新学期が始まった。
課題を教授に提出した。
「寺嶋ならちゃんと持ってくると思っていた」と言われてホッとした。
夏休み中に下地を塗り終えた、キャンバスをアトリエの床に置く。
アトリエは画材のツーンとしたような匂いで溢れている。
絵の具をがさごそと探す音や、筆を選ぶ音、筆を運ぶ音、それらが静かに響く。
やっとみんなの中に入れた。
それでも、随分僕は遅れているけれど、あまり気にならなかった。
隼が前に言ってくれた言葉を思い出す。
――「お前、素早いイメージないし、それが海のペースなんじゃないの?」
あの時は劣等感で苦しかったけど、今は本当にそうだと思う。
僕には僕のペースがある。多分それでいいのだ。
泣いて、もがいて、逃げて、それでも光を掴み取ろうとした。
全部がそれでいいんだと思う。
どんなに苦しくても、きっとそれは未来のどこかに繋がっているから。
そして、そこへ本当に愛せる人と一緒に進むことが出来たら、それは本当に奇跡みたいなものだと思う。
愛して貰うをことを望むのではなくて、本当に人を愛せる自分でいたい。
確かに好きになればなるほど、失うのは怖いけど、怖いからこそ大切にしたい。
失ったときに後悔しないように。
僕はバーントシェンナの色をテレピンで水のように薄めた。
その淡い色で、下絵をゆっくり落としていく。
小皿にペトロールを垂らす。
パレットに青、白、それから影になる黒を置いた。
今日も色はちゃんと煌めいている。
ペトロールを含ませた筆で絵の具を溶き合わせる。
淡く、淡く──ゆっくり。ときどき、衝動に任せて速く。
筆先のリズムに合わせて、海の水面が静かに立ち上がる。
油絵は急がせてくれない。
乾くのを待ち、また薄く重ね、少しずつ深さと光を作っていく。
僕には、このゆっくりと世界を作っていく感覚がいちばん好きだ。
静かな部屋の中で僕は色と光と対話するように深く深く降りていく。
時間がなくなりただそこに浸透していく。
そして、授業の終わりを告げるチャイムと共にその世界から弾き飛ばされた。
一気に日常に戻り帰りの準備をした。
学校が終わり、久しぶりのバイトへ行った。
でもその日は隼は休みだったのか会えなかった。
いつ隼と会えるか分からないけど会えたらちゃんと自分の気持ちを伝えようと思ってた。
それから、一週間して、やっと僕は隼の姿を見つけた。
携帯コーナーで隼がお客さんと楽しそうに話をしている。
隼が一瞬僕を見た気がした。
僕に気付いたかな? 気付いてくれてたらくれたら嬉しいなあ。
久しぶりに隼を見て、胸が高鳴った。
本当は、今すぐ飛びつきたいくらいだった。
僕は更衣室に行って制服に着替える。
ここで隼と話をしたことを思い出す。
胸の奥がチクリと痛む。
今更ながら、自分のバカさ加減が嫌になる。
でも仕方ない。あの時は本当に怖くてどうしようもなかったのだから。
ちゃんと気持ちを伝えるだけでもしよう。
僕はロッカーの扉を閉めて、売り場へ向かった。
店内は活気にあふれている。
音楽が流れ、人の話し声や、店員が呼びかける声でざわついている。
僕はレジに向かう。
「おはようございます!」
「おう! おはよう!」
成宮君が話しかける。
「明後日飲み会するけど、来れる?」
「あ〜、当分遅番なんで」
「少しでも来ねえ?」
「そうっすね……いらしゃいませ」
お客が来て、対応する。
「……ありがとうございます」
「この前の早瀬も呼んでさぁ。おいでよ」
成宮君に言われて、心がざわつく。
「いや、最近会えてないんで、ちょっと無理かな。直接誘ってくださいよ」
「ん? 何かあったの?」
「いや、僕が課題提出とかで忙しくて」
「そうか……。まぁ気が向いたらおいでよ」
「ほ〜い」
前の飲み会を思い出して、泣きそうになる。
あぁ、もう、バイト中なのに!
何か別に意識を向けようと、レジ袋の補充を確認した。
――そして、閉店時間になった。
蛍の光の音楽が流れる。
「本日はご来店誠にありがとうございます。閉店のお時間となりました……」
閉店を知らせるアナウンスが流れる。
徐々にお客が減っていく。
外ではシャッターを閉める、キーッ、ガラガラガラと言う音が響いていた。
すっかりお客がいなくなると、音楽が終わり店内が静まり返る。
そして、ところどころで話し声が聞こえ始める。
僕は加藤さんとレジ締めをしていた。
「寺嶋くんこの前大丈夫だった?」
「え?」
「早瀬君が結局連れて帰ってたじゃん。トイレで倒れてたんでしょ??」
「え……、違いますよ。倒れてはないですけど、あいつが気にしすぎなんですよ」
「そうなの? でも早瀬君の献身ぶりにはちょっと惚れたわぁ〜」
加藤さんがケラケラと笑う。
「心配しすぎなんですよ」
「まぁ心配してもらえるうちは良いよ。成宮なんて私の扱いひどいよ」
「……加藤さんって成宮君のところに行かないんですか?」
「え!? 何言ってんの??」
「いや、すみません。でも自分の気持ち大事にした方がいいっすよ。成宮君もいつまでも待ってられないと思うし」
「どうしたの?? 寺嶋君がそんなこと言うなんて、何かあったの??」
「まぁ、ちょっと」
「ふ〜ん。でも仕方ないんだよ。好きでもタイミングが合わないこともある……」
「それでいいんっすか?」
「だって、成宮もそこまで思ってないから。そんな奴のところに、投げ打っていけない」
「加藤さんから投げ打ったら何か変わるかもしれないのに……」
「それで抱き止めてくれなかったら、私、死ぬじゃん」
「成宮君はそんなことないと思うけど」
「だって、私、好きとか言われてないし」
「そうなんですか……。そりゃ怖いっすね」
「でしょ」
「言ってくれたら、行くんですか?」
「……本気だったら……多分、いく。まぁそんなことないだろうけど」
加藤さんが切なそうに笑った。
多分、お互いが好きだからこそ、言えないんだと思った。
僕だったらどうするんだろう。
僕に恋人がいて、それでも隼を好きになってしまったら……。
やっぱり僕も怖すぎて言えない……。
恋人がいなくても怖いのに、言えるわけないよな。
思わず笑いそうになる。
「寺嶋君がそこまで言ってくるなんて珍しいね」
「すみません」
「いや、なんか嬉しい。ありがとう」
僕は照れて笑った。
「終礼〜!」
社員が呼びかける。
「さてと、行きますか」
僕たちは呼ばれた場所へと移動した。
終礼が終わり、更衣室へと向かう。
エレベータに乗ると、たくさんの社員の中に隼も乗っていた。
「お疲れ様で〜す」
それぞれ挨拶をする。
エレベータの中で、ちらっと横を見ると、隼と目が合った。
隼は何事もなかったようにニコッと笑った。
その笑顔に胸の奥が痛む。
まるで「もう忘れたよ」と言われたような気がした。
エレベーターが開き、みんなが更衣室へと向かう。
僕は思わず、隼の腕を掴んだ。
隼が驚いたような顔をして、僕を見た。
「隼。話したい」
「おう……」
「着替えたら、下で少しだけ話していい?」
「分かった。じゃぁ着替えたら、ここで待ってるよ」
「ありがとう」
そして、僕たちは着替えてから、エレベーターで下に降りた。
人があまり来ないような路地で立ち止まる。
「僕、課題仕上げたよ」
「そっか。海なら出来ると思ってたよ。おめでとう」
「隼のおかげだよ。ありがとう」
「俺は何もしてねぇよ」
「隼……僕……色々ごめんね。怖がってばっかりで、隼の気持ち全然考えてなかった」
「俺も、海のこと……傷付けてごめん」
「それ、僕だよ。隼の気持ち信じようとしなかった」
「そりゃ仕方ないよ。海が求めてること分かってたのに……。結局、俺も海のこと信じてなかったのかもな」
隼が困ったように笑う。
「隼……」
「一方的に守ろうとして、ごめんな」
「そんなことないよ! 隼が教えてくれたんだよ。光の所在!」
「俺が??」
「そう、いっぱい教えてくれてたのに、僕が気付けなかっただけ。本当にごめん!」
「……そっか、なら、良かった」
「……僕、もう消えたいって言わない。もう生存確認もやめた。だから……もう一度好きになって欲しい」
「……俺は……ずっと好きなままなんだけど」
「隼……」
「……でも、良いのかよ。俺……あんなことしたのに」
「だってそれは僕がそうさせてしまったから。本当にごめん!」
「……ごめん禁止」
隼が小さく笑った。
そして、僕をゆっくりと抱きしめた。
「じゅ〜ん〜」
僕は思わず声に出して泣いた。
「でた〜。泣き虫」
隼がくすくすと笑う。
「隼、好きだよ。本当に大好き」
「俺も、海が好きだ。もう、どこにも行くなよ」
「うん。絶対に行かない。隼だけ見てる」
唇がそっと触れ合い、お互いの呼吸が重なった。
僕はギュッと隼を抱きしめた。
誰も通らない路地は真っ暗で月明かりだけが滲んでいた。
それでも、僕はもう怯えなかった。
「……芸術祭の時に展示されるから、見に来てほしい」
「うん。絶対に行くよ」
「ありがとう」
そして、芸術祭の日が来た。
隼が絵の前に立っている。
あの日、夢で見たあの光景。
深い深い闇のような海に、うっすらと見えるハヤブサの足。その足が水面を蹴り上げ、水飛沫が跳ねる。
それが明るいプリズムとなって、虹がかったように輝いている。
そしてそれは海の方からじんわりと輝く黄金の光に照らされていた。
何度も何度も絵の具を重ねて、淡い、幻想的な色で、繊細だけど、でもどこか強さを思わせるようなそんな絵だった。
僕が隼の元へ行くと隼の鼻が赤くなっていた。
その横顔に僕も泣きそうになった。
「やっぱりお前はすげ〜な」
隼の声が震えていた。
「これって鳥の足?」
「そう。はやぶさの足だよ」
「……俺?」
「うん。隼が気付かせてくれたから、僕に波風を立てて気付かせてくれた。本当の光の所在は外じゃなくて、自分の中にあるんだって」
「そっか。やっぱり俺が、海を守ろうとしすぎたから、逆にお前を弱くしてしまったのかもしれないな……」
「そうじゃないよ。僕が自分を信じてなかったから。隼のせいじゃないよ」
「……そっか、そうだな。なんかそれも押し付けがましいよな」
「じゅ〜ん〜」
僕はちょっと膨れて隼を見た。
「なんだ、その顔」
隼がくすくすと笑って、頬を指で押した。
「芸祭終わったらさぁ、隼のうちに行っても良い?」
「良いよ。もちろん」
「じゃぁ行くね」
「もうさぁ、一緒に住まない?」
「え!?」
一瞬時間が止まった。
「いや?」
「嫌じゃないよ〜。嬉しい。でも僕大丈夫かな」
嬉しさとちょっとだけの不安が胸の奥で微かに揺れる。
「あっ、また急ぎすぎたか……ゆっくりでいいよ。そのうち」
「うん。でも、一緒に住みたい!」
「おう。じゃぁゆっくり探そう」
「うん! ありがとう。隼。本当に大好き」
「おう。俺も……」
隼の顔が赤くなった。
僕はそれを見て、くすくすと笑った。
隼が僕の頭をぐちゃぐちゃっと触った。
人の話し声と、外から、聞こえてくる音楽が響いている。
校内は賑やかな楽しさに包まれていた。
春休みになった。
春の少し温かい風が、僕の顔を撫でて去っていく。
微かに草花の匂いなのか、春っぽいさを感じさせて胸の奥が膨らむ。
僕はトラックから最後のダンボールを持って、マンションの部屋へと運んだ。
太陽からの柔らかい光がまちを包み込んでいた。
「これで最後!」
僕は自分の荷物を新しい家の玄関に置いた。
「おう。俺のも終わった」
隼を見て微笑んだ。
「これからよろしくね」
「ん。よろしく」
隼が僕を抱きしめて、まっすぐに見つめた。
僕に軽く唇を重ねて笑った。
僕も少し笑って、隼にキスのお返しをする。
隼が小さく笑って、僕を抱えた。
そして、新しい部屋に入って、ソファの上に僕を優しく倒した。
外はまだまだ明るくて恥ずかしいくらいだったけど、それでも、僕たちは一緒になりたかった。
それはとても自然で、そして温かくて、溶けて消えそうだったけど、怖くはなかった。
隼が僕の手を握った。その手を握り返す。
もし、傷つくことがあっても、それでも、やっぱり隼と一緒にいたい。
悲しみも、苦しみも、嫌な気持ちも全部受け止めて、それでも隼を好きだと言っていたい。
愛されることに縋るんじゃなくて、これからは自分からちゃんと愛したい。
もう、誰でもなんてしないし、消えたりもしない。
隼が居ればいい。
僕は隼の腕の中で彼の温かさと鼓動を感じていた。
新しい部屋の窓ガラスに当たった光が屈折して、キラキラと小さな虹色のプリズムを床に散らしていた。
ダンボールを積み重ねた、部屋の中で、僕たちの呼吸の音が響いていた。
課題を教授に提出した。
「寺嶋ならちゃんと持ってくると思っていた」と言われてホッとした。
夏休み中に下地を塗り終えた、キャンバスをアトリエの床に置く。
アトリエは画材のツーンとしたような匂いで溢れている。
絵の具をがさごそと探す音や、筆を選ぶ音、筆を運ぶ音、それらが静かに響く。
やっとみんなの中に入れた。
それでも、随分僕は遅れているけれど、あまり気にならなかった。
隼が前に言ってくれた言葉を思い出す。
――「お前、素早いイメージないし、それが海のペースなんじゃないの?」
あの時は劣等感で苦しかったけど、今は本当にそうだと思う。
僕には僕のペースがある。多分それでいいのだ。
泣いて、もがいて、逃げて、それでも光を掴み取ろうとした。
全部がそれでいいんだと思う。
どんなに苦しくても、きっとそれは未来のどこかに繋がっているから。
そして、そこへ本当に愛せる人と一緒に進むことが出来たら、それは本当に奇跡みたいなものだと思う。
愛して貰うをことを望むのではなくて、本当に人を愛せる自分でいたい。
確かに好きになればなるほど、失うのは怖いけど、怖いからこそ大切にしたい。
失ったときに後悔しないように。
僕はバーントシェンナの色をテレピンで水のように薄めた。
その淡い色で、下絵をゆっくり落としていく。
小皿にペトロールを垂らす。
パレットに青、白、それから影になる黒を置いた。
今日も色はちゃんと煌めいている。
ペトロールを含ませた筆で絵の具を溶き合わせる。
淡く、淡く──ゆっくり。ときどき、衝動に任せて速く。
筆先のリズムに合わせて、海の水面が静かに立ち上がる。
油絵は急がせてくれない。
乾くのを待ち、また薄く重ね、少しずつ深さと光を作っていく。
僕には、このゆっくりと世界を作っていく感覚がいちばん好きだ。
静かな部屋の中で僕は色と光と対話するように深く深く降りていく。
時間がなくなりただそこに浸透していく。
そして、授業の終わりを告げるチャイムと共にその世界から弾き飛ばされた。
一気に日常に戻り帰りの準備をした。
学校が終わり、久しぶりのバイトへ行った。
でもその日は隼は休みだったのか会えなかった。
いつ隼と会えるか分からないけど会えたらちゃんと自分の気持ちを伝えようと思ってた。
それから、一週間して、やっと僕は隼の姿を見つけた。
携帯コーナーで隼がお客さんと楽しそうに話をしている。
隼が一瞬僕を見た気がした。
僕に気付いたかな? 気付いてくれてたらくれたら嬉しいなあ。
久しぶりに隼を見て、胸が高鳴った。
本当は、今すぐ飛びつきたいくらいだった。
僕は更衣室に行って制服に着替える。
ここで隼と話をしたことを思い出す。
胸の奥がチクリと痛む。
今更ながら、自分のバカさ加減が嫌になる。
でも仕方ない。あの時は本当に怖くてどうしようもなかったのだから。
ちゃんと気持ちを伝えるだけでもしよう。
僕はロッカーの扉を閉めて、売り場へ向かった。
店内は活気にあふれている。
音楽が流れ、人の話し声や、店員が呼びかける声でざわついている。
僕はレジに向かう。
「おはようございます!」
「おう! おはよう!」
成宮君が話しかける。
「明後日飲み会するけど、来れる?」
「あ〜、当分遅番なんで」
「少しでも来ねえ?」
「そうっすね……いらしゃいませ」
お客が来て、対応する。
「……ありがとうございます」
「この前の早瀬も呼んでさぁ。おいでよ」
成宮君に言われて、心がざわつく。
「いや、最近会えてないんで、ちょっと無理かな。直接誘ってくださいよ」
「ん? 何かあったの?」
「いや、僕が課題提出とかで忙しくて」
「そうか……。まぁ気が向いたらおいでよ」
「ほ〜い」
前の飲み会を思い出して、泣きそうになる。
あぁ、もう、バイト中なのに!
何か別に意識を向けようと、レジ袋の補充を確認した。
――そして、閉店時間になった。
蛍の光の音楽が流れる。
「本日はご来店誠にありがとうございます。閉店のお時間となりました……」
閉店を知らせるアナウンスが流れる。
徐々にお客が減っていく。
外ではシャッターを閉める、キーッ、ガラガラガラと言う音が響いていた。
すっかりお客がいなくなると、音楽が終わり店内が静まり返る。
そして、ところどころで話し声が聞こえ始める。
僕は加藤さんとレジ締めをしていた。
「寺嶋くんこの前大丈夫だった?」
「え?」
「早瀬君が結局連れて帰ってたじゃん。トイレで倒れてたんでしょ??」
「え……、違いますよ。倒れてはないですけど、あいつが気にしすぎなんですよ」
「そうなの? でも早瀬君の献身ぶりにはちょっと惚れたわぁ〜」
加藤さんがケラケラと笑う。
「心配しすぎなんですよ」
「まぁ心配してもらえるうちは良いよ。成宮なんて私の扱いひどいよ」
「……加藤さんって成宮君のところに行かないんですか?」
「え!? 何言ってんの??」
「いや、すみません。でも自分の気持ち大事にした方がいいっすよ。成宮君もいつまでも待ってられないと思うし」
「どうしたの?? 寺嶋君がそんなこと言うなんて、何かあったの??」
「まぁ、ちょっと」
「ふ〜ん。でも仕方ないんだよ。好きでもタイミングが合わないこともある……」
「それでいいんっすか?」
「だって、成宮もそこまで思ってないから。そんな奴のところに、投げ打っていけない」
「加藤さんから投げ打ったら何か変わるかもしれないのに……」
「それで抱き止めてくれなかったら、私、死ぬじゃん」
「成宮君はそんなことないと思うけど」
「だって、私、好きとか言われてないし」
「そうなんですか……。そりゃ怖いっすね」
「でしょ」
「言ってくれたら、行くんですか?」
「……本気だったら……多分、いく。まぁそんなことないだろうけど」
加藤さんが切なそうに笑った。
多分、お互いが好きだからこそ、言えないんだと思った。
僕だったらどうするんだろう。
僕に恋人がいて、それでも隼を好きになってしまったら……。
やっぱり僕も怖すぎて言えない……。
恋人がいなくても怖いのに、言えるわけないよな。
思わず笑いそうになる。
「寺嶋君がそこまで言ってくるなんて珍しいね」
「すみません」
「いや、なんか嬉しい。ありがとう」
僕は照れて笑った。
「終礼〜!」
社員が呼びかける。
「さてと、行きますか」
僕たちは呼ばれた場所へと移動した。
終礼が終わり、更衣室へと向かう。
エレベータに乗ると、たくさんの社員の中に隼も乗っていた。
「お疲れ様で〜す」
それぞれ挨拶をする。
エレベータの中で、ちらっと横を見ると、隼と目が合った。
隼は何事もなかったようにニコッと笑った。
その笑顔に胸の奥が痛む。
まるで「もう忘れたよ」と言われたような気がした。
エレベーターが開き、みんなが更衣室へと向かう。
僕は思わず、隼の腕を掴んだ。
隼が驚いたような顔をして、僕を見た。
「隼。話したい」
「おう……」
「着替えたら、下で少しだけ話していい?」
「分かった。じゃぁ着替えたら、ここで待ってるよ」
「ありがとう」
そして、僕たちは着替えてから、エレベーターで下に降りた。
人があまり来ないような路地で立ち止まる。
「僕、課題仕上げたよ」
「そっか。海なら出来ると思ってたよ。おめでとう」
「隼のおかげだよ。ありがとう」
「俺は何もしてねぇよ」
「隼……僕……色々ごめんね。怖がってばっかりで、隼の気持ち全然考えてなかった」
「俺も、海のこと……傷付けてごめん」
「それ、僕だよ。隼の気持ち信じようとしなかった」
「そりゃ仕方ないよ。海が求めてること分かってたのに……。結局、俺も海のこと信じてなかったのかもな」
隼が困ったように笑う。
「隼……」
「一方的に守ろうとして、ごめんな」
「そんなことないよ! 隼が教えてくれたんだよ。光の所在!」
「俺が??」
「そう、いっぱい教えてくれてたのに、僕が気付けなかっただけ。本当にごめん!」
「……そっか、なら、良かった」
「……僕、もう消えたいって言わない。もう生存確認もやめた。だから……もう一度好きになって欲しい」
「……俺は……ずっと好きなままなんだけど」
「隼……」
「……でも、良いのかよ。俺……あんなことしたのに」
「だってそれは僕がそうさせてしまったから。本当にごめん!」
「……ごめん禁止」
隼が小さく笑った。
そして、僕をゆっくりと抱きしめた。
「じゅ〜ん〜」
僕は思わず声に出して泣いた。
「でた〜。泣き虫」
隼がくすくすと笑う。
「隼、好きだよ。本当に大好き」
「俺も、海が好きだ。もう、どこにも行くなよ」
「うん。絶対に行かない。隼だけ見てる」
唇がそっと触れ合い、お互いの呼吸が重なった。
僕はギュッと隼を抱きしめた。
誰も通らない路地は真っ暗で月明かりだけが滲んでいた。
それでも、僕はもう怯えなかった。
「……芸術祭の時に展示されるから、見に来てほしい」
「うん。絶対に行くよ」
「ありがとう」
そして、芸術祭の日が来た。
隼が絵の前に立っている。
あの日、夢で見たあの光景。
深い深い闇のような海に、うっすらと見えるハヤブサの足。その足が水面を蹴り上げ、水飛沫が跳ねる。
それが明るいプリズムとなって、虹がかったように輝いている。
そしてそれは海の方からじんわりと輝く黄金の光に照らされていた。
何度も何度も絵の具を重ねて、淡い、幻想的な色で、繊細だけど、でもどこか強さを思わせるようなそんな絵だった。
僕が隼の元へ行くと隼の鼻が赤くなっていた。
その横顔に僕も泣きそうになった。
「やっぱりお前はすげ〜な」
隼の声が震えていた。
「これって鳥の足?」
「そう。はやぶさの足だよ」
「……俺?」
「うん。隼が気付かせてくれたから、僕に波風を立てて気付かせてくれた。本当の光の所在は外じゃなくて、自分の中にあるんだって」
「そっか。やっぱり俺が、海を守ろうとしすぎたから、逆にお前を弱くしてしまったのかもしれないな……」
「そうじゃないよ。僕が自分を信じてなかったから。隼のせいじゃないよ」
「……そっか、そうだな。なんかそれも押し付けがましいよな」
「じゅ〜ん〜」
僕はちょっと膨れて隼を見た。
「なんだ、その顔」
隼がくすくすと笑って、頬を指で押した。
「芸祭終わったらさぁ、隼のうちに行っても良い?」
「良いよ。もちろん」
「じゃぁ行くね」
「もうさぁ、一緒に住まない?」
「え!?」
一瞬時間が止まった。
「いや?」
「嫌じゃないよ〜。嬉しい。でも僕大丈夫かな」
嬉しさとちょっとだけの不安が胸の奥で微かに揺れる。
「あっ、また急ぎすぎたか……ゆっくりでいいよ。そのうち」
「うん。でも、一緒に住みたい!」
「おう。じゃぁゆっくり探そう」
「うん! ありがとう。隼。本当に大好き」
「おう。俺も……」
隼の顔が赤くなった。
僕はそれを見て、くすくすと笑った。
隼が僕の頭をぐちゃぐちゃっと触った。
人の話し声と、外から、聞こえてくる音楽が響いている。
校内は賑やかな楽しさに包まれていた。
春休みになった。
春の少し温かい風が、僕の顔を撫でて去っていく。
微かに草花の匂いなのか、春っぽいさを感じさせて胸の奥が膨らむ。
僕はトラックから最後のダンボールを持って、マンションの部屋へと運んだ。
太陽からの柔らかい光がまちを包み込んでいた。
「これで最後!」
僕は自分の荷物を新しい家の玄関に置いた。
「おう。俺のも終わった」
隼を見て微笑んだ。
「これからよろしくね」
「ん。よろしく」
隼が僕を抱きしめて、まっすぐに見つめた。
僕に軽く唇を重ねて笑った。
僕も少し笑って、隼にキスのお返しをする。
隼が小さく笑って、僕を抱えた。
そして、新しい部屋に入って、ソファの上に僕を優しく倒した。
外はまだまだ明るくて恥ずかしいくらいだったけど、それでも、僕たちは一緒になりたかった。
それはとても自然で、そして温かくて、溶けて消えそうだったけど、怖くはなかった。
隼が僕の手を握った。その手を握り返す。
もし、傷つくことがあっても、それでも、やっぱり隼と一緒にいたい。
悲しみも、苦しみも、嫌な気持ちも全部受け止めて、それでも隼を好きだと言っていたい。
愛されることに縋るんじゃなくて、これからは自分からちゃんと愛したい。
もう、誰でもなんてしないし、消えたりもしない。
隼が居ればいい。
僕は隼の腕の中で彼の温かさと鼓動を感じていた。
新しい部屋の窓ガラスに当たった光が屈折して、キラキラと小さな虹色のプリズムを床に散らしていた。
ダンボールを積み重ねた、部屋の中で、僕たちの呼吸の音が響いていた。
