はじめてのリバーコーミングを終えて、ほのぼのと帰ってきたはずだったのに、脳天に雷が落ちたような衝撃を喰らった、朝八時。僕は、燦燦と降り注ぐ太陽の光の下、にこにこ顔の真宙さんの手を引いて、家の裏にある小菊畑へ向かっていた。
「手を引いてくれるのは嬉しいけど、なんだか強引だなぁー」
真宙さんがどこか嬉しそうにそう言って笑っているが、僕としては笑いごとではなかった。彼に振り返り、キッと睨みつける。
今日、祖父と父は、朝早くから市場へ行ってしまったようで、家には母と祖母、パートさんたちしかいない。畑では母と祖母、早番のパートさんがひとり、小菊の収穫をしているところだった。小菊の収穫は早朝でないと、しおれの原因になるため、朝早くから行われる。このあと収穫した花は、作業場へ移され、選定されて出荷用の箱に入れられるのだ。おそらく、真宙さんは今日、その収穫後の作業を担当しているのだろう。
花でいっぱいになった荷車を押していた母が僕と真宙さんに気付き、麦わら帽子のつばを少し上げた。
「あら、葵じゃない。真宙くんも。おはよう」
「どうしたの、ふたり揃って。仲良しになったの?」
パートさんが冗談めかしてそう訊ね、真宙さんと母がけらけらと笑った。朝八時で、おそらくすでに三十度を超えている。畑には木陰だってほとんどないのに、パートさんも母も、それを苦とも思っていないように明るかった。
「仲良しになりました! あのね、俺がナンパしたの」
「あら、いやだ」
パートさんはうふふ、と笑いながら、手袋を嵌め、母はその隣で、少し困ったように笑みをこぼしている。僕はというと、腹を立てていた。真宙さんはここで働けるのに、どうして僕だけが「勉強、勉強」と言われて、関わらせてもらえないのだろう。ここは僕の家だというのに。
「母さん、真宙さんのこと、なんで黙ってたの」
「黙ってたわけじゃないわよ。言うタイミングがなかっただけ。あんた、食事中もぶすーっとしててなんにも話さないし、なにか訊いたって返事もしないじゃない」
「そんなことないよ!」
「そんなことあるわよ。さぁさ、もう行ってちょうだい。こちとら忙しいんだから。……真宙くん、悪いんだけど、これ作業場まで持ってって」
「了解でーす」
真宙さんはそう言ってから、母に渡された荷車を押し、僕に「またあとで」と言って、片目を瞑る。僕は顔を引きつらせ、無言で鼻を鳴らし、その場を去った。
***
その日じゅう、僕は腹を立てながらも、そわそわして落ち着かなかった。勉強なんか手につかない。昼になって、祖父と父のトラックが帰ってくると、僕は一階へ下りて、その様子を窺い、休憩時間になって、母と祖母が母屋へ戻ってくると、一緒に昼食をとりながら、さりげなく作業場の様子を訊いたりした。僕はとにかく気になっていたのだ。真宙さんがいつからここで働いているのか。いつもは求人募集をしても、パートさんしか取らないのに、いったいどういう経緯で真宙さんを雇うことになったのか。聞けば、答えはとても単純だった。
「お隣だからでしょ」
「……それだけ?」
「そうよ。通勤するのに近いし、花農家にも興味があるっていうから」
「ふうん……」
納得がいくようでいかない。僕は不満たっぷりに口を尖らせる。食卓の端では、祖母がじいっとこっちを見つめ、僕と母のやり取りを見守っていたが、ほどなくして「葵」と静かに呼ばれた。
「なに、ばあちゃん」
「今どき、珍しいよ。ああいう子は」
褒めているのか、否か。なにを言いたいのかもよくわからないが、いつもは口数の少ない祖母が、そう言って微笑んでいるところを見る限り、真宙さんはおそらく、みんなに慕われていた。
「でもさ、じいちゃんはいつも、若ぇのなんか雇ったってしょうがねえとか言ってるじゃん」
「ヒデさんちのお孫さんだから。そこは特別なんじゃないの?」
僕は頬を膨らませる。要するに、真宙さんだけ特別待遇だということだ。べつに真宙さんがずるをしているわけでもなんでもないのだが、僕からすれば、とてつもなく羨ましくてたまらない。
午後、僕は真宙さんがバイトを終える時間まで、机に向かう。夏休みの課題をやっつけてしまおうと思ったのだ。しかし、これがまったく進まなかった。原因は言うまでもない。僕はずっとやりたかった家業の手伝いを、難なくさせてもらえる真宙さんが羨ましくてたまらないのと、真宙さんが「花農家に興味がある」と母たちに話していたのを聞いて、なんだかそわそわしていた。嬉しいような、悔しいような、複雑な心地がして、とにかく早く彼と話したかった。
「あー……、もうやめた!」
僕は出された課題をほんのちょっとだけ進めると、今日の分はもう済ませたことにして、窓から見える作業場の窓をぼんやりと眺めた。
「なんだよ、じいちゃん……。僕には手伝いもさせてくれないのに。なんで真宙さんだけ……」
そんなことをぶつくさ言ってみるわけだが、考えなくても答えはわかっている。家族はみんな、僕がいい大学へ行ってえらくなってほしいと思っているからだ。農業は過酷だと知っているから、僕に同じ苦労をさせたくないのだろう――と、真宙さんは話していた。おそらく、その通りだった。
それでも、僕の気持ちはずっと変わらない。寮生活をしている間は、見ないフリをしていたが、ここへ帰ってくると、否が応でも気付かされるのだ。作業場から漏れて聞こえてくる話し声や、早朝、祖父と父が出ていくトラックの音すら、羨ましくなる。そうして、思うのだ。やっぱり花農家の仕事を学んでみたい――と。しかも、真宙さんがバイトしていると知った今、その羨望の思いは余計に強くなっていた。
「手を引いてくれるのは嬉しいけど、なんだか強引だなぁー」
真宙さんがどこか嬉しそうにそう言って笑っているが、僕としては笑いごとではなかった。彼に振り返り、キッと睨みつける。
今日、祖父と父は、朝早くから市場へ行ってしまったようで、家には母と祖母、パートさんたちしかいない。畑では母と祖母、早番のパートさんがひとり、小菊の収穫をしているところだった。小菊の収穫は早朝でないと、しおれの原因になるため、朝早くから行われる。このあと収穫した花は、作業場へ移され、選定されて出荷用の箱に入れられるのだ。おそらく、真宙さんは今日、その収穫後の作業を担当しているのだろう。
花でいっぱいになった荷車を押していた母が僕と真宙さんに気付き、麦わら帽子のつばを少し上げた。
「あら、葵じゃない。真宙くんも。おはよう」
「どうしたの、ふたり揃って。仲良しになったの?」
パートさんが冗談めかしてそう訊ね、真宙さんと母がけらけらと笑った。朝八時で、おそらくすでに三十度を超えている。畑には木陰だってほとんどないのに、パートさんも母も、それを苦とも思っていないように明るかった。
「仲良しになりました! あのね、俺がナンパしたの」
「あら、いやだ」
パートさんはうふふ、と笑いながら、手袋を嵌め、母はその隣で、少し困ったように笑みをこぼしている。僕はというと、腹を立てていた。真宙さんはここで働けるのに、どうして僕だけが「勉強、勉強」と言われて、関わらせてもらえないのだろう。ここは僕の家だというのに。
「母さん、真宙さんのこと、なんで黙ってたの」
「黙ってたわけじゃないわよ。言うタイミングがなかっただけ。あんた、食事中もぶすーっとしててなんにも話さないし、なにか訊いたって返事もしないじゃない」
「そんなことないよ!」
「そんなことあるわよ。さぁさ、もう行ってちょうだい。こちとら忙しいんだから。……真宙くん、悪いんだけど、これ作業場まで持ってって」
「了解でーす」
真宙さんはそう言ってから、母に渡された荷車を押し、僕に「またあとで」と言って、片目を瞑る。僕は顔を引きつらせ、無言で鼻を鳴らし、その場を去った。
***
その日じゅう、僕は腹を立てながらも、そわそわして落ち着かなかった。勉強なんか手につかない。昼になって、祖父と父のトラックが帰ってくると、僕は一階へ下りて、その様子を窺い、休憩時間になって、母と祖母が母屋へ戻ってくると、一緒に昼食をとりながら、さりげなく作業場の様子を訊いたりした。僕はとにかく気になっていたのだ。真宙さんがいつからここで働いているのか。いつもは求人募集をしても、パートさんしか取らないのに、いったいどういう経緯で真宙さんを雇うことになったのか。聞けば、答えはとても単純だった。
「お隣だからでしょ」
「……それだけ?」
「そうよ。通勤するのに近いし、花農家にも興味があるっていうから」
「ふうん……」
納得がいくようでいかない。僕は不満たっぷりに口を尖らせる。食卓の端では、祖母がじいっとこっちを見つめ、僕と母のやり取りを見守っていたが、ほどなくして「葵」と静かに呼ばれた。
「なに、ばあちゃん」
「今どき、珍しいよ。ああいう子は」
褒めているのか、否か。なにを言いたいのかもよくわからないが、いつもは口数の少ない祖母が、そう言って微笑んでいるところを見る限り、真宙さんはおそらく、みんなに慕われていた。
「でもさ、じいちゃんはいつも、若ぇのなんか雇ったってしょうがねえとか言ってるじゃん」
「ヒデさんちのお孫さんだから。そこは特別なんじゃないの?」
僕は頬を膨らませる。要するに、真宙さんだけ特別待遇だということだ。べつに真宙さんがずるをしているわけでもなんでもないのだが、僕からすれば、とてつもなく羨ましくてたまらない。
午後、僕は真宙さんがバイトを終える時間まで、机に向かう。夏休みの課題をやっつけてしまおうと思ったのだ。しかし、これがまったく進まなかった。原因は言うまでもない。僕はずっとやりたかった家業の手伝いを、難なくさせてもらえる真宙さんが羨ましくてたまらないのと、真宙さんが「花農家に興味がある」と母たちに話していたのを聞いて、なんだかそわそわしていた。嬉しいような、悔しいような、複雑な心地がして、とにかく早く彼と話したかった。
「あー……、もうやめた!」
僕は出された課題をほんのちょっとだけ進めると、今日の分はもう済ませたことにして、窓から見える作業場の窓をぼんやりと眺めた。
「なんだよ、じいちゃん……。僕には手伝いもさせてくれないのに。なんで真宙さんだけ……」
そんなことをぶつくさ言ってみるわけだが、考えなくても答えはわかっている。家族はみんな、僕がいい大学へ行ってえらくなってほしいと思っているからだ。農業は過酷だと知っているから、僕に同じ苦労をさせたくないのだろう――と、真宙さんは話していた。おそらく、その通りだった。
それでも、僕の気持ちはずっと変わらない。寮生活をしている間は、見ないフリをしていたが、ここへ帰ってくると、否が応でも気付かされるのだ。作業場から漏れて聞こえてくる話し声や、早朝、祖父と父が出ていくトラックの音すら、羨ましくなる。そうして、思うのだ。やっぱり花農家の仕事を学んでみたい――と。しかも、真宙さんがバイトしていると知った今、その羨望の思いは余計に強くなっていた。
