それから数日が経ったある日の放課後。

「ラーラーララー」

俺は調子はずれの鼻歌を歌いながら悠然と廊下を歩いていた。

妹の機嫌が少し良くなったみたいで今朝は早起きして俺の分の弁当まで作ってくれたのだ。

俺の好物の豚の生姜焼きが入れられていて、感動するくらいうまかった。

少しづつ元気を取り戻してくれているみたいだし、俺としても嬉しい。

あんなロクでもない男のことなんて早く忘れた方が美奈のためだ。

そんなことを考えながら、生徒玄関で外靴に履き替えていると聞き覚えのある声がした。

低いけどよく通る声。

まさか。

恐る恐る一年のロッカーの方へ目を向ければ、もう金輪際かかわりたくないと思っていた奴の姿があった。

先日、俺の妹をフッたあの男が。

「センセー、もうそろそろ帰っていいですか。

「源、おまえ俺の話をちゃんと聞いてたか?」

どうやら源は、数学の教師に説教をされているみたいだった。

その教師というのがうちの担任で生徒指導も兼ねている井川だった。

井川に捕まったら最後、1、2時間はこってり絞られる。

かく言う俺も蛇のようにネチっこく詰められたことがあって辟易した。

「せんせー、もういいですか。俺、今日早く帰りたいんですが」

秀麗な眉を顰めてそう言った源は心底うんざりしているようだった。

きっとなかなか解放してもらえないのだろう。

「よく聞けよ、源。お前がテストで手を抜いてることくらい俺にはお見通しなんだぞ。入学試験で首席だったくせにわざと低い点をとるなんて。おまえは万事においてそうだ。いいか、今はまだわからないかもしれないが、油断していたら受験なんてあっというまだからな。長い人生であとから後悔しても遅いぞ」

「わかってます」

源は熱く語る井川に対して憮然と返す。

ばかだなぁ、あいつ、ここはもっと従順な顔をしときゃいいのに。

俺なんて赤点をとって叱られた時でも、もう少しうまくやったぞ。

あいつ、思っていたより不器用なのかな。

などと思いつつ2人のやりとりを興味深く見ていたら、源が井川の肩越しにこちらへ送った視線が絡みついた。

やべっ。

慌てて隠れようとしたが、次の瞬間いきなり声をかけられた。

しかも明るい笑顔とともに。

「あ、先輩。小川先輩じゃないですか。このあいだはどうも」

「……」

「もう身体の方は大丈夫ですか?」

無視をしょうとしたがなおも話しかけてくる。

「は?なんのことだ、おまえなんか知らねーよ」

冷たく言い捨てて立ち去ろうとしたが、なんと源は俺の方へ大股で歩み寄ってきた。

そして心配そうに上から覗きこんでこう言った。

「あの時、身体のどこかぶつけてませんか?」

「あの時って」

「階段で……」

「あ、ああ。あんなの全然平気だ」

初めは何を言われてるのかすぐにわからなかったけど、どうやらこの前俺が階段から無様に落ちた時のことを言っているようだ。

そう言えばあの時、咄嗟に源に助けられたんだった。

じゃなきゃ、あのまま階段から転げ落ちて怪我をしていたかもしれない。かなり勢いもついてしいたし。

だからって恩に着たりしないけど……。

だけどなんとなく借りをつくってしまった気分でやりにくい。

素直に礼を言うのも違う気がするし。

「そっか、良かったです。実はあれから気になってて」

いやいや、おまえが気にすべきはそこじゃ無いだろってツッコミたかったが、我慢した。

これ以上、関わり合いになる気はなかったから。

「あ、そ、じゃあ俺はそういうことで」

早口に言い背を向けたが、源はなおもついてくる。

「先輩、一緒に帰りましょう」

「は?おまえ先生と話してたんだろ」

「あ、もう終わりましたから」

源はしれっとそう言って井川を振り返る。

「先生、さようなら、また明日」

井川はというとそんな源のふざけた態度に怒り狂ったりはせず、呆れたようにため息をもらす。

「なんだ、おまえら知り合いか。珍しい組み合わせだな。
そうだ小川、おまえからもしっかり言ってやってくれよ」

急にこっちに話を振られてゲンナリした。知り合いなんかじゃなくてあかの他人ですと反論したかったがやめた。

「なんて言えばいいっすか?」

ここで拒むとますますめんどくさいことになりそうだから適当に流すことにする。

「テストでズルはするなって、あとは」

そこで井川は少し考えるような仕草をして俺と源を見比べた。

「まあ、いい。
源、おまえもうちょっと小川のいいところを見習え。まあ、それで少しは変わるかもしれないからな」

井川は自分の頭の中の考えに満足したように頷いている。

「はあ、いいところですか。ハハ」

俺は苦く笑った。

見習えって、何をだよ?

俺は勉強もスポーツもこいつの足元にも及ばない自信はあるぞ。

俺の何を見習えって言うんだ。

まったく、教師ってやつは無責任なことを言うもんだなと思っていたら、なんと。

「はい、そうします」

隣の男はむかつくくらいに爽やかな笑顔でそう答えたのだった。