初恋どろぼうと青い夏

 もっと、もっとそうして……、触っててほしいな……。

 そのうちに僕はお喋りをやめた。ぽうっとしたまま寝転がり、真宙さんを見つめながら、彼の手の熱を感じていたのだ。真宙さんもそんな僕を眺めながら、ずっと手を繋いでいてくれて、親指で僕の手の甲を撫でてくれる。だが、やがて――。僕はだんだんと欲が出始める。

「真宙さん……」
「うん?」
「キスしたい……」

 僕のわがままを、真宙さんは快く受け入れてくれ、僕の唇は彼のそれによってふさがれる。触れるだけの優しいキスだ。柔らかな感触がそこに重なった瞬間に、僕の胸の奥はきゅうっと狭くなったように苦しくなる。けれど、唇が離れてしまうとなんだか寂しくてたまらなくて、僕ははじめて、自分から彼の唇をふさいだ。

 真宙さんは少し驚いていたようだ。それから、僕はいい気になって、何度も何度も、真宙さんにキスをした。回数を重ねていくたび、僕の体の中で、真宙さんへの感情が(ふく)らみ、熱を帯びるような感覚があって、それがたまらなく気持ちよかった。

 僕はその晩、真宙さんと数えきれないくらいのキスをした。それはもう、唇が()れるかもしれないと心配になるほどに。キスの合間に見た、真宙さんの表情はそれまで見たことがないほどに色っぽくて、キスが終わって、しばらくしてもまだ、僕の胸のドキドキは大人しくならなかった。

 そのひと晩で、僕は少しだけ大人になったような気がしている。これまで見たことがなかった真宙さんの表情を知ったし、自分から、欲のままに彼にキスをしたのだ。ただし、おかげでその晩、僕の体は全身が心臓になったみたいにドキドキしてしまって、深夜を過ぎても、なかなか眠りにつけなかった。


***


 その翌朝。僕は早朝のリバーコーミングに起きられなかった。初デートは、やや寝不足気味で(のぞ)むことになるはず――だったが、朝一番に河川敷から戻ってきた真宙さんに起こされ、「今日はドライブデートして、ひまわり畑に行こう」という提案を聞いた途端、僕の眠気は一瞬にして吹っ飛んでしまった。

 真宙さんはヒデさんに車を借りて、僕を県内にある、ひまわり畑へ連れていってくれたのだ。ひまわり畑でのデートは、前日の夜、僕が挙げた候補の中のひとつで、真宙さんはそれをちゃんと覚えていてくれた。ひまわりは、町の花屋でも切り花として様々な品種が流通するが、僕らが訪れたひまわり畑は、大人の背丈を優に超える大型の品種が植わっているところだった。

 ひまわり畑では、もう八月も終わるというのに、大きなひまわりたちがみんな同じ方向を向き、元気いっぱいで咲いていた。カンカン照りの太陽の下、その光景を前にすれば、当然、夏はまだまだ続くような気にもさせられる。だが――。

「だいぶ、日が短くなったね」

 夕方ごろ、真宙さんがそう言った。僕は初デートに浮かれているせいで、一日を短く感じていたのだと思っていたが、彼の言う通り、一日は確実に短くなっていたようだ。日の入りはだいぶ早まっていて、僕が帰省した頃と比べてみれば、その差は歴然。こんなに暑くても、やはり秋は来るのだと、僕らは話した。

「今度の秋はどうかなぁ……。台風なんかで、腐れ彼岸にならなきゃいいけど。去年は台風とドンピシャ当たっちゃって、大変だったんだよ」
「そうだったんだ……」

 真宙さんの言う「大変だった」というのは、おもに祖父の機嫌が悪かったせいだろう、と僕は想像する。秋の彼岸シーズンも、切り花業界にとっては繁忙期になるのだが、この秋の彼岸は腐れ彼岸と呼ばれることが多いらしい。ちょうどこの時季には、台風や秋雨前線が停滞することが多く、雨が降ると、切り花の売り上げが極端に落ちる。その関係で、市場に並ぶ花の値段もそれに合わせて暴落してしまうのだが、それを花の業界ではそう呼ぶのだそうだ。

「じいちゃんの機嫌、また悪くなったらごめん」
「大丈夫だよ。竜三さんはああ見えて、他人に当たるタイプじゃないから。ただ、改めて厳しい仕事だなってのは思うけどね」

 真宙さんがそう言って、また、僕の気は(はや)る。早く、僕も実家を手伝えるようになりたい。農大へ行って、しっかり勉強して、真宙さんと一緒に花農業をやりたい。真宙さんと一緒に、みんなの戦力になりたい。だが今、ここで焦ってみても仕方がない――と、僕は必死に自分に言い聞かせる。もどかしいけれど、ひとつ、ひとつだ。大丈夫。焦らなくたって、真宙さんはちゃんと僕を待っていてくれるのだから。

 僕は真っ赤な夕焼けの下、(はや)る気持ちを抑えようと深呼吸をした。真宙さんは、そんな僕の心の中を見透かすように顔を(のぞ)き込み、柔らかく微笑(ほほえ)んでいる。僕は言った。

「ねぇ、真宙さん。秋の連休にはまた帰ってくるから。待っててね」
「うん、待ってる。今から待ち遠しいなぁ」

 そう言って、真宙さんはひまわり畑の中で、僕の手をそっと握ってくれる。たちまち心臓の鼓動が高鳴ったが、僕は慌てて周囲を見回した。周囲には僕らのほかにもたくさんの観光客がいたからだ。

「真宙さん……」
「うん?」
「あの、人に……、見られちゃうよ」

 男同士のカップルなんて、きっと多くの人にとっては珍しいもので、笑われたり、からかわれたり、あるいは奇異的に見られたりもするかもしれない。僕はなにを言われてもかまわないが、真宙さんがそれで傷つくのは嫌だった。しかし、そんなことは、僕が心配するまでもなかったのかもしれない。真宙さんはまったく気にもしていない様子で言う。

「そうだね。じゃあ、あっちの方へ行こうか」

 真宙さんは僕の手を取ると、ひまわり畑の中を歩き、人がいない方へずんずん進んでいった。ひまわり畑は僕が思っていたよりもずっと広かったようだ。そもそもここは、「ひまわり迷路」とも呼ばれていて、背丈の高いひまわりたちのすき間には、入り組んだ迷路のように道が作られていた。そのせいで奥へ行けば行くほど、別次元の空間に迷い込んだような感覚になる。

 やがて、人の声が遠のいてきた辺りまで来て、真宙さんは立ち止まった。わがままになってしまった僕の心臓は、すでに期待に満ちて、高鳴りはじめている。

「よし。ここまで来れば大丈夫だ」

 そう言ったあと、僕の唇には柔らかな熱が重なった。触れるだけのキスだった。付き合ってからはもちろん、昨晩だって、もう数えきれないほどしているのに、たった一度、短いキスをされただけで、僕はたちまち恍惚(こうこつ)としてしまう。それなのに、真宙さんは追い打ちをかけるように「大好きだよ」なんて(ささや)くものだから、もうめまいでも起こしそうになる。

 いつの間に、こんなに()かれていたのだろう。恋のいろはも、まだよくわかっていないくせに、僕はこの人に恋をしていることだけは、はっきりとわかっている。ただし、言葉にするのはまだ少し恥ずかしい。彼のようにスマートにはなかなかできないから、僕は唇をふさがれていることを言い訳にしながら、心の中で必死で呟くのだ。

 僕も好き。大好きだよ、真宙さん……。

 夕日が落ちていくひまわり畑の中で、僕たちは何度もキスをした。どこからか、ヒグラシの鳴き声が聞こえている。どこか寂しげにも聞こえる、その鳴き声は、まるで僕らに夏の終わりを報せているかのようだ。けれど、もう少し。あと、もう少しだけ――と、僕は去る夏を引き留めるように、真宙さんの手をぎゅっと握り直した。