午後五時。「おつかれさまでしたー」という真宙さんの声に反応した僕は、素早く部屋を飛び出し、階段を駆け下り、サンダルを履いて庭へ出た。すると、ちょうど真宙さんが家の門を出ていくところだった。僕は慌てて彼を引き留める。
「ま、真宙さん……ッ!」
「ん? あ……、葵くんだ」
「真宙さん!」
慌てて彼のそばへ駆け寄る。だが、僕はその先、言葉が出ずに、ただそこで、彼を見つめるだけになってしまった。なにを言いたいのかわからない。それなのに、このまま帰してなるものか、という奇妙な感情だけが脳内を渦巻いている。
「どうした?」
「な……、なんでもありません……」
だが、結局。僕は自分でもなにがしたかったのかよくわからないままだった。話したいことはあるはずなのに、頭の中で感情や言葉が散らかっていて、まったくまとまっていないのだ。
「すみません、おつかれさまでした……」
自分の情けなさにしょぼくれながら、ひとまずそう言って、頭を下げ、僕は家へ戻る。だが――。
「葵くん、あのさ!」
真宙さんに呼び止められて、僕は振り返った。すると、真宙さんはこれまで見たことがないほど、こわばった表情で近づいてくる。僕は思わず身構えた。
「なんです……?」
「よかったら、今日の晩メシ、一緒にどう?」
「え……?」
「うち、今日じいちゃんデーなんだ。週に一回、じいちゃんが晩メシのメニュー決める日。……まぁ、だいたいマックスバーガーになるんだけど……」
ため息混じりに、真宙さんは言う。そういえば、と僕は思い出す。お隣のヒデさんがジャンクフード好きだという話を聞いたのは、今朝のことだったろうか。
「ヒデさん、マックスバーガー好きなんですか」
「そう、すんげえ好き。たぶん、この町の若者の誰よりもメニュー制覇してるよ。俺もここに居候させてもらうようになってから知ったんだけど、それまではたぶん……、ほぼ毎日くらいで行ってたと思うんだ」
「毎日……。そんなに……?」
ヒデさんの年齢はおそらく七十代だと思う。祖父が七十八だから、同い年であるはずだ。つまり、ヒデさんはすでに後期高齢者なわけで、毎日マックスバーガーを摂取するのは、あまり健康的とは言えない。たぶん、三大疾病まっしぐらだろう。
「そうなんだよ。まったく困った年寄りだろ。俺がここに来てからは、食事は俺と一緒にとるって決めて、俺が準備してるんだけど……、ただ、嗜好品だからね。あんまり我慢させると、逆に欲が出てよくないんじゃないかと思って」
「はぁ……」
「だから、毎週金曜日だけ、じいちゃんデー作って、マックスバーガーを買ってくることにしてんだ」
「なるほど……」
「……で、よかったら一緒にどうかな?」
マックスバーガーはべつに嫌いじゃない。それに、僕は真宙さんに誘われたことが単純に嬉しかった。真宙さんと話がしたい。バイトの話が聞きたい。やっと、脳内で散らかっていた自分の願望が整理されてきて、僕は頷いた。
「うん、いいですよ。僕も、真宙さんに聞きたいことが山ほどありますし」
「俺に聞きたいこと? なになにー?」
「……バイトのことに決まってんでしょうが」
わざとつっけんどんにそう言って、鼻を鳴らす。すると、真宙さんはへらっと笑って、僕の背中を軽く押しながら「クレームは晩メシと一緒に承りまーす」と、冗談めかして言った。
***
それから、僕は母に、「今夜の夕飯は真宙さんと食べる」と伝えると、真宙さんとともに骨董屋「カザミ」へ向かった。店内へ入るなり、レジの裏側にいるヒデさんと目が合って、少し緊張する。ヒデさんはなにやら厳しい表情で新聞を読んでいたようだったが、僕たちがやってきたのを見ると、それをパタン、と閉じてレジ台の上を置いてから、べっこう柄のメガネを少し下げて、僕を見つめた。
「こ、こんばんは……」
僕はぺこ、と頭を下げると、ヒデさんはすぐにわかったのだろう。わずかに表情が和らぎ「ここんとこ、しょっちゅう一緒だね。お前さんたちゃあ」と呆れ顔で笑った。
「うん。今日、葵くんも晩メシ一緒に食べていい?」
「いいけど、葵ちゃんよう。おっかさんにはちゃんと言ってきたのかい?」
ヒデさんとまともに話したのは久しぶりだった。ただ、「葵ちゃん」と呼ばれているのを思い出した途端に、猛烈に恥ずかしくなってきて頬が熱くなる。――とはいえ、僕にはヒデさんに「ちゃんづけやめてください」なんて言えるほど度胸もないので、ひとまずは気にしないフリをして頷いた。
「はい、伝えました……」
「なら、いいけどね。今日はバーガーだよ」
ヒデさんはそう言ってから、壁掛け時計を見上げて「やれ、時間だ」とひとり言を呟き、鼻歌を唄いながら、さっさと店仕舞いをはじめる。きっと、夕飯にバーガーを食べられるのが嬉しいのだ。それからついでのように、レジから一万円札を取り出して、それを真宙さんにひらりと渡した。
「これで買っといで。おらぁ、いつものでいいから」
「いつものね……。じいちゃん、車借りるよ」
「はいはい。ぶつけんなよ」
「ぶつけねーし」
そんなやり取りのあと、真宙さんは僕を店のの外へ出るように促し、そのまま車庫へ案内してくれた。そこには古い軽バンが一台、停まっている。ヒデさんの車だ。
「ごめん、あんまり片付いてないんだけど……。いい?」
「はい……」
僕が頷くと、真宙さんは少し恥じらうような笑みをこぼし、「どうぞ」と言って、運転席に乗り込んだ。僕も助手席に乗り込み、シートベルトを締める。車内はかすかにタバコの残り香がしていて、ドリンクホルダーには封の開けられたタバコが置かれていた。真宙さんがタバコを吸うのは見たことがないから、たぶん、ヒデさんのだろう。
「それじゃ、出発進行!」
真宙さんは慣れたようにエンジンをかけ、ギアをドライブに入れ、アクセルを踏む。車はスムーズに公道へ出た。
「ま、真宙さん……ッ!」
「ん? あ……、葵くんだ」
「真宙さん!」
慌てて彼のそばへ駆け寄る。だが、僕はその先、言葉が出ずに、ただそこで、彼を見つめるだけになってしまった。なにを言いたいのかわからない。それなのに、このまま帰してなるものか、という奇妙な感情だけが脳内を渦巻いている。
「どうした?」
「な……、なんでもありません……」
だが、結局。僕は自分でもなにがしたかったのかよくわからないままだった。話したいことはあるはずなのに、頭の中で感情や言葉が散らかっていて、まったくまとまっていないのだ。
「すみません、おつかれさまでした……」
自分の情けなさにしょぼくれながら、ひとまずそう言って、頭を下げ、僕は家へ戻る。だが――。
「葵くん、あのさ!」
真宙さんに呼び止められて、僕は振り返った。すると、真宙さんはこれまで見たことがないほど、こわばった表情で近づいてくる。僕は思わず身構えた。
「なんです……?」
「よかったら、今日の晩メシ、一緒にどう?」
「え……?」
「うち、今日じいちゃんデーなんだ。週に一回、じいちゃんが晩メシのメニュー決める日。……まぁ、だいたいマックスバーガーになるんだけど……」
ため息混じりに、真宙さんは言う。そういえば、と僕は思い出す。お隣のヒデさんがジャンクフード好きだという話を聞いたのは、今朝のことだったろうか。
「ヒデさん、マックスバーガー好きなんですか」
「そう、すんげえ好き。たぶん、この町の若者の誰よりもメニュー制覇してるよ。俺もここに居候させてもらうようになってから知ったんだけど、それまではたぶん……、ほぼ毎日くらいで行ってたと思うんだ」
「毎日……。そんなに……?」
ヒデさんの年齢はおそらく七十代だと思う。祖父が七十八だから、同い年であるはずだ。つまり、ヒデさんはすでに後期高齢者なわけで、毎日マックスバーガーを摂取するのは、あまり健康的とは言えない。たぶん、三大疾病まっしぐらだろう。
「そうなんだよ。まったく困った年寄りだろ。俺がここに来てからは、食事は俺と一緒にとるって決めて、俺が準備してるんだけど……、ただ、嗜好品だからね。あんまり我慢させると、逆に欲が出てよくないんじゃないかと思って」
「はぁ……」
「だから、毎週金曜日だけ、じいちゃんデー作って、マックスバーガーを買ってくることにしてんだ」
「なるほど……」
「……で、よかったら一緒にどうかな?」
マックスバーガーはべつに嫌いじゃない。それに、僕は真宙さんに誘われたことが単純に嬉しかった。真宙さんと話がしたい。バイトの話が聞きたい。やっと、脳内で散らかっていた自分の願望が整理されてきて、僕は頷いた。
「うん、いいですよ。僕も、真宙さんに聞きたいことが山ほどありますし」
「俺に聞きたいこと? なになにー?」
「……バイトのことに決まってんでしょうが」
わざとつっけんどんにそう言って、鼻を鳴らす。すると、真宙さんはへらっと笑って、僕の背中を軽く押しながら「クレームは晩メシと一緒に承りまーす」と、冗談めかして言った。
***
それから、僕は母に、「今夜の夕飯は真宙さんと食べる」と伝えると、真宙さんとともに骨董屋「カザミ」へ向かった。店内へ入るなり、レジの裏側にいるヒデさんと目が合って、少し緊張する。ヒデさんはなにやら厳しい表情で新聞を読んでいたようだったが、僕たちがやってきたのを見ると、それをパタン、と閉じてレジ台の上を置いてから、べっこう柄のメガネを少し下げて、僕を見つめた。
「こ、こんばんは……」
僕はぺこ、と頭を下げると、ヒデさんはすぐにわかったのだろう。わずかに表情が和らぎ「ここんとこ、しょっちゅう一緒だね。お前さんたちゃあ」と呆れ顔で笑った。
「うん。今日、葵くんも晩メシ一緒に食べていい?」
「いいけど、葵ちゃんよう。おっかさんにはちゃんと言ってきたのかい?」
ヒデさんとまともに話したのは久しぶりだった。ただ、「葵ちゃん」と呼ばれているのを思い出した途端に、猛烈に恥ずかしくなってきて頬が熱くなる。――とはいえ、僕にはヒデさんに「ちゃんづけやめてください」なんて言えるほど度胸もないので、ひとまずは気にしないフリをして頷いた。
「はい、伝えました……」
「なら、いいけどね。今日はバーガーだよ」
ヒデさんはそう言ってから、壁掛け時計を見上げて「やれ、時間だ」とひとり言を呟き、鼻歌を唄いながら、さっさと店仕舞いをはじめる。きっと、夕飯にバーガーを食べられるのが嬉しいのだ。それからついでのように、レジから一万円札を取り出して、それを真宙さんにひらりと渡した。
「これで買っといで。おらぁ、いつものでいいから」
「いつものね……。じいちゃん、車借りるよ」
「はいはい。ぶつけんなよ」
「ぶつけねーし」
そんなやり取りのあと、真宙さんは僕を店のの外へ出るように促し、そのまま車庫へ案内してくれた。そこには古い軽バンが一台、停まっている。ヒデさんの車だ。
「ごめん、あんまり片付いてないんだけど……。いい?」
「はい……」
僕が頷くと、真宙さんは少し恥じらうような笑みをこぼし、「どうぞ」と言って、運転席に乗り込んだ。僕も助手席に乗り込み、シートベルトを締める。車内はかすかにタバコの残り香がしていて、ドリンクホルダーには封の開けられたタバコが置かれていた。真宙さんがタバコを吸うのは見たことがないから、たぶん、ヒデさんのだろう。
「それじゃ、出発進行!」
真宙さんは慣れたようにエンジンをかけ、ギアをドライブに入れ、アクセルを踏む。車はスムーズに公道へ出た。
