***
僕はそのあと、風見真宙と名乗ったその人と、一緒に帰路につくことになった。帰路につくと言っても、だいぶ歩いてきてしまったので、戻るにもそれなりに時間がかかる。河川敷をあとにしたとき、時刻はすでに午前五時半を回っていた。
真宙さんは大学三年生で、僕よりも三つ年上だった。市内の大学に通うのに、祖父であるヒデさんの家からだと、通学の便がいいので、居候しているらしい。移ってきたのは二年ほど前だというが、僕は一度も彼の顔を見たことがなかった。どうやら、僕が寮生活になったタイミングと、ちょうど同時期だったので、すれ違いになっていたようだった。
「お正月もほとんど帰ってきてなくない? お母さん、心配してたよ」
「そうですか……」
ヒデさんと僕の祖父は同級生で、昔から仲がいい。そのせいで家族ぐるみの付き合いがあるのだが、母がすでに真宙さんにまで余計な話をしていたのかと思うと、それにはちょっとうんざりさせられた。母は口が軽いのだ。
「その、すみません……。部活が忙しくて……」
本当はたいして忙しいわけでもなかったが、言い訳にするのに、ちょっとだけ嘘を吐く。すると、真宙さんは言った。
「部活かぁ。なにやってるの?」
「えっと……、バド部です。マネージャーですけど」
「マネなの? すごいなぁ」
僕は驚き――だが、すぐに眉をしかめる。僕は選手ではなく、マネージャーだ。それなのに、どうしてすごいと思っているのか、理解できなかった。
「すごくないですよ。マネなんで、べつに大会に出るわけじゃないですから……」
「いや、選手もそりゃあ、すごいと思うけどさ。マネージャーって部とか部員のために、駆けずり回ってサポートしたり、運営したりするわけでしょ。あれじゃん、縁の下の力持ち的なやつ」
「よく言えばそうですね……」
「それって誰でもできることじゃなくない? 自分じゃなくて、他人の面倒みて回るって、すごいことだと思うけどなぁ。かっこいいよ」
真宙さんがそう言って、ゴミ袋を反対側の手に持ち変えた。隣に並んだ僕との距離が少し近くなる。真宙さんは続けて話した。
「でも、もう高三ってことは引退したんだね。お疲れさま」
「どうも……」
「あとは受験かぁ。もう進路決めた?」
受験。進路。その言葉を聞いた途端、胸がドキッとした。なにを動揺することがあるのだろう。彼の言ったそれは、ただ、雑談の中の何気ない話題に過ぎないというのに、僕はなるべく見ないように、考えないようにしていたそれを思い出して、ずーんと頭が重くなるのを感じていた。だが、それを今さっき、知り合ったばかりの人に話せるはずもない。
「いや、まだ。これからです」
「これからかぁ、楽しみだねぇ。俺も散々迷ったもんなぁ、懐かしいわー」
「へえ……」
「農業やりたいってのだけは決まってたんだけど、大学ってなにを基準に決めたらいいのか、全然わかんなくってさぁ」
「農業……」
「うん、そう。かっこよくない? 第一次産業って!」
へらっと笑った真宙さんがそう言ったとき。僕たちはちょうど、骨董屋「カザミ」の前まで来ていた。絶妙なタイミングだった。ここで話を終わらせてしまうのは簡単で、「じゃあ、また」と家へ入ってしまえば、余計なことを話さずに済んだのだが、真宙さんの言った「農業」という言葉に、僕は思わず興味を持ってしまった。同時に、夢も目標も見失っている僕とは違って、高三の頃にはすでに夢を持ち、追いかけていた彼が、農業を仕事にするために大学へ通っている彼が、猛烈に羨ましくなった。
「じゃあ、真宙さんは農学部に通ってるんですか」
「ううん。俺、千葉北農大なんだ」
「へえ……。農大か……」
「あのね、葵くん。実は俺――」
「羨ましいです。真宙さんには素敵な夢があって」
「あぁ、うん……」
真宙さんがなにか言おうとしたことには気付いたが、僕はそれを遮った。農業をやる。そんな夢を、当然のように追っている真宙さんが眩しく見えて、心の底から羨ましくてたまらなくて、少しだけ嫉妬したのだ。ただし、今の言い方はさすがに少し感じが悪かったかもしれない。気まずそうにしている真宙さんを見て、僕はそう思い直した。
「真宙さんも、あれですか……。大学決めるときは、けっこう迷ったんですか」
会話を仕切り直すように、そう訊ねると、真宙さんはハッとしたような表情をする。
「……葵くん、なんか迷ってんだ?」
「なんで、わかるんですか?」
「だって今、真宙さんも、って言ったからさ」
「あ――……」
言われて、余計なことを言ってしまった自分に気付く。「しまった」と思ったが、もう遅かった。こんなに明るくて、あっけらかんとしている人でも、高三のとき、進路を決めるのには散々迷っていた事実を知れば、どうやって決断したのか、無性に気になる。そもそも、農業をやりたいというくらいだから、彼は花や植物が好きなのだろう。それで、余計に親近感と興味を持ってしまったわけだが、それにしてもひどく面倒な聞き方をしてしまった。今の会話じゃ、まるで「僕は今、あなたと違って、夢も希望もなくて迷っているんです」と、暗にアピールしているようなものだ。
「迷ってるってほどではないんで、大丈夫です。気にしないでください」
咄嗟にそう言って取り繕っても、真宙さんには通用しない。真宙さんは、店の裏口辺りにゴミ袋を放ると、僕の手を取って言った。
「嘘だねー」
「え……」
「ねぇ、お腹すいたでしょ。うちで朝ごはん食べていきなよ」
「いや、ちょっと……」
朝ごはんを食べるほど、僕は真宙さんと仲良くなったつもりはなかったし、心を開いたつもりもなかった。もっと言えば、これから仲良くなるつもりもなかった。けれど、振り払おうとしても、真宙さんは手を離してくれない。
「いいから、いいから」
「ちょっと……、放してくださいよ!」
僕はなかば引きずられるようにして、彼に手を引かれ、骨董屋「カザミ」に連行され、そこで朝ごはんを振舞われることになった。真宙さんとの関係はこのときから急激に近づいたと、僕は記憶している。
僕はそのあと、風見真宙と名乗ったその人と、一緒に帰路につくことになった。帰路につくと言っても、だいぶ歩いてきてしまったので、戻るにもそれなりに時間がかかる。河川敷をあとにしたとき、時刻はすでに午前五時半を回っていた。
真宙さんは大学三年生で、僕よりも三つ年上だった。市内の大学に通うのに、祖父であるヒデさんの家からだと、通学の便がいいので、居候しているらしい。移ってきたのは二年ほど前だというが、僕は一度も彼の顔を見たことがなかった。どうやら、僕が寮生活になったタイミングと、ちょうど同時期だったので、すれ違いになっていたようだった。
「お正月もほとんど帰ってきてなくない? お母さん、心配してたよ」
「そうですか……」
ヒデさんと僕の祖父は同級生で、昔から仲がいい。そのせいで家族ぐるみの付き合いがあるのだが、母がすでに真宙さんにまで余計な話をしていたのかと思うと、それにはちょっとうんざりさせられた。母は口が軽いのだ。
「その、すみません……。部活が忙しくて……」
本当はたいして忙しいわけでもなかったが、言い訳にするのに、ちょっとだけ嘘を吐く。すると、真宙さんは言った。
「部活かぁ。なにやってるの?」
「えっと……、バド部です。マネージャーですけど」
「マネなの? すごいなぁ」
僕は驚き――だが、すぐに眉をしかめる。僕は選手ではなく、マネージャーだ。それなのに、どうしてすごいと思っているのか、理解できなかった。
「すごくないですよ。マネなんで、べつに大会に出るわけじゃないですから……」
「いや、選手もそりゃあ、すごいと思うけどさ。マネージャーって部とか部員のために、駆けずり回ってサポートしたり、運営したりするわけでしょ。あれじゃん、縁の下の力持ち的なやつ」
「よく言えばそうですね……」
「それって誰でもできることじゃなくない? 自分じゃなくて、他人の面倒みて回るって、すごいことだと思うけどなぁ。かっこいいよ」
真宙さんがそう言って、ゴミ袋を反対側の手に持ち変えた。隣に並んだ僕との距離が少し近くなる。真宙さんは続けて話した。
「でも、もう高三ってことは引退したんだね。お疲れさま」
「どうも……」
「あとは受験かぁ。もう進路決めた?」
受験。進路。その言葉を聞いた途端、胸がドキッとした。なにを動揺することがあるのだろう。彼の言ったそれは、ただ、雑談の中の何気ない話題に過ぎないというのに、僕はなるべく見ないように、考えないようにしていたそれを思い出して、ずーんと頭が重くなるのを感じていた。だが、それを今さっき、知り合ったばかりの人に話せるはずもない。
「いや、まだ。これからです」
「これからかぁ、楽しみだねぇ。俺も散々迷ったもんなぁ、懐かしいわー」
「へえ……」
「農業やりたいってのだけは決まってたんだけど、大学ってなにを基準に決めたらいいのか、全然わかんなくってさぁ」
「農業……」
「うん、そう。かっこよくない? 第一次産業って!」
へらっと笑った真宙さんがそう言ったとき。僕たちはちょうど、骨董屋「カザミ」の前まで来ていた。絶妙なタイミングだった。ここで話を終わらせてしまうのは簡単で、「じゃあ、また」と家へ入ってしまえば、余計なことを話さずに済んだのだが、真宙さんの言った「農業」という言葉に、僕は思わず興味を持ってしまった。同時に、夢も目標も見失っている僕とは違って、高三の頃にはすでに夢を持ち、追いかけていた彼が、農業を仕事にするために大学へ通っている彼が、猛烈に羨ましくなった。
「じゃあ、真宙さんは農学部に通ってるんですか」
「ううん。俺、千葉北農大なんだ」
「へえ……。農大か……」
「あのね、葵くん。実は俺――」
「羨ましいです。真宙さんには素敵な夢があって」
「あぁ、うん……」
真宙さんがなにか言おうとしたことには気付いたが、僕はそれを遮った。農業をやる。そんな夢を、当然のように追っている真宙さんが眩しく見えて、心の底から羨ましくてたまらなくて、少しだけ嫉妬したのだ。ただし、今の言い方はさすがに少し感じが悪かったかもしれない。気まずそうにしている真宙さんを見て、僕はそう思い直した。
「真宙さんも、あれですか……。大学決めるときは、けっこう迷ったんですか」
会話を仕切り直すように、そう訊ねると、真宙さんはハッとしたような表情をする。
「……葵くん、なんか迷ってんだ?」
「なんで、わかるんですか?」
「だって今、真宙さんも、って言ったからさ」
「あ――……」
言われて、余計なことを言ってしまった自分に気付く。「しまった」と思ったが、もう遅かった。こんなに明るくて、あっけらかんとしている人でも、高三のとき、進路を決めるのには散々迷っていた事実を知れば、どうやって決断したのか、無性に気になる。そもそも、農業をやりたいというくらいだから、彼は花や植物が好きなのだろう。それで、余計に親近感と興味を持ってしまったわけだが、それにしてもひどく面倒な聞き方をしてしまった。今の会話じゃ、まるで「僕は今、あなたと違って、夢も希望もなくて迷っているんです」と、暗にアピールしているようなものだ。
「迷ってるってほどではないんで、大丈夫です。気にしないでください」
咄嗟にそう言って取り繕っても、真宙さんには通用しない。真宙さんは、店の裏口辺りにゴミ袋を放ると、僕の手を取って言った。
「嘘だねー」
「え……」
「ねぇ、お腹すいたでしょ。うちで朝ごはん食べていきなよ」
「いや、ちょっと……」
朝ごはんを食べるほど、僕は真宙さんと仲良くなったつもりはなかったし、心を開いたつもりもなかった。もっと言えば、これから仲良くなるつもりもなかった。けれど、振り払おうとしても、真宙さんは手を離してくれない。
「いいから、いいから」
「ちょっと……、放してくださいよ!」
僕はなかば引きずられるようにして、彼に手を引かれ、骨董屋「カザミ」に連行され、そこで朝ごはんを振舞われることになった。真宙さんとの関係はこのときから急激に近づいたと、僕は記憶している。
