初恋どろぼうと青い夏

 花火のあと、互いに想いを打ち明けた僕と真宙さんは、「おやすみ」を言って、家に帰った。真宙さんが家に入ったとき、時刻は夜十時を回っていたが、ヒデさんはまだ帰宅していなかったらしい。母の話では、祖父の部屋はその晩、遅くまで明かりがついていたそうだから、きっとずいぶん晩酌が長引いたのだろう。

 僕はそれを聞いても、あまり気にしなかった。気になったのは、深酒をしたヒデさんと祖父の体のことだけで、祖父がどれだけ僕の愚痴を言っていたとしてもかまわなかった。祖父が僕をどう思っていても、僕の気持ちは変わらない。

 僕はこれまで、自分だけの世界に引きこもり、誰とも向き合おうとしていなかった。祖父の意見はあくまで祖父のもので、両親や祖母が同じわけではないのに、彼らと話す前に、きっとそうなんだと決めつけていた。だが、違ったのだ。僕が本音を打ち明けたことで、家族は僕の夢を応援してくれるようになったし、それが途方もない安心感をくれ、支えにもなった。

「これからは、もう少しわがままになっていいんじゃない? 葵くんはもう大人なんだから。そんなにいい子でいる必要はないよ」

 真宙さんはそう言ってくれた。真宙さんは、僕の初恋の人で、大先輩。そして今では、恋人だ。恋人になってから、僕たちの距離は当然だが、ぐっと近づいた。ただ、関係が変わったことは、家族には話していない。いつかそれも、打ち明ける日が来るのかもしれないが、僕らは同性愛なので、安易には話せない。当分は秘密の恋人だ。

 今日は八月二十八日。すっかり慣れてしまった朝四時のリバーコーミングは、僕にとってはデートのようなものになっている。――とはいえ、それにはムードはなく、僕も真宙さんも、田舎っぽい麦わら帽子にTシャツ、ジャージ姿。しかも、あいかわらず拾うのはゴミばかりで、レトロな雑貨品に巡り会うことはほとんどなかった。しかも、盆をとうに過ぎたというのに、いまだ暑い日は続いている。ただ、それでも僕は楽しかった。

 ちなみに、僕は真宙さんとどうしても離れがたくて、寮へ戻る日を予定よりも数日遅らせていた。学校は九月から始まるわけだが、夏休みの課題はもう終わっているし、寮へ戻っても、九月一日の始業式の準備くらいしか、やることはない。だから僕は、残された時間を全部、真宙さんに使うことにしたのだ。

 そうは言っても、真宙さんにだってバイトや予定がある。特にバイトのオフの日は三日に一度くらいしかやってこない。会える時間は有限だ。そこで、僕はわがままを言って、オフの日は早朝から夜遅くまで、彼と一緒に過ごした。バイトがある日も、庭先で真宙さんを待ち伏せして、夕飯のあとで、彼と会う約束を取りつけたりもした。だが、いくらそうしても、僕は物足りなかった。もっと真宙さんと一緒にいたいし、おしゃべりもたくさんしたかった。

「そうだ、葵くん。今夜、うちに泊まりにおいでよ。夕飯ごちそうするからさ」

 そんな僕の心を見抜いていたのだろうか。リバーコーミングからの帰り道、他愛ないおしゃべりの途中で、真宙さんが言った。途端に胸が高鳴りはじめる。まるで、ちょっとした思いつきで、友だちを誘うような口ぶりだが、僕らは今や恋人同士だ。夜を一緒に過ごせば、当然、ただのお泊まり会では済まなくなる。そんなことは経験の乏しい僕にだって容易に想像できた。

「真宙さんちに? いいの……?」
「いいよ」

 お泊まり会では済まなくなるのは、僕としても本望だ。まだ付き合いたてほやほやで、手を繋ぐのも、キスをするのもやっとだが、僕は真宙さんにもっと触れたいし、触ってもらいたい。抱きしめ合って、彼の温もりを思う存分に感じたり、ひと晩じゅうおしゃべりをして、じゃれ合ってもみたい。願ってもない誘いに、僕はこれまでにない期待と高揚感に(あお)られた。

「それってつまり、僕が真宙さんと同じ部屋で、寝ていいってことだよね?」

 自然と声が弾んでしまう。ちなみに、僕は恋人になった翌日から、真宙さんに敬語を使うのをやめた。これは彼の希望だった。

「もちろん。ただ、じいちゃんもいるから、あんまりムードはないけどね。俺、明日はオフだから、一日中一緒にいられるんだ。……そうだ、デートしよっか。お泊まりデート」
「お泊まりデート……」
「しばらく会えなくなっちゃうからさ」

 ところが、そんな真宙さんの言葉を聞いた途端、僕は急に寂しくなって、足を止めた。なるべく考えないようにしていたが、あさって、僕は寮へ戻らなければならない。丸一日、実家にいられるのは今日を含めてあと二日だ。ゆっくりできるのは、今夜しかない。

「葵くん?」

 急に立ち止まった僕を心配したのか、真宙さんが僕の顔を(うかが)う。僕は無理に笑みを作ってみせた。

「あぁ、大丈夫……。ごめん、しばらく会えないって思うと、ちょっと寂しくて」

 僕が答えると、真宙さんは「俺も」と返し、力なく笑った。仕方のないことだとしても、付き合ってまだ一週間ほどの僕たちにとって、物理的距離ができるのは本当に(こく)だった。

「毎日メッセするよ。俺はまだ、しばらく休みが続くからさ」
「いいなぁ。大学生は……」
「来年には、葵くんだって大学生じゃん」
「そうだけど……」

 再び歩き出し、口を尖らせる。僕はずっと決められなかった進路を、ようやく決めていた。真宙さんと同じ、千葉北農業大学へ進みたいのだ。真宙さんと同じ大学へ行きたい――という動機はやや不純かもしれないが、そこには僕が学びたい学部がちゃんとあったし、実家からも通いやすかった。もっと言えば、真宙さんと同じ大学に通い、しかも実家に戻れば、真宙さんとデートだってしやすくなる。まさに一石三鳥だ。そこを受けない理由はなかった。

「待ってるから。早くおいで」
「うん……」

 頷いた僕の頭を、真宙さんがくしゃっと撫でてくれて、思わず頬が(ゆる)んだ。これまでは、暗い(よど)みをぐるぐる漂っていたような感覚があったが、今は清々しい気分だ。暗い(よど)みを抜け出して、川の本流へ漕ぎ出せたような感覚がある。ただ、受験が近づけば、近づくほど、僕は時間がなくなるし、受かるまではどうしたって真宙さんとの時間を取りにくい。寮での生活も含めて、大学へ受かるまでの残り少ない高校生活だが、真宙さんに会えないその時間を思うと、僕はとてつもなくもどかしい気持ちになった。