***

「ただいま」
「あら、おかえり。葵」

 家の門をくぐり、庭のアプローチを抜けて玄関を開けると、ちょうど母が玄関で靴を履いているところだった。農協からもらったマイカゴを持っているところを見る限り、スーパーにでも行くのだろう。

「ちょうど今、買い物に行くところだったの。食べたいものある?」
「……ない。なんでもいい」
「あんたねぇ。久しぶりに帰ってきて、なんでもいいはないでしょうが。まったく……」

 ブツブツ文句をこぼしながら、母は出ていく。僕は気にせず、居間を(のぞ)いた。テレビがつけっぱなしになったそこに、家族はひとりもいない。僕は二階の自室へ上がり、荷物を置いて、再び玄関から庭へ出た。そこから、家の裏側へ向かう。おそらく、家族がいるのは裏の畑か、農業用倉庫、あるいは作業場だろう。

 実家には、母屋とは別に離れがあり、そこに並ぶように農業用倉庫があって、家の裏側が広く畑になっている。ちょうど、小学校の体育館が三つか四つ分ほど入るくらいの広さだ。実家は曾祖父の代から続く花農家をやっていて、地域の市場と、スーパー数店舗に切り花を作って卸していた。実店舗はないが、スーパーへの出荷は相当ハードワークなようで、祖父と父がふたりで回っている。

 今は、配達用の車が二台とも車庫に停まっていないから、ふたりは不在なのだろう。ちなみに、母と祖母は、農業用倉庫内の作業場で、収穫した花を出荷用に下ごしらえしたり、まとめたりしていることが多かった。

「すみません……」

 僕はまず、農業用倉庫の扉を開け、中へ向かって声をかける。倉庫は二十坪ほどある。農家ではよく見る建物だ。部屋の中はエアコンがよく効いていて、コンビニの店内のように涼しいが、もうあちこちガタがきている古いエアコンなものだから、騒音がものすごい。さらに、屋根は瓦で、ドアの鍵はよく壊れるし、トイレは今どき信じられないが、建物の裏側に独立して造られている。いわゆる(かわや)というやつだ。もちろん、家の中にはちゃんと手洗いが設置されているわけだが、畑や作業場ではどうしても足や服が泥で汚れるので、外付けのトイレが使用される。

「あらぁ、葵くんじゃない」
「久しぶりねぇ、元気?」
「はい……」

 作業場の扉を開けると、途端に明るい奥さまがたの声が飛び交う。ここでは、昔から四、五人ほどパートさんが働いており、毎日切り花作りに励んでくれている。家族経営の小さな花農家だが、ベテランのパートさんたちが長く続けてくれているおかげで、うちの家業は成り立っていた。僕は、この作業場を(のぞ)くのが昔から好きだった。

「こんにちは……」
「暑かったでしょう。入って、入って」
「ありがとうございます」

 作業場の中は、壁に沿って作業用の机が並んでおり、その下にはぎちぎちに段ボール箱が積まれて置かれている。作業机の上にはプラスチック製の黒いバケツがいくつも並んでいて、その中に、様々な色の花が活けられていた。

 白、黄色、赤の小菊。色鮮やかなカーネーション、ガーベラ。すべて、切り花の花材として、市場へ、あるいはスーパーへ出荷されるものだ。パートさんたちは、それを素早く組んで、ビニールのラッピングバッグに入れ、空きスペースに積み重ねていく。その中で、一番ベテランのパートさんが、結束機にラップされた花束を通し、茎の下を揃えて切り、黒いバケツの中へ入れていた。

 それがいっぱいになると、水に活けられた大量の花束は、作業場の(すみ)に設置された巨大な冷蔵庫へ入れられる。お盆シーズンになると、スーパーの生花コーナーで仏花売り場が特設されるのだが、花農家直送の切り花セットは、花の新鮮さが売りで、繁忙期には飛ぶように売れるらしい。パートさんたちは、それに備えた大量のストックを作っているのだ。

 キレイだな……。

 久しぶりに見る光景に、馴染みの安堵(あんど)感を覚える。こうして、みんなで一日千束以上を作るのだから、大変な仕事だ。その半数が今日じゅうに配達され、残りはストックになる。だが、そのストックも、お盆シーズンには一日で消える。みんな売れてしまうらしい。

「葵くん、社長ならすぐ戻ってくるから、座ってたらどう?」

 ベテランのパートさんがそう言って、(すみ)に積んであった酒瓶のケースを取ってきてくれ、その上に座布団を敷いてくれる。酒瓶ケースは、踏み台や椅子代わりにこの作業場で使われているものだ。ただ、僕はかぶりを振った。社長――というのは、祖父のことだが、僕がここへ来ると、祖父はあまりいい顔をしない。

「いえ、大丈夫です。じいちゃん、休憩中ですか」
「うん、今、お昼いってるの。もうすぐ戻ってくると思うんだけど、今日は朝からバタバタしてたもんで、遅くなっちゃったみたいでね」
「今日は久子さんも腰痛くなっちゃって。早くにあがっちゃったのよ」

 久子さんというのは、僕の祖母の名だ。祖母はここ数年、腰を痛めている。昔は朝から晩まで働いていたが、今では半日もてばいい方だと聞いている。

「もう、みんな疲れが出てんのよね。こう毎日、毎日、四十度近くまで暑くなるんじゃねえ」
「体おかしくなっちゃうわ」
「汗ばっかり出て、ちっとも痩せないし」
「ほんとよ、どうなってんのかしら」

 パートさんたちのけらけら笑う声や、軽快なおしゃべりを聞きながら、僕は改めて、家業の過酷さを思う。花でも野菜でも米でも。農業は自然との戦い。本当に過酷だ。近年の夏の猛暑は、どこの農家にもなにかしら大打撃を与えているのだろう。

「そっか、大変だったんですね……。みなさんも暑いのに、ありがとうございます」
「大丈夫! 私らはこの通り、クーラーガンガンで、しっかり休憩とってやってるから。心配してくれてありがとうねぇ、葵くん」

 ベテランのパートさんがそう言って、僕は頭を下げ、作業場を出た。久しぶりに嗅いだ、作業場の(ほこり)っぽい匂いと菊の香りがたまらなく懐かしい。だが、同時にどんよりと思考が重くなるのを感じて、無意識にため息が漏れた。