東京と千葉を分ける江戸川を越えると、風が変わる。僕はそれを思い出して、深く息を吸いこんだ。しかし、残念なことに、ここは空気が悪い。目の前は複雑に入り組んだ交差点で、近くには国道が通り、乾ききったアスファルトと、排気ガスの匂いがしている。それでも風が吹けば、土の匂いと、刈り取ったばかりの草の匂いがふわりと香ってきて、僕は馴染みのあるそれに、頬を(ゆる)めた。おおかた、近くの河川敷の草刈りがおこなわれたばかりなのだろう。

 今は八月の上旬。あと数日もすれば、世間は盆休みに入る頃だが、夏の太陽はまったく弱まる気配がない。僕は小さな二両編成の電車から降り、ほとんど乗客のいない駅で、周囲を見回す。この駅で降りた乗客は、僕を含めてたったの三人。夕方五時、まだ空も昼のように明るいのに、ここは秘境駅のようだ。僕は小さなホームに立ち、去ってゆく黄色い電車の後ろ姿を見送り、制服のスラックスのポケットから切符を取り出した。地元を走るローカル線では、いまだICカードの利用サービスは実装されていない。

 よくも悪くも変わらない。そんな電車だが、僕は好きだった。目まぐるしく変わっていくものに溢れている世の中で、いつになってもローカルな雰囲気が残るこの町に帰ってくると、僕は少しホッとする。だが、近頃は少しずつ変化もしているようだった。

 駅前に並んでいた小さな惣菜店やよろづやはいつの間にか消え、コンビニやスーパーに変わっている。畑もずいぶんと減ったらしく、その大半は商業施設へと変わり、周辺の景観をがらりと変えている。だが、その風景の中でも。いまだ変わらないものがあると、少し安心する。特に、それが幼い頃からの馴染みがあるものだと余計だった。

 家に帰るの、久しぶりだな……。

 前に実家へ戻ったのは、正月だっただろうか。夏に帰ってくるのは、本当に久しぶりだ。近所に変わりはないだろうか。そんなことを思い、改札の前まで来た時だった。

「おーい、そこのお兄さーん」

 背後から声をかけられた。僕は振り返る。目の前には、ひとりの見知らぬ青年の姿があった。

「これ、今、落としたよ」
「あ……」

 差し出された手の中には、キーホルダーのついた鍵が握られている。見た瞬間に、僕はハッとした。それは、地元の王手食品メーカーの公式ゆるキャラ、みりんちゃんのキーホルダーと自宅の鍵。それがまごうことなき、自分の落とし物だとわかった僕は、慌ててそれを受け取った。

「ありがとうございます。すみません……!」

 ペコリと頭を下げて、お礼を言ってから背を向け、改札口を抜け、家路を急ぐ。久しぶりの帰省で、ぼーっとしていたかもしれない。鍵を落とせば、それなりに音がしただろうに、と僕は歩きながら、自分を叱咤(しった)した。このご時世、家の鍵なんか落としていたら、犯罪に使われかねない。ついでに言えば、このみりんちゃんキーホルダーはイベントでも滅多に販売されない超希少グッズだ。

 失くしてたら二重で一大事だった……。よかった……。

 しかし、安堵(あんど)して数分もしないうちに、ふと気付く。早足で歩く、僕の後ろから軽快な足音が聞こえているのだ。おそらくは五メートルほど後ろだろう。単純に同じルートで歩いているだけなのだろうが、だんだんと距離が近づいてくる感じがして、僕はどうも気になった。

 横断歩道が赤信号になったタイミングで、背後にいた人が隣に並ぶ。ちら、と見ると、そこにいたのは、先ほど僕の鍵を拾ってくれた人だった。おおかた、家の方向が同じなのだろう。

 さっきの人か……。家、この先なのかな。

 この横断歩道を渡った先にあるのは、古い町並みが残る商店街。その先はすぐ江戸川の河川敷になっている。江戸回廊とも呼ばれる地元商店街は、江戸、明治、大正にかけて、水運で栄えた商業の町だった場所だ。今もまだ残る古い建物は、多くが登録有形文化財に指定され、再利用される形で、おしゃれなカフェやレストラン、ギャラリー等に姿を変えている。だが、すべての家がそうではない。ごく普通の住宅も、中にはたくさんある。その一角に、僕の実家もあった。きっと、さっき鍵を拾ってくれた人の家も、近くなのだろう。

 そう思いながら、足を速めた。だが、家の門の前まで来て、僕は立ち止まる。視線を感じたからだ。

「……なんですか?」

 振り向いて、思わず声が出てしまった。ちょうど十メートルほど距離を開けて、さっきの男の人が立ち、僕を見ているのだ。だが、見たところ怪しい雰囲気はない。

「いやいや。隣の家だったんだなーって思って」
「え?」
「俺んちね、ここなんだー」

 男の人が指差すのは、隣の家に掲げられた大きな木製の看板。「骨董屋カザミ」と、達筆な文字で書かれたそこは、老齢の男性主人が営む骨董品屋だ。ご主人は、通称ヒデさん。祖父、竜三の親友である。しかし、記憶の中では、その骨董品屋にこんな若い男の人が住んでいた記憶はないわけで、僕は疑いの目を向けながらも、目を()らした。隣の家に誰が住んでいようが、どうだっていいことだ。僕の人生にはきっと関係ない。

「じゃあねー」
「はぁ、どうも……」

 人懐こそうな笑顔で手を振られ、僕はぺこりと頭を下げ、実家の門をくぐった。綺麗な顔立ちをした、爽やかな好青年。人当たりのよさそうな、優しそうな人だった。ヒデさんの家族か、親戚なのだろうが、あまり他人との間に垣根(かきね)を作らないタイプなのかもしれない。クラスの中にも、彼のような人は多い。誰とでもすぐに距離を近づけて仲良くなるタイプ。いわゆる陽キャという人たちだ。

「僕とは、真逆だな……」

 声に出てしまった。たぶん、仲良くはなれないだろうと思った。