「カン違いなら、ほんとごめん。でも、もしそうだったら……」
僕はごくん、と生唾を飲む。今、境界線のちょうど狭間にいるような感覚だ。僕は真宙さんを見つめながら、ぐるぐると頭を巡らせて、それはもういろんな可能性を考えた。真宙さんが今、どういう意味で「期待している」と言ったのか。その解釈は、もしかしたら僕の思うそれと、そんなに違っていないかもしれない。真宙さんの手の熱に、僕もまた、少しだけ期待していた。
「真宙さん……、あの、僕は……」
僕は同性愛者じゃない。男の人が好きなわけでもない。そもそも恋愛なんかしたこともない。けれど、どうしてか真宙さんを好きになってしまった。真宙さんはいつも明るくて陽気で、垣根のない人。内気でネガティブな僕とは、まるっきり正反対の人。けれど、そんな人だから、僕は惹かれているのかもしれない。僕にはないものを彼は持っていて、誰に反対されても、自分の意志を貫き、ひた向きに夢を追っている。
そんな真宙さんが好きだ。純粋にかっこいいと思う。僕は彼に憧れて、背中を追いかけようとして、誤って恋に落ちてしまったのかもしれない。たぶん、これが僕の初恋なのだ。ところが、そう言おうとした時だった。不意に、トントントントン……と、誰かが階段を上がってくる足音が聞こえてきた。
「葵ー!」
母の声とともに、コンコン、と部屋の扉がノックされ、僕と真宙さんは同時にビクッと体を震わせ、扉に振り向いた。掴まれていた手は放され、僕は慌てて部屋の扉を開ける。
「な、なに?」
「夕飯できたわよ」
「あぁ、夕飯……」
「おばあちゃん、お腹空かしてるから。早く来なさい」
緊張感のない会話に、僕はなんだか気が抜けてしまって、はあっと息を吐き、部屋の壁に掛かっている時計を確認する。時刻はいつの間にか、午後六時を回っていた。我が家の夕飯はいつも、午後六時から七時の間に出来上がる。祖母の腹時計に合わせて、母が作っているからだ。
「じゃあ、俺はこれで帰るよ」
夕飯の時間だとわかると、真宙さんは背後でそう言った。僕は引き留めたい気持ちに駆られる。だが、引き留めれば当然、さっきの話の続きをしなければならない。それが少し怖かった。真宙さんはおそらく、すでに僕の好意に気付いている。僕だってひとりで抱えきれない気持ちを、彼に吐き出してしまいたい。だが、真宙さんの気持ちがわからない以上は、どうしてもその先を思えば、不安になった。
彼は今、僕をどう思っているだろう。彼がさっき口にした「期待」の解釈は、僕の思うそれと同じなのだろうか。彼は、僕の好意を受け入れてくれるのだろうか。
そんな僕をよそに、真宙さんは部屋を出て行こうとする。だが、母が真宙さんを引き留めた。
「ねえ、よかったら真宙くんも食べてって」
「えっ?」
「さっきね、おじいちゃんとお父さん、もう配達終わったって連絡があったから、今日は久しぶりにみんなで食べるの。たいしたごちそうでもないんだけど、よかったら、真宙くんも一緒にどう?」
「でも、うちはじいちゃんが――……」
「大丈夫。ヒデさんもちゃんと呼ぶから。お盆のお花もやっと落ち着いたし、みんなでお疲れ会しましょ」
母の誘いに、僕は思わず真宙さんと顔を見合わせる。すると、真宙さんは目を細めたあと、母に「じゃあ、お言葉に甘えて」と答えた。
***
ひとまず、僕は真宙さんとちょっと気まずいまま、夕飯を食べることになった。一階へ下りると、ちょうど祖父と父が帰ってきたところで、母は骨董屋「カザミ」にヒデさんを迎えにいった。ヒデさんは大喜びだったらしく、大好きな日本酒の瓶を抱えてやってきて、野々川家の食卓に座る。ちょうどヒデさんの両隣りには祖父と真宙さんが座り、僕は真宙さんの隣に座った。
「何年ぶりかしらねぇ。夏場、ここにみんなが揃うのは」
母が声を弾ませてそう言いながら、料理を広い座卓の上へ並べていく。僕はみんなの分の箸を母に渡され、それを配って歩き、また席へ戻った。
「葵はホントに、夏には帰ってこねえからなぁ」
冷えたビール缶を片手に、父が言う。そう言われるのをなんとなく察していた僕は、いつもの言い訳をするべく、口を尖らせた。
「部活があったんだから、しょうがないじゃんか」
「部活ねぇ……」
「葵。部活もいいがよ、もう受験なんだから、ちゃんと勉強しねえといい大学入れねえぞ」
そう言ったのは、祖父だった。祖父は、ヒデさんに日本酒をお酌してもらってゴキゲンだ。僕は口を噤み、あぐらを掻いた膝の上で、きゅっと拳を握った。いつも、家族が揃うと必ずと言ってもいいほど出る、この話題。この会話。とうに慣れたことだが、僕はこれまでになく緊張している。
「そんで、大学はもう決まったのか?」
なにも返さなかったせいか、祖父が僕に訊ねる。家族の視線が祖父から僕に移されたのを感じたが、僕は膝の上の拳の、親指の爪を目のやり場にして、そこをじっと見つめていた。
「まだだと思いますよ。これから決めるんでしょう。さぁ、食べましょうか」
母が助け舟を出すかのように答えて、食卓の席に着いたようだった。だが、僕はまだ顔を上げられない。家族の視線がまだ、僕に向けられているとわかるからだ。ここは今、まさに岐路。僕はそんな感覚でいた。脳内では、分裂した自分の姿をふたり、想像する。
本音を言えなかった自分と、本音を言った自分。祖父と向き合えず、当たり障りのない返事をしてこの場をやり過ごす自分と、激しく衝突しても、祖父と向き合い、信念と意志を曲げなかった自分。心に嘘を吐いた自分と、心のまま、正直に従って行動した自分。そうして思う。変わらないでいるのは、なんて楽なのだろう――と。だが、きっとその先に、僕の欲しいものはなにひとつ転がっていないのだ。
僕はごくん、と生唾を飲む。今、境界線のちょうど狭間にいるような感覚だ。僕は真宙さんを見つめながら、ぐるぐると頭を巡らせて、それはもういろんな可能性を考えた。真宙さんが今、どういう意味で「期待している」と言ったのか。その解釈は、もしかしたら僕の思うそれと、そんなに違っていないかもしれない。真宙さんの手の熱に、僕もまた、少しだけ期待していた。
「真宙さん……、あの、僕は……」
僕は同性愛者じゃない。男の人が好きなわけでもない。そもそも恋愛なんかしたこともない。けれど、どうしてか真宙さんを好きになってしまった。真宙さんはいつも明るくて陽気で、垣根のない人。内気でネガティブな僕とは、まるっきり正反対の人。けれど、そんな人だから、僕は惹かれているのかもしれない。僕にはないものを彼は持っていて、誰に反対されても、自分の意志を貫き、ひた向きに夢を追っている。
そんな真宙さんが好きだ。純粋にかっこいいと思う。僕は彼に憧れて、背中を追いかけようとして、誤って恋に落ちてしまったのかもしれない。たぶん、これが僕の初恋なのだ。ところが、そう言おうとした時だった。不意に、トントントントン……と、誰かが階段を上がってくる足音が聞こえてきた。
「葵ー!」
母の声とともに、コンコン、と部屋の扉がノックされ、僕と真宙さんは同時にビクッと体を震わせ、扉に振り向いた。掴まれていた手は放され、僕は慌てて部屋の扉を開ける。
「な、なに?」
「夕飯できたわよ」
「あぁ、夕飯……」
「おばあちゃん、お腹空かしてるから。早く来なさい」
緊張感のない会話に、僕はなんだか気が抜けてしまって、はあっと息を吐き、部屋の壁に掛かっている時計を確認する。時刻はいつの間にか、午後六時を回っていた。我が家の夕飯はいつも、午後六時から七時の間に出来上がる。祖母の腹時計に合わせて、母が作っているからだ。
「じゃあ、俺はこれで帰るよ」
夕飯の時間だとわかると、真宙さんは背後でそう言った。僕は引き留めたい気持ちに駆られる。だが、引き留めれば当然、さっきの話の続きをしなければならない。それが少し怖かった。真宙さんはおそらく、すでに僕の好意に気付いている。僕だってひとりで抱えきれない気持ちを、彼に吐き出してしまいたい。だが、真宙さんの気持ちがわからない以上は、どうしてもその先を思えば、不安になった。
彼は今、僕をどう思っているだろう。彼がさっき口にした「期待」の解釈は、僕の思うそれと同じなのだろうか。彼は、僕の好意を受け入れてくれるのだろうか。
そんな僕をよそに、真宙さんは部屋を出て行こうとする。だが、母が真宙さんを引き留めた。
「ねえ、よかったら真宙くんも食べてって」
「えっ?」
「さっきね、おじいちゃんとお父さん、もう配達終わったって連絡があったから、今日は久しぶりにみんなで食べるの。たいしたごちそうでもないんだけど、よかったら、真宙くんも一緒にどう?」
「でも、うちはじいちゃんが――……」
「大丈夫。ヒデさんもちゃんと呼ぶから。お盆のお花もやっと落ち着いたし、みんなでお疲れ会しましょ」
母の誘いに、僕は思わず真宙さんと顔を見合わせる。すると、真宙さんは目を細めたあと、母に「じゃあ、お言葉に甘えて」と答えた。
***
ひとまず、僕は真宙さんとちょっと気まずいまま、夕飯を食べることになった。一階へ下りると、ちょうど祖父と父が帰ってきたところで、母は骨董屋「カザミ」にヒデさんを迎えにいった。ヒデさんは大喜びだったらしく、大好きな日本酒の瓶を抱えてやってきて、野々川家の食卓に座る。ちょうどヒデさんの両隣りには祖父と真宙さんが座り、僕は真宙さんの隣に座った。
「何年ぶりかしらねぇ。夏場、ここにみんなが揃うのは」
母が声を弾ませてそう言いながら、料理を広い座卓の上へ並べていく。僕はみんなの分の箸を母に渡され、それを配って歩き、また席へ戻った。
「葵はホントに、夏には帰ってこねえからなぁ」
冷えたビール缶を片手に、父が言う。そう言われるのをなんとなく察していた僕は、いつもの言い訳をするべく、口を尖らせた。
「部活があったんだから、しょうがないじゃんか」
「部活ねぇ……」
「葵。部活もいいがよ、もう受験なんだから、ちゃんと勉強しねえといい大学入れねえぞ」
そう言ったのは、祖父だった。祖父は、ヒデさんに日本酒をお酌してもらってゴキゲンだ。僕は口を噤み、あぐらを掻いた膝の上で、きゅっと拳を握った。いつも、家族が揃うと必ずと言ってもいいほど出る、この話題。この会話。とうに慣れたことだが、僕はこれまでになく緊張している。
「そんで、大学はもう決まったのか?」
なにも返さなかったせいか、祖父が僕に訊ねる。家族の視線が祖父から僕に移されたのを感じたが、僕は膝の上の拳の、親指の爪を目のやり場にして、そこをじっと見つめていた。
「まだだと思いますよ。これから決めるんでしょう。さぁ、食べましょうか」
母が助け舟を出すかのように答えて、食卓の席に着いたようだった。だが、僕はまだ顔を上げられない。家族の視線がまだ、僕に向けられているとわかるからだ。ここは今、まさに岐路。僕はそんな感覚でいた。脳内では、分裂した自分の姿をふたり、想像する。
本音を言えなかった自分と、本音を言った自分。祖父と向き合えず、当たり障りのない返事をしてこの場をやり過ごす自分と、激しく衝突しても、祖父と向き合い、信念と意志を曲げなかった自分。心に嘘を吐いた自分と、心のまま、正直に従って行動した自分。そうして思う。変わらないでいるのは、なんて楽なのだろう――と。だが、きっとその先に、僕の欲しいものはなにひとつ転がっていないのだ。
