初恋どろぼうと青い夏

「早く卒業したいなぁ……」
「半年後には嫌でも卒業できるよ」
「そうだけど!」

 なにを言ってもさらっと返されて、僕は苛立(いらだ)ち、拾ったゴミを四十リットルのゴミ袋に投げ入れた。

「それまではいろいろ我慢しなくちゃいけないし……。あさってから真宙さんに会えなくなるのも嫌だよ」

 わがままにそう言うと、真宙さんはまた少し笑う。なんだか彼は、とても嬉しそうだった。

「いいねぇ。ずいぶんわがままになったじゃん」
「真宙さんがわがままになれって言ったんでしょ」
「そうだよ。いやぁ、いい傾向だ」

 そう言ったあと、真宙さんは僕に近づいてきた。僕が反射的に身構えると、彼の声は僕の耳元で、これまで聞いたことがないほど、甘く(ささや)いた。

「俺だって寂しいんだよ。だから、今夜誘ってるんだから」

 ゾクゾクッとするほど、甘くて穏やかな真宙さんの声が耳元で響いて、全身の神経にまで届いた心地がした。また、心臓が高鳴る。ただでさえ、小一時間のリバーコーミングのせいで、少し汗ばんでいた体なのに、さらに熱を持って、もう微熱でも出てきそうだ。そんな声で「誘ってる」なんて言われたら、僕は今夜、キスだけでは我慢できなくなるのではないか――と、ろくにわかってもいないその先を妄想して、ドキドキしてしまう。早朝の河川敷でこんな気分にさせられるなんて思いもしなかったが、僕だって男だ。真宙さんを男として、彼氏として、もっと知りたいと思う。

「じゃあ、会えなくなる前に……。真宙さんのこと、僕にもっと教えてよ……」

 そう言ったあと、真宙さんは一瞬、驚いたように目を見開いたが、なにを思ったのか、天を(あお)ぎ、目を(つぶ)る。それから「喜んで」と言って、柔らかく微笑(ほほえ)んだ。


***


 その朝、僕は帰ってからすぐにシャワーを浴びて、部屋に戻り、そわそわと作業場を気にした。今日は配達用の車が朝から車庫にあったので、祖父と父が家にいるようだった。母から聞いたところ、ふたりは今日、休みを取っているのだという。花の繁忙期は過ぎたので、市場も売り場もかなり落ち着いているようだったが、じきに秋の彼岸がやってくるので、それまでしっかり鋭気を養わなければならないそうだ。

 花農家の仕事は楽じゃない。祖父はなにも(おど)しでそう言っているのでないだろう。おそらくそれは、事実なのだと思う。祖父も父も、昔から気楽にやっているようには見えなかったし、自然を相手にするということが、どれほど大変なことかも、ある程度は見て知っている。だが、それでも僕にとって、綺麗な花を育て、必要な人のところへ届ける仕事は魅力的だった。

 僕は真宙さんの仕事が終わるまで、部屋で本を読んだり、テレビを観たりしながら退屈をしのぎ、一泊分の荷物を準備した。母には今夜、真宙さんの家に泊まる旨を朝のうちに話しておいたので、なにも問題はない。あとは真宙さんと一緒に彼の家へ向かうだけだ。

 夕方五時を回った頃、僕は荷物を持ち、玄関へ走る。そうして靴を履き、玄関の姿見で髪を整えた。出かける前に、姿見で自分の姿はおろか、髪なんかチェックしたこともなかったのに、変われば変わるものだ。

「ごめんくださ――」
「あっ、真宙さん!」
「おー、ちょうどよかった。終わったから、一緒に帰ろう」

 僕は頷いた。好きな人を前にして、心臓はすでに、トクトクトク……と高鳴り、体も火照(ほて)りはじめている。なんだか恥ずかしくて、だが、今夜から明日の夜まで、ずっと真宙さんと一緒にいられるということが嬉しくて、楽しみでたまらない。

「あぁ、真宙くん、お疲れさま。葵のことよろしくね」

 夕飯の支度の途中だったのだろう。母は真宙さんの声を聞きつけたのか、エプロン姿のままで玄関へやってきたが、その手になにか紙袋を持っている。どうやら、手土産のようだ。

「これね、少しなんだけど持っていって」

 母は紙袋を真宙さんに手渡し、真宙さんはそれの中を(のぞ)く。僕も一緒になって中を(のぞ)くと、そこに入っていたのは梨だった。傷ひとつない、まん丸の大きな実が二つ、紙袋の中に横に並んで入っている。

「あっ、梨だ」
「今日、白井にいる妹がケースで送ってきてくれたの。幸水だったかな?」
「ありがとうございます! 俺、梨大好きなんですよ。葵くん、夕飯のあとで一緒に食べようか」
「うん」

 梨は、千葉の名産品のひとつだ。夏の終わりから、秋にかけて出回る梨は、種類も豊富で、みずみずしくてとにかく甘い。品種によって、味の特徴はそれぞれ違うらしいが、白井の叔母が送ってきてくれる梨は決まっていつも幸水だった。それは、僕の昔からの好物でもあった。

 母に見送られて、僕は真宙さんと玄関を出る。だが、ちょうど門へ歩き出そうとした時だった。

「おい!」

 心浮かれていた僕を引き留める声があった。低くしゃがれた声。祖父だ。祖父はポケットに手を突っ込み、ガニ股で畑の方から歩いてやってくる。

「竜三さんだ」
「なんだろう……」

 僕は真宙さんと顔を見合わせた。あの大ゲンカ以来、僕と祖父はろくに会話をしていない。顔をまともに見るのもなんだか久しぶりな気がしたのに、大切なお泊まりデートの日にいったいなにを言われるのか、僕の思考はたちまちネガティブになり、自然と身構えた。

「なに、じいちゃん」
「どっか行くのか」
「うん。今日は真宙さんち泊まるんだ」
「遊んでばっかだな。宿題ちゃんとやったのか」
「もう終わってるよ。大丈夫」
「ふうん。ふたりとも、あんまり夜遊びすんなよ」

 そう言うと、祖父は玄関へ入っていってしまう。その後ろ姿を見送り、僕と真宙さんは再び顔を見合わせる。僕は正直なところ、とても驚いていた。

「竜三さん、やっぱまだ機嫌悪い感じ?」

 真宙さんに()かれて、僕はかぶりを振った。あれは機嫌が悪いんじゃない。よその人にはイマイチわかってもらえないかもしれないが、おそらく今のは、祖父なりの謝罪だった。祖父は「悪かったな」と、そう言っているのだ。