キラキラと光の粒が、空気の中で揺れていた。
 触れられそうで触れられない、小さな光の破片。
 
 僕はぼんやりとした頭のまま、その光景を見る。
 頭の方からはち切れそうな圧迫感を感じた。
 あぁ……頭痛い。完全に二日酔いだ。

 視界が徐々にはっきりしてくる。

 み・お・ぼ・え・のない窓枠……。

 ――あれ? ここ、うちじゃない!

 その瞬間、心臓が跳ねた。

 慌てて上半身を起こした拍子に、タオルケットがさらりと素肌を撫でる。

「うわぁ、僕、服……着てない……?」

 喉がひゅっと縮む。

 知らない部屋、裸の僕。

 嫌な予感しかしない。
 知ってるやつだったら最悪だ……。
 
 部屋の中を見回すけれど、誰の姿もない。
 昨日の記憶は霧みたいに薄くて、つかもうとすると指の間から零れていく。

 ……えっと、そう、そう。
 バイトの飲み会。
 飲みすぎて、途中で店を出て……そこで記憶がぷつんと途切れた。
 
 ぼんやりした意識の中で聞こえた声だけは覚えている。
『お〜い、お前大丈夫かぁ?』

 優しい声だった。
 頬をつねる指先も不思議と乱暴じゃなかった。
 
『おう。ゲロまみれ……』

『お前一人なの? お〜い。聞こえてるかぁ?』
 
 頬を優しくペチペチと叩かれる。
 その顔に見覚えがあった。
 同じバイト先の人だ。
 パソコン売り場だったっけ? 携帯コーナーだったっけ? その辺で見たことある。
 でも名前は知らない。
 しかも今日の飲み会には関係ないやつだった。

『あ〜、もう、お前やばいじゃん。軽そうだから、担ぐぞ』

 言葉は乱暴だけど、声は優しかった。
 彼が僕をヒョイっと肩に担ぐと、頭が下になって気持ち悪くなる。

『ん〜。吐くぅ』

『うわぁ、ちょっと待て、お前ここで吐くな』
 そう言って降ろされる。
『そうやったら、吐きそう……』
『あぁ、じゃあ、おんぶするわ。抱きつける?』
『ん〜』
 僕は彼の背中に抱きついた。

『くっせ〜』
 彼はゲラゲラと笑っていた。
 そして、僕は心地よく揺られながら――ここへ来たんだ。
 
 そんなふうに記憶をつなぎかけたところで──

「お、起きた?」

 突然ドアが開いて、昨日の彼が姿を見せた。
「……っ!」
 思わずタオルケットに潜り、顔だけひょこっと出して彼を見る。
「昨日のこと、覚えてねぇ感じ?」
「……う、うん。ごめん。あの、なんで僕、裸……?」
「お前、ほんとに覚えてないんだな」
 ニヤリと彼の口元が笑う。

 悪戯っぽく、でもどこか優しい笑みだった。

「俺と寝たのも覚えてねぇの?」

「えっ……!! ちょ……ま……まさか……!」

 僕の動揺を見て、彼は吹き出した。

「しねぇよ。そこまではな」
「ん? え? あっじゃぁそう言うことじゃなくて」
「ただの添い寝だよ。笑えるなお前。それともゲイなの?」
 
 え? 率直すぎる!
 思わず笑いそうになる。
 まぁ別に隠してるわけでもないから良いけど。

「……うん」
「え!? あっそうなの?」
「うん。気持ちわるいよね。ごめん」
「いや、別にそうじゃないけど……そっか、なら、なんか納得したかも」

「え!? なんか僕、変なことした??」
「変っていうか、なんか、まとわりついてきて、女みて〜だったから」
 
 なんとなく彼が照れているようにも見えた。
 思わず、胸の奥が弾ける。

「ごめん」

「お前、いつもあんななの? びーびー泣くし『いない方がいいんだ』とか、マジで大変だったぞ」
「す、すみません……」

 あぁ、もう消えてしまいたい。
 ほぼ初対面の人に何やってんだ、僕……。
 恥ずかしすぎて、そのままベッドに顔を押し付ける。

「二日酔いとかね〜の?」
「……ある。頭いたい」
「だろうな。お前、今日なんか予定あるの?」
「いや……」
「じゃあしばらく寝てろよ。お前の服、今洗濯してるし」

「え?? ……そこまでしてもらって、すみません」

「ゲロまみれだったからな。着て帰れね〜だろ」

「すみません。本当、ご迷惑おかけして……」

 情けなさに、また消えたくなる。

「二日酔いだろ。水飲め」
 
 差し出されたペットボトルを受け取り、喉に流し込むと、体の感覚が少しずつ戻ってくる。
 部屋の中に白檀のようなお香の匂いがした。

「腹減ってねぇ?」
「……まだ気持ち悪いです」
「だよな。俺、コンビニ行ってくるけど、なんか要る?」
「大丈夫です。……ありがとうございます」
「礼はいい。お前、面白いし」

 笑って出ていく背中を見送り、胸がきゅっと締まった。
 どうしてこんなに優しいんだろう。

 ほとんど面識のない相手なのに。
 僕は彼が出て行った玄関をぼんやりと眺めると徐々に眠気が襲ってきた。
 僕はそのままシーツに沈んだ。

 
「ん〜」

 真っ暗な世界から、少しずつ、意識がはっきりしてくる。
 さっき見たような窓枠があった。

「おっ、起きたか?」
 彼は床に座りベッドを背もたれにして、携帯を触っていた。

「ごめん。戻ってたの気が付かず寝てしまって」
 そう言いながら、なんとなく時計を見る。

「え!? 今、三時!? ごめん長居してしまって」

「大丈夫。どうせ、今日何もなかったし」
「ほぼ面識ないのに、本当に申し訳ないいです」
「まぁ、だから、いいんじゃね? その方が楽なこともあるっしょ」
 優しい声、胸の奥がじんわりと温かくなる。

「君、いい人だね。それなのに、僕、まじで、クズで、ごめん……」

「あぁ。もう、謝るの禁止な」
 彼は僕の頭をくしゃくしゃっと触った。

「……ありがとぅ」
「素直でよろしい」
 その笑顔に、心が揺さぶられる。

「腹減ってない? ラーメン作るけど食べる?」
「……うん。食べる。トイレ借りていい?」
 
 動こうとして、自分が裸だったことに気づく。
 
 ぎょっ! どうしよう、このタオルケット巻いていく?
 
 モタモタしていると彼が気づいた。

「ああ。服まだ乾いてないから俺の貸すわ」

 そう言ってTシャツと短パンを渡してくれた。
 そして、何気なく、彼は僕に背を向けて、ラーメンの準備を始めた。
 僕はサッと着替えてから、トイレへ走った。

「服ありがとう」
 借りた服は大きすぎて、袖が肩からずり落ちそうになる。
「服、デカすぎたな」
 彼が笑う。

「うん。これX L?」
「そう。お前は……Sサイズ?」
「うん」
「そりゃ軽かったはずだわ」
「あっ……ごめんね」
「だから〜。謝るの禁止って言ったろ」
「あ、うん、ごめっ、あっ、いや、ありがとう」
 そんな僕を見て、彼は爆笑した。
 ラーメンの湯気と、微かなお香とタバコの香りが混ざって部屋の中に漂っていた。

 二人でラーメンを啜る。

「お前名前なんつ〜の?」
「あっ、寺嶋海(てらしまうみ)。大学三年です」
「俺は、早瀬隼(はやせ じゅん)。同じく三年」

「早瀬君……」
 名前を確認しただけなのに、なぜか胸の奥がくすぐったくなる。

「そう。で、寺嶋は昨日のこと、どこまで覚えてんの?」
「んー、おんぶしてもらったのは覚えてる」
 
 僕は窓を見た。
 夏の太陽が窓にあたっている。
 光だ……。
 学校の課題を思い出して、ちょっと泣きそうになる。
 
「で、玄関で降ろされたのも覚えてる」
「うん、うん」
「シャワー浴びろって言われて」
「そうそう」
「それから、浴びようと思って、風呂場に行ったら……」
 思い出した!
 その瞬間、胸の奥がざわついて、恥ずかしくなる。

「行ったら?」
 早瀬君が呆れたような口調で目を細めて僕を見た。

「早瀬君が来てくれて……」

 ……そうだ。思い出した。
 穴があったら入りたい。

 バスタブに入って、シャワーを浴びようとして、その場に座ってしまったんだ。
 だから、早瀬君が来てくれて……。
 そうだ、そうだ……。
 

 昨日の事が蘇る。

「お〜い、ちゃんと浴びてんのか? だいじょ……あ〜、もう、お前、一人じゃ無理じゃん。ちょと待って」
 そう言って、早瀬君はお風呂場に入ってきた。

「あ〜、もう、とにかく服脱げ」

 そう言って、僕の服も全部脱がしてくれた。
 それから、バスタブの中で洗ってくれた。
 シャワーの水が頭の上から降ってくる。

「ごめーん。僕、めっちゃ迷惑かけてる。うわぁ〜ん!」
「はいはい、分かった。分かった」
 
 そんな僕の話を軽く交わしながら、優しく洗ってくれる。
 その優しさに、僕は惨めな気持ちになる。

「僕なんか、いない方がいいんだ〜! うわぁ〜ん!」
「あ〜、もういいから、とりあえず、お前ゲロくっせ〜から、洗ってくれないと俺も困る」

 シャンプーを泡立ててゴシゴシと頭を洗ってくれる。
 まるで拾ってきた犬を優しく洗うかのようだった。
 優しくされれば、されるほど、僕は情けなくなる。

「もう消えたい。うわぁ〜ん」
「うるっせ〜! もう、いいから、とりあえず黙ってくんない?」
「うわぁ〜ん! ごめんなさ〜い。」
 僕は結局涙が止まらず、ずっと泣きながら謝っていた。

「あ〜、はいはい」

 そう言いながら、シャンプーを流して、顔の周りも手で擦って洗ってくれた。
 早瀬君の真剣な顔がぼんやりと見える。

「よし、上がるぞ」
 
 早瀬君は少し笑った。
 シャワーの栓を止め、体を拭いてくれた。
 そして、そのまま二人で、ベッドに倒れ込んだ。

「だ〜!! 疲れた〜。あ〜服、びしょびしょだわ」
 
 早瀬君がため息と一緒に押し出された言葉が心に刺さった。
 自分のことが本当に嫌になる。

「ごめ〜ん。こんなに迷惑かけて〜。僕なんか、いない方がいいのに。ごめ〜ん」

 俺は縋り付くように早瀬君に抱きつく。

「もう、分かったから、お前、抱きついてくんなよ。いいから、寝ろ」
 
 そう言って僕を引き離した。
 でも僕はまた抱きついて早瀬君を揺らして謝る。

「ごめんねっ。ごめんねっ。こんな僕を捨てないでいてくれて〜」
「あ〜、分かった。分かったから、まとわりつくのやめてくんない?」
 早瀬君はもう払いのけるのも面倒そうに、僕の片腕だけを取って離した。
「う〜わぁ〜ん。本当にごめ〜ん」
 そう言って結局僕は、早瀬君に抱きついたまま、眠ってしまった――。


 ……そうだった。そうだった。思い出した。

「思い出したか?」
「あ〜、もう、マジで本当にごめん!! 昨日は本当に、本当に、ご迷惑をおかけしました」
 俺はその場で土下座をして謝った。

「ハハハッ。あ〜、おもしれ〜。いじりがいがあるわ」
 そう言って、僕の頭をポンと軽く叩いた。
「まぁ酒の失敗くらい誰でもあるだろう。次は気をつけろよ」
「うん。早瀬君って優しいね」
「そう?」
「うん。ありがとう」
 
 早瀬君が一瞬、戸惑ったような顔をした。
「ってか、やっぱり、でかいな服」
「あっうん」
「……肩出てる」
 そう言うと、早瀬君は肩のところのTシャツを摘んで元に戻した。
 
 ドキッとした。
 この人優しすぎる!

「早瀬君もゲイなの?」

「は?? なんでそうなるんだよ」

「いや、ごめん。優しすぎるから」
「え? 何? お前、人を下心で助けたと思ってんの?」
「いや……ごめん、失礼だったよね」
「そうだな。言っとくけど、俺はゲイではない」

「そっか、残念だな」

「……お前なぁ」

「あっ、ごめん。なんか、心の声が出ちゃった」

 それを聞いて、早瀬君は爆笑していた。

「そ言えば、お前、美大なの?」
「うん。どうして?」
「いや、昨日、美大まで行ったのにって言ってたから」
「そっか……」
 そんなことまで言ってたんだ……。
 喉の奥が詰まって、涙が込み上げてくる。

「どうした? どうした?」
 早瀬君は慌てたように僕の顔を覗き込む。

「ごめん。僕、全然ダメなんだ。課題の提出物も遅れてて、もう、夏休みになっちゃった」
「……そっか。それであんな酔っ払ってたのか」
「……うん」
「そりゃ辛いわな」
「ぅっ……」
「まぁ、よく分かんね〜けど、別にサボってたわけじゃないんだろ?」
「でも、分からないんだ。光も……ぅぅっ、色までも、全部、もう分からなくなった……」
「そうか……それは何か掴みたいものがあるんじゃねぇの? まぁ絵はよくわかんねぇけど」
「……やっぱり早瀬君、優しいね」

「まぁ、俺も芝居やるから、少しは分かるよ。そう言うつれぇ気持ち?」

「早瀬君演劇やってるの?」

「まあ。でも俺も全然ダメだけどな……」
「……ありがとう早瀬君」
 また涙が零れた。

「てか、お前ってすぐ泣く人?」

「うん。多分」

「まぁある意味羨ましいな」

「そうなの?」

「俺は、中々泣けね〜んだよなっ。役者なのになっ」

 そいって笑って、タバコの箱を僕に見せた。
「……吸っていい?」

「あっうん」
 
 早瀬君はライターで火を灯した。
 青白くて、赤い火が立ち上がり、そこにタバコを咥えた早瀬君が近づいて、息を思いっきり吸った。
 タバコの香りが部屋に広がった。
 ふわふわと煙が上がる。彼がフーッと口から煙を出した。
 くるくると煙が前へ向かったかと思うとスッと消えた。

 タバコを吸う早瀬君の横顔が少し寂しそうに見えた。

 煙が細かい粒子を帯びて上へ上へとくるくると昇って消えていく。
 その姿をぼんやりと見ると段々切ない気持ちが込み上げてきた。

 誰にも触られず消えていく、その行き先のない儚さがどこか自分と似ているように思えた。
  
 ――何故だろう。虚しくて苦しい。

「じゃぁ、夏休みって今日から?」
「……うん。そう。早瀬君のところも?」
「そう。ん〜。じゃぁさぁ連絡先、交換しとくか?」
「え?」
「また同じことあるかも知れね〜じゃん」
「うん……でも」
「まぁ、誰も呼ぶ奴いなかったら、呼べよ。いつでも行けるわけじゃね〜けど」
「え? いいの?」
「いや、いつでも呼ぶなよ」
「……うん」

 そして、僕たちは連絡先を交換した。
 あ〜、やばい。この人、これが自然なの? 甘えたくなっちゃうじゃん。

「でも、自分の体、あんまり痛めつけんなよ」
「うん……」
 
 そう返事をすると、僕はまた涙を流した。
 なんでこんなに切なくなるのだろう。
 彼の一言、一言が何故か胸に突き刺さる。
 
 早瀬君が笑いながら、僕の頭を撫でて覗き込んだ。
 この人距離感バグってる……。
 何度も頭を撫でてくる早瀬君に僕の顔が熱くなるのが分かる。

「ゲイで芸術家の寺嶋君。うん。覚えておこう」
 
 僕はおかしくなって、笑った。早瀬君も笑っていた。
 心がちょっと温かくなってそして、ドキドキした。
 こんないい人が、同じ店にいたなんて、知らなかった。

「さぁ、そろそろ、服乾いたかな〜?」

 そう言うと、早瀬君はベランダに洗濯物を見に行った。
 窓から差し込む日差しが、彼の輪郭をぼかす。
 ……まぶしい。
 逆光で早瀬君の顔が影に沈み、一瞬だけ胸がヒヤッとした。
 怖い――。
 僕は慌てて光の元へ目を向けた。
 太陽の光が窓の隙間から伸びている。

「乾いてそうだな。ほい」
 早瀬君が僕に洗濯物をヒョイっと投げた。
「ありがとう。着替えてくるね」
 その一瞬だけ、彼の眼差しがふわっと揺れて見えた。
 照れたような、でもどこか困ったような。
 
 あっ、やばい。この人、好きになってしまいそう……。
 
 僕はそのまま服を持ってトイレに行った。
 一人だけを好きにはならないと、ずっと決めていたのに。
 何故か、胸の奥がじわっと熱くなった。



 それから、僕は自宅へ帰った。

 部屋はしんと静まり返っていて、角には、白紙のキャンバスを入れたキャンバスバッグ。
 その横で、絵の具と筆が突っ込まれたキャリーバッグが無造作に置かれている。 

 カーテンの隙間から、少しだけ、夕暮れの光が放射して天井に影を作っている。
 その光に早瀬君の顔を思い出した。
 胸の奥がキュッと縮む。
 
 ……寂しいな。
 
 結局その孤独に耐えられなくなって、僕は逃げるようにまた街に出た。
 
 そして、適当なやつと寝た。

 僕は誰とでも出来る。
 そのときだけ触れてくれる人がいれば、それでいい。
 誰かが触れてくれると、僕は消えなくてもいいと思える。
 
 特別な人なんていらない。
 その方が、色々考えて不安にならなくて済むから。 

 知らない人の腕の中で朝を迎えて、僕は一人ホテルを出た。
 
 夜の気配を少しずつ剝がしながら、街は薄青い光を取り戻しはじめていた。
 
 家に向かう途中で、携帯に通知が入っているのに気づいた。
 早瀬君だった。

 ――無事家についてる?

 たった一言なのに、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。

 僕、自分のことしか考えてない。
 あの後、ちゃんとお礼の連絡すらしなかった。
 
 本当に僕はダメなやつだ……。

 慌てて謝りのメッセージを入れる。

 何かがこみ上げてきて、自分でもよく分からない感情に目の奥が熱くなった。

 今日はバイトだ。
 もし会えたら、ちゃんと謝ろう。

 朝の街は、だんだんと人が増え始めていた。
 今日一日の始まりが、世界中に広がっていくようだった。