劇とか苦手。人前に出るなんて、恥ずかしい」
「まぁ、でも、訓練だけだから、みんな一斉にやるし、そんな恥ずかしくないと思うよ。続けたら、発表とかあるけどさっ。体験だけなら面白いと思うし」

「……人前に出ないんなら、じゃぁ行ってみようかな」
「おう。予定聞かせてよ」
「うん。えっとね」

 そう言って、僕は携帯を出して、予定を調べた。
 演劇は興味なかったけど、早瀬君が演劇をしているところは見てみたいと思った。
 それに、僕のことを考えてくれてたのも嬉しかった。

 次の週に僕は早瀬君と稽古場の最寄り駅で待ち合わせをした。
 駅に着くとすぐに早瀬君を見つけてしまう。
 彼が視界に入った瞬間、胸の鼓動が激しくなる。

 あ〜、やだなぁ。好きになりたくないなぁ。

 僕は気持ちを落ち着かせようと、ゆっくりと息を吸って吐いた。

「早瀬君!」
「おう。……お前、顔になんか付いてるぞ」
「え?」

「絵の具か? 白いやつ。ここ」

 早瀬君が自分の顔の頬を指さして教えてくれる。

「ここ?」

 僕は手で言われたところを擦る。

「あ〜違う。ここ」

 早瀬君が僕の頬にそっと手を添えた。
 指先が触れた瞬間、息が止まる。
 
 ドキドキする……。

 緊張して体が硬直した。

「あ〜取れねぇ」

 早瀬君が僕の顔を覗き込む。
 心臓が一気に跳ねて、胸が苦しくなる。
 
  ……なんで、そんな顔で見るんだよ。

「そっか。目立つ?」
「……少し。でも、まぁそれで電車乗ってた訳だし、いいか」
「ふふっ。そうだね。あとで洗うよ」
「言ってた課題ってやつ?」
「そう。まだ何も決めてなんだけど、下地だけでも塗っとかないと、夏休み中に終わらないから」
「下地?」
「そう、絵の具の発色とかを良くするために、先に白いジェッソっていうのを塗るんだよ。何回か塗るから、時間かかるんだ」
「へ〜、そのまま描くんじゃないんだ。大変なんだな」
「まぁね。……あ〜、今日、行くって言ったけど、緊張するな」
「大丈夫だよ。遊びだと思ってさっ」
「簡単にいうなぁ」

「でも本当遊びみたいな感じだから。楽しんだもん勝ち!」

「……分かった。遊ぶ」

「おう!」

 そのワークショップが行われているところは、大きな施設の中の一室にあった。
 中に入ると、まだ、ほとんど人はいなかった。
 二人くらい、女性がストレッチをしていた。

「よっ」
「あ〜、隼、おはよう」
 一人の女性が僕をみて、にこりと笑った。

「体験の人?」
「そう」
「こんにちは」
「……こんにちは」
 僕は緊張しながらその人を見た。
 背が高くて、黒髪が綺麗な凛とした印象の人だった。

「後藤さんは?」
「トイレかな? さっきまで居たけどね」
「そっか、とりあえず着替えてくるわ。寺嶋着替え持ってきた?」
「うん」
 そう言って、僕たちは着替えを持ってトイレへ行った。

「まぁあその場で着替えてもいいんだけど、お前、よく分かんね〜から」
「え? あっ気にしてくれたんだ」
「うん。前、うちに来た時も、気にしてそうだったから」
「……ありがとう」

 そんなの気にしてくれたんだ。
 確かに、あの日、僕は乾いた服を受け取って、バスルームに行って、着替えた。
 それを覚えてくれてたんだ。

「あと、初めに名札作るんだけど、苗字とかじゃなくて、なんて呼ばれたい?」
「え? 早瀬君はなんて呼ばれ……あっ(じゅん)? さっきの女の人が呼んでた」
「そう、隼。そのまま」
「じゃぁ僕も(うみ)。そのままで」
「じゃぁ俺も今日から、海って呼ぶわ」
「分かった。じゃぁ僕も隼君って呼ぶ」
「君はいらないよ。みんな付けないから」

「そっか。分かった。じゃぁ……じゅ…ん」

 恥ずい!!

「その言い方」

 隼はそう言って笑っていた。
 ワークショップに来て良かった。
 名前を呼ぶだけなのに、ぐっと距離が近くなった気がした。

 そして、後藤さんという先生が来た。
 ここでは「先生」じゃなくて「後藤さん」とみんな呼ぶらしい。気さくで、すごく熱心な先生だった。
 ここの演劇のレッスンはちょっと変わっているらしい。
 とにかく『パッと飛び込め』と言われた。
 
 一番初めにみんなで大声を出した。飛び込めと言われた通り、僕も大声を出した。
 気持ちが良かった。
 大声を出しても誰も(とが)めない。
 走り回って、声を出す。それだけなのに、気持ちよかった。

 そこから『架空』と呼ばれる、パントマイムみたいなものをした。
 でもパントマイムではないらしい。五感を使って、コーヒーを飲む。
 後藤さんがみんなに声をかける。 

「どんな匂いがする?」
 僕は匂いを嗅ごうとする。
 コーヒーの匂い……?

「持った感じは? 重さはどのくらい?」
 後藤さんはカップを持ったかのように手を動かす。
 そして重さを感じるように上下に少し揺らした。

「よーく見て、触って……」
 
 どのレッスンも面白かった。
 今までコーヒーを飲むってことにこんなに集中したことはない。
 そこにないものを想像してみるのは楽しかった。

 普段は絵に落としているけれど、そのイメージを触ってみるということが新鮮だった。

 一番良かったのは、『センター』というものだった。

 みんなで輪になって、真っ直ぐに立つ。そして、前をぼーっと見る。
 後藤さんが声をかける。

「胸の奥深〜くに、まるーくて、温かくて〜、なんかふわふわっとしたものがあるんだよなぁ〜」

 後藤さんの声が教室中に響く。その振動なのかわからないけど、胸の辺りが微かに震える。

 僕の胸の奥から何かが広がっていく、周りの人たちの輪郭がぼんやりと発光しているように見えた。心地がいい。

 感覚を使って、体を使って、表現して、どれもこれも楽しかった。
 普段感じないようにしている僕にとって、安全に楽しめた。
 
 でもずっとここに通うなんて、自分には怖くて出来ないと思った。
 自分が剥き出しになるような気がして……。

 隼はこんな事をずっとやって来てるんだと思うと尊敬した。

 そして、最後の『シーンの発表』を残すだけになった。
 
 休憩になると、みんなが持ってきた服に着替え始める。
 女子はまとめてトイレへ移動し、男子は大体その場でTシャツを脱ぎ替えていた。

「海、着替えに行こう」
 隼が気にかけてくれた。
 すると、シンジさんという少し大人な感じの人が話しかけてきた。

「隼、いつもここで着替えてるでしょ。俺も、トイレで着替えるから、一緒に行ってくるよ」
「あっ……そうっすか? じゃぁ」
 隼は一瞬僕に笑顔を向けて、自分の荷物の置いてある方へ戻って行った。
 
「行こうか」
「はい」

 ちょっと残念な気持ちを隠しながらシンジさんと一緒にトイレへ行った。
 着替えてトイレを出ると、シンジさんが手を洗っていた。
 鏡越しに僕をみる。

「海ってさぁ、隼と学校が一緒なの?」
「いや、バイトが同じで」
「そうか。また来る?」
「いや、多分来ないかな」
「あ〜、役者じゃないんだっけ?」
「そうです。絵を描く方なんですけど、隼が誘ってくれて……」

「なるほど。繊細そうだと思った」

「そうですか?」
 
 シンジさんはハンカチで手を拭いた。

「俺も、海と同じだからさ……多分、そっちでしょ?」

「あっ、えっと〜」
「……セクシャリティ?」
「あっ、シンジさんもなんだ……」
「そう。なんか悩んでるんだったら、話聞こうか? 同じ方が話しやすくない? 隼はノンケだから話せないこともあるでしょ。そういう友達いる?」

「いや、同じ人とはヤるだけなんで」

 シンジさんが爆笑する。

「お前、その顔で強烈だな」
「本当のことだから……」
「じゃぁ困ったら言っといでよ。連絡先交換しとく?」
「……はい」
 そう言って、お互いの連絡先を交換した。

「……オッケー、じゃぁ、行くか」 

 廊下に出ると、そこには隼がいた。

「あっ、隼……」
「おう」
「先行くわ」

 シンジさんが僕の肩をポンポンと叩いた。
 隼と一瞬目があった。

「聞いてた?」
「あっ、うん。なんか、タイミングよく聞いてしまった」
「そうだったんだ」

 どこから聞いてたんだろう……。

「うん……じゃ、俺トイレ行ってから戻るわ」
「あっ、うん」
 
 なんとなく、隼に壁を感じた。

 どう思ったかな? ヤるだけとか言ってしまったし、そこも聞かれたかな?
 まぁ、隼は僕のこと好きになったりしないから、どっちでもいいか。
 でも何故か、胸の奥がちくりと痛んだ。
 廊下の窓はもう真っ暗だった。
 僕はその暗闇を避けるように急いで教室へ戻った。