初恋どろぼうと青い夏

 真宙さんと知り合ってから、毎日、当たり前のようにしていたリバーコーミングに行かなくなって、一週間。夕方、昼寝から起きたばかりの僕は、寝っ転がったまま、つけっぱなしになっていた部屋のテレビをぼんやりと眺めていた。――と、そこへ。部屋の扉をノックする音がある。同時に扉の向こう側からは、母の声がくぐもって聞こえてきた。

「葵! 葵、寝てるの?」

 僕は重い頭を上げて、壁掛け時計に目をやる。時刻は夕方五時。夕飯にしては、まだ少し早い時間だった。

「はあい。なに……?」

 僕は寝ぼけ眼のまま、ベッドから起き上がり、扉を開けようとドアノブに手をかける。だが、次の瞬間。

「真宙くん来てるわよ。あんたぁ、約束してたのにすっぽかしたんだって?」

 げえ……。

 僕は思わず顔を引きつらせる。朝のリバーコーミングの約束を黙って破ったのは、確かに申し訳なかったと思う。だが、それにはちゃんと理由があるのだ。もっとも真実を話せるはずもないが、僕はどうにか言い訳しようと、扉を開けた。すると――。

「あっ、葵くん!」
「えっ……」
「こんにちは!」

 扉を開けたところにいたのは、明らかに怒りをあらわにしている母と、いつも通り、陽気な真宙さんの姿だった。


***

「ねぇ、俺なんかしたかなぁー?」

 真宙さんは今、僕の部屋のクッションの上にあぐらを掻き、口を尖らせている。その様子を、僕はガチガチに緊張して見つめていた。大変だ。僕の部屋に真宙さんがいる。しかも今、僕らはふたりきりだ。

 そうは言っても、真宙さんと密室にふたりきりでいるのなんて、べつに珍しいことじゃない。すでに何度もあったことだ。それなのに今、こんなにも僕は緊張している。心臓はこれまで経験したことがないくらい、バクバクとうるさく高鳴っているし、顔も耳も、脇の下も、お腹も背中も、もう体じゅう、(わずら)わしいほどに熱を持って汗すら滲んでいる。だが、部屋のエアコンの設定温度はいつも通り。二十三度だ。

「ねーえ、聞いてる?」

 真宙さんが僕の部屋にいる。その事実だけでもう恥ずかしくて、今、こうしてじっとしていられるのは奇跡だった。嬉しいやら恥ずかしいやらで、もう今にもベッドの上ではしゃぎたくなる。ひどくおかしな気分だ。しかし、そんな感情をここで解放するわけにもいかないので、僕は必死に平静を保っている。そのせいで、彼に(たず)ねられたことにも、しばらくなにも答えられないままでいた。

「ねえ、葵くんってばー」
「は、はい……」
「なんか怒ってんの?」
「全然! 怒ってないです!」

 僕はかぶりを振った。怒ってなんかいない。むしろ、喜び、やや興奮すらしている。真宙さんがここへ来てくれたことが純粋に嬉しくて、だが、特に掃除もしないまま、昼寝のあとの寝ぼけ眼と寝ぐせ頭のまま、好きな人を部屋に迎えてしまったことが恥ずかしくてたまらない。せめて、連絡くらいくれたらよかったのに、と思ったが、そういえば僕は、真宙さんと連絡先の交換をしていなかった。

 ともかく、これではっきりした。僕はやっぱり真宙さんに恋をしている。真宙さんへのおかしな気持ちに気付いてからは、すでに一週間経っているが、彼がここへ来たことで、僕は思い知らされていた。もう疑う余地もない。

「怒ってないなら、なんで急に朝、河川敷に来なくなっちゃったの? 朝ごはんも食べに来ないしさ」
「それは……」
「なんか理由があるなら、話してよ。俺、嫌われちゃったか、そうじゃなくちゃ、葵くんが体こわしたんじゃないかと思って、すっげえ心配してたんだからね」
「すみません……」

 そうだよな、と僕は猛省した。真宙さんは優しいし、いい人だ。きっと、僕が急に朝のリバーコーミングに行かなくなったことに、怒ったり、腹を立てたりすることもなく、ただ、心配してくれていたのだろう。僕はますます罪悪感を持って、ベッドの端に座り、しなびたように背中を丸め、顔を手で(おお)った。

「ほんとに、ごめんなさい……」
「葵くん、どうした? なに謝ってんの」

 真宙さんは立ち上がり、僕の隣に座った。ぎし、とベッドがきしむ音がして、わずかに揺れ、僕の心臓は余計に高鳴っていく。そもそも、理由なんか話せるはずもない。だが、この状況でどんな言い訳をすればいいのかもわからず、僕は途方に暮れた。すると――。

「葵くん、大丈夫だから話してみ。なんかあったんだろ?」

 穏やかな声と同時に、頭の上に手が乗った。真宙さんの手だ。彼の手はそっと僕の髪を撫でてくれる。とても優しい手つきだった。僕の頬は風邪でもひいて、熱を出したときのようにぽうっと火照(ほて)って冷める気配もない。

 以前にも、こんなふうに真宙さんに頭を撫でられたことがあった。あのときは、なんだか照れくさい気持ちがあるだけで、こんな感情は持っていなかった。純粋に真宙さんとのじゃれ合いが楽しくて、それだけだった。けれど、今の僕は違う。今の僕には、ただならぬ感情と下心がある。

 真宙さんの手、気持ちいい……。

 真宙さんが何度も、何度も撫でていてくれるのをいいことに、僕はただ黙って座り、大人しくしていた。真宙さんの手は、すごく優しくて、あったかくて、このまま、いつまででも撫でていてほしくて、けれど、真宙さんの優しさを利用しているような気もして、ちょっとずつ罪悪感が増えていく心地にもなった。同時にそんな自分が情けなくて泣きたくなる。僕はやっぱり、なにをするにも臆病だ。ついでに卑怯者だ。

「うあー……」
「ちょっと、大丈夫?」
「だめかも……」
「まったく……。誰かなぁー、俺の大事な葵くんを泣かせたのは」

 僕の頭を撫でながら、真宙さんがそんなことを言うから、僕はうっかり期待してしまいそうになった。僕と真宙さんはすでに両想いで、真宙さんは僕を大事に想ってくれている。男同士だけれど、彼は僕にとって大事な恋人。そんな都合のいい妄想が止まらない。だが、そうしているうちに、いよいよ現実との境目がわからなくなりそうで、僕は顔を上げ、真宙さんをじっと見つめた。