そんなことを考えながら、黙りこくっているうちに、いよいよ痺れを切らした父が「カンパイ!」と声を上げる。すると、僕と真宙さん以外のみんなが、それぞれまとまりなく「カンパイ」を言って、お酒や飲み物に口をつけ、食事をはじめた。僕は家族の視線から解放されたが、拳を膝の上に置いたまま、動けないでいる。まだ考えていたのだ。――いや、考えていたというよりも、岐路にいるのに、どっちへ行きたいかも決まっているのに、足を踏み出せずにいた。ところが、不意に。僕が見つめていた拳に、真宙さんの手がそっと乗せられる。僕は思わず、顔を上げて彼を見た。
「真宙さん……」
「食べようよ、葵くん」
柔らかく微笑んで、真宙さんは言う。手はすぐに離れていったが、その声が泣けてくるほど優しげで、僕の目頭は途端にぶわっと熱を持った。
なにをそんなにためらっているのだろう。もう、この心は決まっている。本音を言うなら、今しかない。今ならまだ僕は、自分の好きな道を選べる。自分の進みたい道を歩けるのだ。それに、隣には味方もいる。真宙さんという心強い存在がいて、見守っていてくれる。大丈夫だ。
「じいちゃん、あのさ!」
僕は声を上げた。食卓のあちこちで鳴っていた食器と箸のぶつかる音や、おしゃべりの声がぱたりと止んで、一瞬の沈黙が訪れる。しかし、すぐに祖父が答えた。
「なんだ、葵。どうした」
「僕は……、がんばって勉強して、大学へ行こうと思ってる」
「おう、しっかりやんなきゃな」
「農業を学びたいから」
そう言った途端、祖父の顔つきが変わったのがわかった。父は眉をひん曲げて、母と祖母は薄々わかっていたのかもしれない。母は目を瞑って頷き、祖母は「そんなことはもう知ってる」と言わんばかりに再び食事を続けた。僕もまた、続ける。
「農業を学べる大学……。農大か、どっかの大学の農学部へ行って、ちゃんと勉強して、この家を継ぎ――」
「だめだ!」
ぴしゃりと言われ、言葉を遮られる。僕はビクッと肩を震わせた。そう言われるのはわかっていたのに、祖父の強い口調に呆気なく心が折れてしまいそうになる。だが、奥歯を噛み締めた。ここで言いなりになって、引っ込んでしまったら、いつもと同じだ。
「なんで? 僕は農業をやりたい。もうやるって決めたんだよ」
「お前はなんにもわかってねえ。花農家なんか継いでどうすんだ。今、花業界、あちこち王手が倒産しまくってる時代なんだぞ。景気は悪くって、物価も上がって、人間も減ってる。みんなヒイヒイ暮らしてんだ。花を買いにくる余裕がある人なんか、減る一方でよ。この世界、もう先細りなんだよ」
「でも、先細りだとしても、花農家がみんななくなるなんてことは――」
「なくなるんだよ、うちみたいなちっちぇえとこは! でっかい会社のでっかい工場にはなにやったって勝てねえんだ。今どき、田んぼだってみんな手放しちまうっつーのに、花なんかやったって、生活苦しくなるだけだろうが。そのうち見てろ、お前がみんな、うちの尻ぬぐいすることになるんだぞ!」
僕は言葉を失い、同時に理解していた。祖父は僕に意地悪を言っているわけではない。えらくなった孫を隣近所に自慢したいわけでもない。農業が嫌いなわけでもないし、僕を大事に思っていないわけでもない。祖父はおそらく僕を守るために、農業から、家業から遠ざけて、その選択肢は選ばせないものとしていたのだ。苦労するということがわかっているから。厳しい世界だと知っているから。
祖父の思いがやっとわかった今、僕の頬を、涙がぽろん、とこぼれ落ちていった。
「農業はな、お前が思ってるよか、よっぽどしんどいんだ。勉強ができんなら、もっといい仕事があるだろ。お前は農業なんかやんなくたっていい!」
祖父の言葉に、僕はもう一度、強く奥歯を噛み締める。祖父の思いがわかったからこそ、もう言いなりにはなれなかった。反論しなければならなかった。もう前へ進むしかなかった。
「それは今の状態で、古いやり方を続けた場合の話だろ! 王手会社が潰れる一方で、盛り上がってる店もあるし、地域によっては毎年、花のイベントだって増えてるよ。それに、でっかい工場がいくらできたって、中小には中小の良さがあるし、中小にしかできないことだってある。なんにもわかってないのはじいちゃんだよ!」
「ちょっ、葵くん……」
「誰に反対されても、僕は農大を受験する。じいちゃんが花農家なんか先細りだって言うんなら、いつかそれを変えられるように、僕がこの業界で戦えるようになるから!」
そう言った後、祖父は黙ってしまった。しばしの沈黙が流れて、僕はようやく濡れた頬を拭う余裕ができ、Tシャツの袖を引っ張って頬を拭く。真宙さんはおろおろしながら、僕と祖父を交互に見つめていたが、やがて――。
「……勝手にしろ」
祖父がそう言って、お猪口の日本酒を静かに飲み干したあと、席を立つ。そうして「裕子さん、悪いが私は部屋で食事をさせてもらうんで。運んでくれますか」と言って、足早に居間を出ていってしまった。残されたヒデさんは、自分のお猪口の酒をぐい、と飲み干すと、自分と祖父のお猪口をふたつ、それに持参した日本酒の瓶を抱え、祖父を追うように席を立つ。その去り際に、僕に軽く体を当て、声をかけた。
「おう、葵ちゃん。かっこよかったぞ」
にやりと笑みを浮かべてそう言い残し、ヒデさんは行ってしまった。僕はぽかんとして、ヒデさんの背中を見送り、しばらくそのままで動けなかった。おそらく、父も母も、祖母も。真宙さんも同じだった。ところが、それからほどなくして、真宙さんが僕の背中にそっと手を当てた。
「ごはん、食べよう。葵くん」
「真宙さん……」
「じいちゃんの言う通り、すげえかっこよかったよ」
真宙さんはそう言って、食事に戻る。僕はまったく単純なもので、途端に胸を高鳴らせていた。何年ぶりかの家族団らんの場で、祖父と大ゲンカをして、しかも、その一部始終を初恋の人に見られてしまったというのに、「かっこよかったよ」と言ってもらえてとてつもなく嬉しかったのだ。
「真宙さん……」
「食べようよ、葵くん」
柔らかく微笑んで、真宙さんは言う。手はすぐに離れていったが、その声が泣けてくるほど優しげで、僕の目頭は途端にぶわっと熱を持った。
なにをそんなにためらっているのだろう。もう、この心は決まっている。本音を言うなら、今しかない。今ならまだ僕は、自分の好きな道を選べる。自分の進みたい道を歩けるのだ。それに、隣には味方もいる。真宙さんという心強い存在がいて、見守っていてくれる。大丈夫だ。
「じいちゃん、あのさ!」
僕は声を上げた。食卓のあちこちで鳴っていた食器と箸のぶつかる音や、おしゃべりの声がぱたりと止んで、一瞬の沈黙が訪れる。しかし、すぐに祖父が答えた。
「なんだ、葵。どうした」
「僕は……、がんばって勉強して、大学へ行こうと思ってる」
「おう、しっかりやんなきゃな」
「農業を学びたいから」
そう言った途端、祖父の顔つきが変わったのがわかった。父は眉をひん曲げて、母と祖母は薄々わかっていたのかもしれない。母は目を瞑って頷き、祖母は「そんなことはもう知ってる」と言わんばかりに再び食事を続けた。僕もまた、続ける。
「農業を学べる大学……。農大か、どっかの大学の農学部へ行って、ちゃんと勉強して、この家を継ぎ――」
「だめだ!」
ぴしゃりと言われ、言葉を遮られる。僕はビクッと肩を震わせた。そう言われるのはわかっていたのに、祖父の強い口調に呆気なく心が折れてしまいそうになる。だが、奥歯を噛み締めた。ここで言いなりになって、引っ込んでしまったら、いつもと同じだ。
「なんで? 僕は農業をやりたい。もうやるって決めたんだよ」
「お前はなんにもわかってねえ。花農家なんか継いでどうすんだ。今、花業界、あちこち王手が倒産しまくってる時代なんだぞ。景気は悪くって、物価も上がって、人間も減ってる。みんなヒイヒイ暮らしてんだ。花を買いにくる余裕がある人なんか、減る一方でよ。この世界、もう先細りなんだよ」
「でも、先細りだとしても、花農家がみんななくなるなんてことは――」
「なくなるんだよ、うちみたいなちっちぇえとこは! でっかい会社のでっかい工場にはなにやったって勝てねえんだ。今どき、田んぼだってみんな手放しちまうっつーのに、花なんかやったって、生活苦しくなるだけだろうが。そのうち見てろ、お前がみんな、うちの尻ぬぐいすることになるんだぞ!」
僕は言葉を失い、同時に理解していた。祖父は僕に意地悪を言っているわけではない。えらくなった孫を隣近所に自慢したいわけでもない。農業が嫌いなわけでもないし、僕を大事に思っていないわけでもない。祖父はおそらく僕を守るために、農業から、家業から遠ざけて、その選択肢は選ばせないものとしていたのだ。苦労するということがわかっているから。厳しい世界だと知っているから。
祖父の思いがやっとわかった今、僕の頬を、涙がぽろん、とこぼれ落ちていった。
「農業はな、お前が思ってるよか、よっぽどしんどいんだ。勉強ができんなら、もっといい仕事があるだろ。お前は農業なんかやんなくたっていい!」
祖父の言葉に、僕はもう一度、強く奥歯を噛み締める。祖父の思いがわかったからこそ、もう言いなりにはなれなかった。反論しなければならなかった。もう前へ進むしかなかった。
「それは今の状態で、古いやり方を続けた場合の話だろ! 王手会社が潰れる一方で、盛り上がってる店もあるし、地域によっては毎年、花のイベントだって増えてるよ。それに、でっかい工場がいくらできたって、中小には中小の良さがあるし、中小にしかできないことだってある。なんにもわかってないのはじいちゃんだよ!」
「ちょっ、葵くん……」
「誰に反対されても、僕は農大を受験する。じいちゃんが花農家なんか先細りだって言うんなら、いつかそれを変えられるように、僕がこの業界で戦えるようになるから!」
そう言った後、祖父は黙ってしまった。しばしの沈黙が流れて、僕はようやく濡れた頬を拭う余裕ができ、Tシャツの袖を引っ張って頬を拭く。真宙さんはおろおろしながら、僕と祖父を交互に見つめていたが、やがて――。
「……勝手にしろ」
祖父がそう言って、お猪口の日本酒を静かに飲み干したあと、席を立つ。そうして「裕子さん、悪いが私は部屋で食事をさせてもらうんで。運んでくれますか」と言って、足早に居間を出ていってしまった。残されたヒデさんは、自分のお猪口の酒をぐい、と飲み干すと、自分と祖父のお猪口をふたつ、それに持参した日本酒の瓶を抱え、祖父を追うように席を立つ。その去り際に、僕に軽く体を当て、声をかけた。
「おう、葵ちゃん。かっこよかったぞ」
にやりと笑みを浮かべてそう言い残し、ヒデさんは行ってしまった。僕はぽかんとして、ヒデさんの背中を見送り、しばらくそのままで動けなかった。おそらく、父も母も、祖母も。真宙さんも同じだった。ところが、それからほどなくして、真宙さんが僕の背中にそっと手を当てた。
「ごはん、食べよう。葵くん」
「真宙さん……」
「じいちゃんの言う通り、すげえかっこよかったよ」
真宙さんはそう言って、食事に戻る。僕はまったく単純なもので、途端に胸を高鳴らせていた。何年ぶりかの家族団らんの場で、祖父と大ゲンカをして、しかも、その一部始終を初恋の人に見られてしまったというのに、「かっこよかったよ」と言ってもらえてとてつもなく嬉しかったのだ。
