美術館前の天使像の横に、今日もその青年は立っていた。
 いつものように所在なさげにブロンズの台座によりかかりながら。
 朝の光を受けて、ふわりとウェーブした髪は栗色に光り、彼の横でかしずいている少年天使のそれによく似ていた。
 白いシャツにジーンズ、大きなくりっとした目は時折人の流れを追いかける以外は、疲れたように伏せられていた。

 通勤途中の人の波の中でなぜか、彼の周りだけ時間がゆっくり過ぎているように感じ、初めて見たとき少しハッとした。
 いつもは会社へと急ぐ足を止めずに行き過ぎてしまうのだが今日は違う。
 小学校5年生の時以来のズル休みをした。
 家は出たものの、あてもなくフラフラとここへ来てしまったのだ。

 見るともなく彼を見ていると、携帯を取り出したポケットから白いカードがひらりと落ちた。
 ゆるい風に乗ってそれは吸い寄せられるように私の足元まで来て止まった。
 彼は全く気づいていない。

「何だろう。ポイントカードかな」

 二つ折りになった白いそのカードを拾い上げ、何気なく開いて私は一瞬息を呑んだ。

《サワダ ケイイチ 10.3 PM10:00》

 ボールペンで走り書きしたような文字でそう書かれていた。

 その名は正に今日、私を憂鬱にさせている張本人。会社の上司、沢田課長の名だった。

 しつこいセクハラ。そしてそれを上司に報告したために受けた陰湿な嫌がらせ。
 数日前から私の課は、沢田が流したありもしない噂で持ちきりだ。

 今朝は会社に行く気力もなくなり仮病を使った。
 自分が負けたような情けなさでじっとしていられなくなり、こうやって彷徨っているのだ。

 その忌まわしい名が、ここに書いてある。
 ただの同姓同名だとは思ったが、何ともいえない不快感を覚えながら、私はそのカードの落とし主に近づいた。

「これ……落としましたよ」

 ハッとしたように顔をあげて私を見た彼は、さっきとは別人のように愛嬌のある笑顔を浮かべた。

「ありがとう、なくすと大変だったよ」

 男の人にしては形の良いきれいな手でカードを受け取ると、少し慌てたようにうしろポケットに入れ、「美術館に行くの?」と、人 なつっこく聞いてきた。

「え? ええ、そう」
 そんな気などないのだが、慌ててそう答えた。

「今日はね、臨時休館なんだって」

「……あ」

 ちょっといたずらっぽく笑ったかと思うとその人は、「じゃぁ」と言って少し急ぐように人の流れの中に消えていってしまった。
 誰かと待ち合わせじゃなかったのだろうか。
 ぽつんと取り残されたブロンズ像の少年の目が、さっきのイタズラっぽく笑った目にやけに似ている。

「あなたなの?」
 言ってみてバカバカしくて笑った。心が現実逃避しようとしている。

 落ち着こう。せっかく休んだんだ。あんな上司の名前も顔も、思い出すのなんてやめよう。
 私は青年が消えた人混みを見つめながら、ひとつ深呼吸した。


 次の日の朝、出勤しようかどうしようか迷いながら開いたスマホにメールの着信があった。会社からだ。
《沢田圭一課長が昨夜お亡くなりになりました。葬儀、並びに今後の業務についてお知らせ致します》

 スマホが手から滑り落ちた。もうその先は読めない。

 リビングのTVではローカル局のアナウンサーが抑揚のない声で朝のニュースを読み上げている。

『昨夜遅く発見された沢田さんの遺体には不審な点も多く、警察では自殺、他殺の両面から捜査を進めるもようです。なお、死亡推定時刻は3日午後10時頃と見られており―――――』

 昨日の白いカードの感触がまだ手に残っている。

《サワダ ケイイチ 10.3 PM10:00》

 ひとつ大きく息を吸い込んだあと、私は会社に病欠の電話を入れた。
 今日は行かなきゃいけないところがある。

 もう一度あの人に会いたい。


   ***


 突き抜けるような秋の空。昨日と同じゆるやかな朝。
 そして昨日と同じ場所に、彼は立っていた。

 黒のジャケット、少し細身のジーンズ。
 右手はジーンズのポケットに軽くかけ、じっと手帳の様な物を見入っている。

 私は彼に何を言いに来たのだろう。
 とにかく会わなきゃならないような気がしていた。その先は分からない。
 いや、この脳内のバカバカしい想像を笑って欲しかったのかもしれない。
 たぶん。
 きっとそうだ。

「あの……」
 ゆっくりと彼に近づいた。

 彼は驚くでもなく、予測していたかのように首をゆっくり上げて私を見た。
 やけに気だるい感じが昨日と違う人のようでドキリとした。

「ああ、きのうの……」
 ため息のように笑うと、言葉に詰まっている私にゆっくり近づいて、小さな子供に話しかけるように言った。

「喪服、急いで用意しなきゃ、ね」

 背筋に冷水を浴びたような衝撃を感じて息を飲み顔を見上げた瞬間、ブロンズ像の天使が太陽を反射し、眩しくて思わず目をぎゅっと閉じた。

「やっぱり課長を……?」

 自分でも驚くほど大きな声が出た。

「静かに」
 近寄ってきた彼にふいに左手首に触れられ、私は恐怖から闇雲に両手を振り回した。
 彼の持っていた手帳が地面に落ちる音が響く。一瞬の静寂。
 ハッとして彼の顔を見上げた。
 逆光なのにその大きな瞳だけキラリと光る。

 口元だけでニヤリと笑うと、彼は手首を掴んだまま美術館の植え込みとモニュメントの間の、人目に付かない場所に私を連れて行った。そして少し背を屈めると、だだをこねる幼児を諭すように、静かに言った。

「どうして驚くの? 君が望んだんだよ?」

 昨日の笑顔とは明らかに違う笑顔だった。
 手首を掴んだ力は振り払えるほど弱かったが、体が思うように動かない。

「私が? なんで? いつよ!」

「君が拾ってくれたカードに書いてあったもの」

「だっ……だって、あれはあなたのものでしょ?」

「君が手に取るまで白紙だった」

「……え?」

 訳がわからない。

「そういうカードなんだよ。君が僕に依頼したんだ。でもあんなにハッキリ文字が読みとれたのは初めてだな。びっくりしたよ。辛かったんだね。だから仕事も早めにしてあげた。どう? 完璧だったでしょ?」

 ここにいてはダメだ。この人のそばにいたらダメだ。この人は危険。

「ごめん、わたし」

 ゆるく掴まれていた手を乱暴に振りほどき、私は一歩、体を退いた。

「帰っちゃ困るよ。仕事はギブアンドテイクだ」

 その顔から一瞬すべての笑みが消えた。

「何言ってるの?」

「ギブ&テイクだって言ってんだよ。君は何をくれるの?」

「……っ」

 黒い羽根だ。
 カサカサと音を立てて頭上から舞い落ちてくる。
 さっきまでの木漏れ日を覆い隠そうと、幾重にも重なりながら。
 悪夢を見ているんだろうか。
 きっと何処かで道を誤り、絶対に入り込んでは行けない場所に迷い込んでしまったんだ。
 私はきつく目を閉じ、両手で顔を覆った。

 ――君は僕に何をくれるの?

 あれに見合う対価とはなんだろう。
 私にそんなものが払えるのか。 
 お金? 体? それとも魂――。
 

 どれくらいそうしていただろう。
 静寂を突き破り、不意に少し高い位置から「クックックッ」っという、いかにも堪えきれないというような笑い声がする。

 恐る恐る目を開けるとそこには、思いがけず笑顔があった。まるで子供のように邪気のない笑顔だ。

「え……」

 カサカサーー。私の頭に乾いた音が触れてくる。
 舞い落ちてくるのは黄色く色づいた街路樹の葉だった。

「ごめん。……本当にごめん」

 両手でお腹を抱くようにして背を丸め、彼は可笑しそうに笑っている。

「だってさあ、君が声をかけてきた時、なんて言うかわかったんだもん。昨日君、あのカードに書いてあった名前見てたでしょ?」

 ぽかんとしている私を見て彼は更におかしそうに笑う。

「あれは僕の知り合いの名前だよ。会う約束の日時をメモしてただけなんだ。すぐ忘れちゃうんでね。今朝ニュース見てびっくりしたよ。同姓同名の人が殺されてたから。写真出てたからすぐに別人だってわかったけど。被害者なのに悪そうな顔だなあって思いながら見てたんだ」

 そこまでおかしそうに笑ってたが、急に何かに気付いたようにしゅんとした。
 「ごめん、課長さんなんだね。君の上司が亡くなったっていうのに……不謹慎だった」

 まとまらない思考の中で彼の顔をじっと見た。
 くるくるとよく動く特徴のある目に涙が浮かんでる。
 この人、涙出るくらい笑ってたんだ。あの憎らしい課長の死を材料にして。

「ううん、いいのよ」
 ――ぜんぜん、全く、問題ない。

 思考はまだ戻ってきていない。
 でもなんだろう、この、込み上げてくる奇妙な感情は。

 まだ見尻に涙を浮かべてじっと私を見ているその顔と、自分の言った「いいのよ」という背徳感に満ちた言葉がやけに可笑しくて私は笑ってしまった。

「そうか、そうよね。バカみたいね」

 笑いが止まらなかった。
 それにつられて彼もまたクスクスと笑った。

「僕さあ、昔芝居やっててね。ちょっとイタズラしたかったんだ。それだけ。本当にごめんね。手、痛くなかった?」

 心配そうに身を屈めた彼の胸元に、キラリと光るネックレスが見えた。とても綺麗だった。
 シルバーの十字架が空の色を映して鈍く輝いている。

「だいじょうぶです……あの、あなたは――」

「ああ、もうこんな時間。ごめんね、用事が残ってる。行かなきゃ」

 腕時計に目をやりながら、慌てた素振りで言う。
 彼の周りで進むのをサボっていた時間がやっと流れ出したように感じた。

 私は初めて落ち着いて彼のことを見上げてみた。
 笑うと本当に少年のようだ。
 じっと目を見つめたからだろうか、彼はとまどうように一瞬目を伏せた。

「それじゃ」

 かわいい、と言ってもいいほど邪気のない笑顔で手を振る。
 私もつられて手を振りかえした。
 くるりと背を向け、足早に歩いていく後ろ姿を見送りながら、私はなぜかすっきりした気持ちになっていた。

 あんな悪戯を仕掛けられたと言うのに。
 ただ、自分の馬鹿さ加減がおかしくて仕方なかった。
 彼の事をいったい何だと思っていたのか。

 フッと息を漏らして目を上げる。空の青がとてもきれいだった。
 帰って喪服の用意でもしなきゃ。

 ――え? 

 その瞬間、体を何かが突き抜けたような感覚に襲われた。

「違う」

 私はとっさに彼が去っていった方向を振り返った。
 もうどこにも姿はない。

 ちがう、そうじゃない。あの人はさっき私に先ず、こう言った。

『喪服、急いで用意しなきゃ、ね』

 変死した沢田が私の知り合いであるなんて、あの人が知るわけない。

 麻痺していた思考がようやく回り始めた。
 私が「課長」という言葉を出したのはその後だ。

 急速に巡る思考の合間に白と黒の羽根が絡み合う。

 彼を初めて見た日からさっき手を振ったところまでの記憶が、一瞬にして脳裏をかけめぐり、バラバラだったパズルが像を結びかけ、また砕けていく。
 眩暈がした。

 立ちつくす私の目の前で片膝立ててかしずく少年像がキラリと光る。
 毎日見ているのに懐かしい感じのするそのブロンズ像に、今一瞬呼ばれたような気がしてふらりと近寄ってみた。

「ああ、……これ」
 台座に小さく作品名が彫ってあった。

『審判を待つ悪魔』

「あなた、悪魔だったんだ」
 よく見ると翼の形が尖っていて、天使のものと少し違う。
 うつむいて神妙にしている少年と、さっきの青年の顔が重なって見えた。

 不思議なことに、また可笑しさがこみ上げてきた。
 背徳感に満ちた、不健全な笑いなのがわかる。
 でもそんなことどうだっていい。

「ねえ、次に会った時は、何をあげればいい? あなたが望むもの、ちゃんと差し出すから」
 だから、ここでまた会いましょう。

 私は思いきり手を伸ばして その冷たい頬をそっと撫でた。

   ◇ ◇ ◇

 薄暗い間接照明の部屋の隅の革張りのソファーに、二人の男は向かい合う形で座っていた。
 細っそりとした20代半ばの青年と、頬からアゴにかけて濃い髭を生やしている40くらいの男。
 髭の男は青年とは対照的に、がっしりと肩幅が広い。

 テーブルに置かれた琥珀色のグラスをじっと見つめたまま押し黙っている青年に、何本めかのタバコを灰皿に押しつけながら、髭の男が話しかけた。

「凡ミスだな」

「ひどいな。誰のせいだよ」

 青年は感情を隠しもせず、ムッとした表情で正面に座る男を見た。
 髭の男は立ち上がり、備え付けのオーディオのラジオを付ける。
 やわらかなジャズが流れ出すと、男は青年を振り返った。

「ま、確かに俺も悪かった。ちょっとだけな」
 そう言ってクスリと笑って見せた。

 青年は悪びれもせず笑う髭の男に不満をぶつける。
「いつ僕のポケットに入れたんだよ。指令のメモ」

「いや、お前よく寝てたからさあ。起きたら説明しようと思ってたんだ」

「信じらんない。何年この仕事やってんだよ」
 青年はわざと大きく溜息をつく。まるで親子喧嘩か兄弟喧嘩のようなやり取りだ。

「――危なかったな」
 改めて髭の男は重い口調で言った。
 陽気だったジャズのナンバーが終わり、静かなブルース調のメロディに代わる。

 青年はこくんと小さく頷き、視線を窓の外の夜景に逃がした。
 緩くウエーブした髪の毛を左手でかき上げる。

「けどその女、本当に大丈夫だったんだろうな。お前のこと怪しんで無かったか?」

 少しばかり険しい口調で髭面が言うと、ピクッとして青年は顔を上げた。
「うん、大丈夫」

 前屈みに膝に肘をつき、すらりとした指を組んで軽く顎をのせる。
 思案しているときの癖だ。本人はそれに気づいていない。

「僕もちょっとしゃべりすぎたけど、うまく誤魔化せたと思うよ」

「ならいいが。よりによってその女が、ターゲットの部下だったなんてな。冷や汗もんだよ」

「うん。彼女がカードを見たときの表情ですぐに分かった。近しい知り合いだなって」

「仕事が終わった後で少し調べたらその女、ターゲットの沢田にかなりいびられてた子だった……ってオチ」

 髭面の男は、それには何も反応してこない青年の方に身を乗り出して近づく。

「だが安心できないぞ。不審死だと睨んだのなら警察はその女にも接触してくるはずだ。もしあの女がお前について、うっかり何か漏らす気配があったら、そん時は……」

 大きな二重の目をキッと見開き、青年が髭面を睨みつけた。

「落ち度があったのはこっちだ。制裁なら僕が受ける。彼女に手を出すなら、あなただって許さない」

 今にも掴みかかりそうな勢いに、一瞬髭面は身を引く。

「俺じゃないよ。本部の奴らだ。落ち着けよ」

 青年が苦し気な視線を投げて来た。男はため息を漏らす。

「そういうルールだって。それだけ頭にたたき込んどけって事だよ。そんな目で睨むなよ、俺を」

 力が抜けたように青年は目を伏せてソファーに沈み込んだ。
 その様子を見ながら髭面は優しげに笑った。

「そう凹むな。今回のことはバレやしないさ。連中だって四六時中俺らを監視してるわけじゃない。これから気を付けような、お互いに。あ、それからな、(よう)。ちょっと話したくらいで、その土地の女に惚れるなよ。めんどくせーから」

「だれが!」
「顔が赤いし」
坂木(さかき)さん!」

 青年をからかいながらしばらく笑っていた髭面は、息を吐き出すとやおら真顔になりトーンを変えて静かに言った。

「もう二度とこの街には戻らないから。そのつもりで」

「うん、……わかってる」

 さっき殴りかかりそうだった人物とは思えない、まるで幼い少年のような口調で青年はぽつりと言う。
 そんな相棒をじっと見つめながら髭面は、疼くような胸の痛みを深呼吸と共に紛らわした。

 グラスのウィスキーを一気に飲み干す。

「よし。じゃ、行くぞ!」

 髭面は手をのばして向かいの青年の柔らかい髪をくしゃくしゃっと撫でた。

「行くってもう?……今度はどこへ?」

 髭面は小さく笑う。

「まだ教えないよ。俺たちはいつだってそうだろ?」