それを聞いて、真宙さんが今日、誰と会っているのか、僕は気付いてしまった。その人は真宙さんの初恋相手だ。今でも真宙さんはその人に憧れていて、目標にもしている。彼は今日、その人とどこかでおいしいものを一緒に食べるために出かけたのだろう。真宙さんから誘ったのだろうか。その人に誘われたのだろうか。真宙さんは夜ごはんを、その人と食べたかったのだろうか。
真宙さんはやっぱり……、まだ、その人のことが好きなのかな。
そうかもしれない。あるいは今日、その人と久しぶりに会って、一緒に食事をしているうちに気持ちが再燃するかもしれない。いちご農家のオーナーさんに、奥さんや子どもがいたって、密かに想い続けようとするかもしれない。真宙さんはいつも陽気で自由で、飄々としているけれど、ああ見えても根は真面目な人だ。報われない恋だとわかっていても、きっと好きな人をひたむきに追い続けるだろう。そう思ったとき、僕の胸の奥は、じくりと痛みを持った。
なんで僕が――……。
「真宙くんは就職どうするのかしら……。今、大学三年で……、来年は四年でしょう? おかあさん、なにか聞いてます?」
母が祖母に訊ねている。母は相当、真宙さんがお気に入りなのだろう。一方で、祖母は目を伏せたまま、ずずず……と、味噌汁をすすってから、静かに答えた。
「さぁねぇ……」
「うちで働いてくれたらいいけど、やっぱりいちごがいいのかしら……」
「いちごのほうが食べものだからね」
その会話で僕は察する。真宙さんはいちご農家に就職したいのかもしれない。少なくとも、真宙さんの意思を、このふたりは聞いているのだ。しかし、僕の母と祖母は、真宙さんのことを相当気に入っていて、できれば、うちに――野々川園に、就職してほしいと思っているのかもしれない。
祖父がどう言うかは知らないが、祖父も祖母ももういい歳だし、ひとまずは父が跡を継ぐにしても、次の後継者を育てなければならないだろう。そして、おそらく。その選択肢に僕はいないのだ。僕はそれが悔しくてたまらなかった。それから、真宙さんがいちご農家に就職するのも、気に入らなかった。
「……嘘つき」
「え?」
まだそれが不確かなことだとわかっていながらも、僕は思わず、文句をこぼしてしまった。母はギョッとしているし、祖母もまた、不思議そうな目で僕を見ている。無理もない。それまで黙々と食べていた息子が、突然喋り出したかと思えば、仏頂面で「噓つき」と呟いたのだから。ただ、ふたりにその理由を説明するのも面倒なので、僕はすぐに食卓の席を立った。
「いや……、ごめん。なんでもない。ごちそうさま」
「あら、もういいの? 今日、メロン切ってあるよ」
「いい。いらない」
「えぇ? なんだ、せっかく鉾田のおいしいメロン買ってきたのに……」
僕は今、なるべく早く独りになりたかった。鉾田産のメロンがおいしいのは知っているし、僕の分を誰かが食べてしまうのも惜しいが、ここで真宙さんの話を聞くのも、僕が自分の進路希望を家族に話せないのも、母と祖母にずっと密かに抱えてきた胸の内を伝えることに、まだためらってしまうのも、なにひとつおもしろくなかったのだ。
僕はそれからすぐに自室にこもって、久しぶりの空しさを感じていた。真宙さんと知り合う前に、よくこんな気持ちになっていたな、ということを思い出す。なにもかも思い通りにならない煩わしさと、それに立ち向かえない自分の情けなさに苛立ち、だが、無理に強がって、人生なんてきっとうまくいかないことのほうが多いのだろう、と達観したフリをしながら、平静を装う。そうしていると、ちょっとだけ空しくなるのだ。
高校三年生で、将来の夢は特になし。けれど、勉強はそこそこできるから、幸いなことにいい大学へ入れる。ゆくゆくは、いい会社へ入って働いて、出世してえらくなる。そうすれば、家族は喜ぶ。特に祖父は納得する。そうしてそのうち、いい縁があれば結婚をして、子どもができて、家庭を築いたりもするのだろう。そんな未来を想像すれば、必ず僕は思うのだ。
「つまんなそうだな……」
いつも心の中で思っているだけだった言葉が、はじめて声に出て、僕は口を噤んだ。だが、その直後。不意にまた、脳裏には真宙さんの声が響く。
――だったら、信念を貫くしかないんだって。わかってもらうまで、話すしかない。何度衝突しても、またぶつかっていくしかないよ。
じわりと目に熱がこもった。僕は慌てて手の甲で目元をこする。けれど、どうしてか涙が止まらない。思い出すのは、真宙さんの言葉。真宙さんの陽気な声。明るい笑顔。そればかりだ。
――もし、葵くんが大学を出て、家業を継ぎたいって言っても、竜三さんにわかってもらえなかったら、一緒に駆け落ちしようか。
冷静に思い返してみれば、あんな言葉、どうしたって本気の誘いではなかった。きっと、真宙さんはあのとき、ただ、冗談を言って、僕をひとまず笑わせて、勇気づけてくれようとしただけ。優しい嘘に違いなかった。けれど、僕の心は躍った。あの瞬間、どのみち真宙さんがそばにいるなら、きっと楽しいだろうと、はじめて能天気な妄想をした。
「はぁ……」
僕はわけもわからず溢れ出た涙を拭いて、窓を開け、風を入れる。深呼吸をする。外はまだ熱気が漂っているが、今夜は東からいい風が吹いていた。おかげで、その風に当たっているうちに、いくらか気持ちが落ち着いた。
僕は本当に臆病だ。真宙さんのようになりたいと思いながら、今もまだこうして、なにも変わっていない。変えようともしていない。家族や祖父と向き合うのが怖くて、口論になるのがわかりきっているから億劫で、後回しにしている。
真宙さんはやっぱり……、まだ、その人のことが好きなのかな。
そうかもしれない。あるいは今日、その人と久しぶりに会って、一緒に食事をしているうちに気持ちが再燃するかもしれない。いちご農家のオーナーさんに、奥さんや子どもがいたって、密かに想い続けようとするかもしれない。真宙さんはいつも陽気で自由で、飄々としているけれど、ああ見えても根は真面目な人だ。報われない恋だとわかっていても、きっと好きな人をひたむきに追い続けるだろう。そう思ったとき、僕の胸の奥は、じくりと痛みを持った。
なんで僕が――……。
「真宙くんは就職どうするのかしら……。今、大学三年で……、来年は四年でしょう? おかあさん、なにか聞いてます?」
母が祖母に訊ねている。母は相当、真宙さんがお気に入りなのだろう。一方で、祖母は目を伏せたまま、ずずず……と、味噌汁をすすってから、静かに答えた。
「さぁねぇ……」
「うちで働いてくれたらいいけど、やっぱりいちごがいいのかしら……」
「いちごのほうが食べものだからね」
その会話で僕は察する。真宙さんはいちご農家に就職したいのかもしれない。少なくとも、真宙さんの意思を、このふたりは聞いているのだ。しかし、僕の母と祖母は、真宙さんのことを相当気に入っていて、できれば、うちに――野々川園に、就職してほしいと思っているのかもしれない。
祖父がどう言うかは知らないが、祖父も祖母ももういい歳だし、ひとまずは父が跡を継ぐにしても、次の後継者を育てなければならないだろう。そして、おそらく。その選択肢に僕はいないのだ。僕はそれが悔しくてたまらなかった。それから、真宙さんがいちご農家に就職するのも、気に入らなかった。
「……嘘つき」
「え?」
まだそれが不確かなことだとわかっていながらも、僕は思わず、文句をこぼしてしまった。母はギョッとしているし、祖母もまた、不思議そうな目で僕を見ている。無理もない。それまで黙々と食べていた息子が、突然喋り出したかと思えば、仏頂面で「噓つき」と呟いたのだから。ただ、ふたりにその理由を説明するのも面倒なので、僕はすぐに食卓の席を立った。
「いや……、ごめん。なんでもない。ごちそうさま」
「あら、もういいの? 今日、メロン切ってあるよ」
「いい。いらない」
「えぇ? なんだ、せっかく鉾田のおいしいメロン買ってきたのに……」
僕は今、なるべく早く独りになりたかった。鉾田産のメロンがおいしいのは知っているし、僕の分を誰かが食べてしまうのも惜しいが、ここで真宙さんの話を聞くのも、僕が自分の進路希望を家族に話せないのも、母と祖母にずっと密かに抱えてきた胸の内を伝えることに、まだためらってしまうのも、なにひとつおもしろくなかったのだ。
僕はそれからすぐに自室にこもって、久しぶりの空しさを感じていた。真宙さんと知り合う前に、よくこんな気持ちになっていたな、ということを思い出す。なにもかも思い通りにならない煩わしさと、それに立ち向かえない自分の情けなさに苛立ち、だが、無理に強がって、人生なんてきっとうまくいかないことのほうが多いのだろう、と達観したフリをしながら、平静を装う。そうしていると、ちょっとだけ空しくなるのだ。
高校三年生で、将来の夢は特になし。けれど、勉強はそこそこできるから、幸いなことにいい大学へ入れる。ゆくゆくは、いい会社へ入って働いて、出世してえらくなる。そうすれば、家族は喜ぶ。特に祖父は納得する。そうしてそのうち、いい縁があれば結婚をして、子どもができて、家庭を築いたりもするのだろう。そんな未来を想像すれば、必ず僕は思うのだ。
「つまんなそうだな……」
いつも心の中で思っているだけだった言葉が、はじめて声に出て、僕は口を噤んだ。だが、その直後。不意にまた、脳裏には真宙さんの声が響く。
――だったら、信念を貫くしかないんだって。わかってもらうまで、話すしかない。何度衝突しても、またぶつかっていくしかないよ。
じわりと目に熱がこもった。僕は慌てて手の甲で目元をこする。けれど、どうしてか涙が止まらない。思い出すのは、真宙さんの言葉。真宙さんの陽気な声。明るい笑顔。そればかりだ。
――もし、葵くんが大学を出て、家業を継ぎたいって言っても、竜三さんにわかってもらえなかったら、一緒に駆け落ちしようか。
冷静に思い返してみれば、あんな言葉、どうしたって本気の誘いではなかった。きっと、真宙さんはあのとき、ただ、冗談を言って、僕をひとまず笑わせて、勇気づけてくれようとしただけ。優しい嘘に違いなかった。けれど、僕の心は躍った。あの瞬間、どのみち真宙さんがそばにいるなら、きっと楽しいだろうと、はじめて能天気な妄想をした。
「はぁ……」
僕はわけもわからず溢れ出た涙を拭いて、窓を開け、風を入れる。深呼吸をする。外はまだ熱気が漂っているが、今夜は東からいい風が吹いていた。おかげで、その風に当たっているうちに、いくらか気持ちが落ち着いた。
僕は本当に臆病だ。真宙さんのようになりたいと思いながら、今もまだこうして、なにも変わっていない。変えようともしていない。家族や祖父と向き合うのが怖くて、口論になるのがわかりきっているから億劫で、後回しにしている。
