その日の授業が全て終わり、帰りの支度をしているあざらしの元に、まずはぺんぎんがやってきた。

「おっす、あざらし」
「やっふです、ぺんぎん君」

 ぺんぎんは既に支度を終えているらしく、ダッフルコートに身を包んでいる。あざらしもスクールバッグに教科書などを詰め終わると立ち上がり、椅子に掛けていたコートに袖を通した。

「今日だな」
「え? ……あ、はい」
「待ち合わせしてんの?」
「迎えに来てくれるそうで」
「愛されてんなー、あざらしー」
「そういうのやめましょうよ、白熊先輩に悪いですよ」

 ぺんぎんの肩を叩き、彼の冗談を窘めるあざらし。何か言いたげな顔をするぺんぎんには気付かない。
 昨日の昼に、今日の放課後は白熊の家に遊びに行く約束をした。受験生がいる家に、と遠慮する気持ちはあるが、ぜひに、と言われては断れない。なるべく早くお暇させてもらおうとあざらしは考えている。
 教室の壁に掛かった時計を確認し、白熊の教室はもう終わっただろうかと考えるあざらし。やはりいつもの昼休みみたいに、自分から行った方が良かったんじゃないか、なんて考えるが、もう遅いだろう。

「白熊先輩来るまで駄弁る?」
「時間は大丈夫ですか?」
「平気平気。暇だし」
「そうですか……じゃあ、お言葉に甘えて」

 座りまーすと言って、あざらしの前の席に腰掛けたぺんぎん。それに合わせて、あざらしも自分の席に腰を降ろした。

「今年ももう終わるな」
「なんか早いですね」
「これが社会人にでもなったら、あっという間らしいぞ」
「……社会人、ですか」

 あざらしは大学に行くつもりはない。共に暮らす母から、大学に行かせる余裕はないと言われていたから、就職をするつもりでいた。業種とかはまだ決めていない。

「ぺんぎん君は進学するんですか?」
「うんにゃ、そんな頭も金もないから、就職するよ。のんびり働ける所がいいな」
「ぺんぎん君は楽しい人ですから、どこででもやっていけそうですね」
「あんがと。あざらしだって、年上から好かれやすいから、なんとかやっていけると思うぞ」

 そんな、と照れたように笑うあざらしに、がははと笑いながら、ぺんぎんはそっと後ろの出入り口を覗くように顔を動かす。

「……あざらし的にさ、白熊先輩ってどう思うの?」
「え、何ですか、急に」
「いや、何となく」

 あざらしは頬に手を添え、白熊の顔を思い浮かべながら考える。
 どう思っているか。

「……一緒にいて、すごく安心します。頭を撫でてもらえるとすごく嬉しいですし……って、もう高校生にもなって、恥ずかしいですね」
「全然恥ずかしくないよ」

 目の前に座るぺんぎんから発せられた声ではない。後ろから話し掛けられ、あざらしは慌てて振り返る。

「白熊先輩!」
「お待たせ」

 どこか嬉しそうに微笑みながら、白熊があざらしの頭を撫でてきた。

「先輩……!」
「あざらし君が可愛くて可愛くてしょうがないから、撫でてるだけ。俺が好きでやってることなんだから、触らせてよ」
「……うう」

 嬉しいんだけど恥ずかしいな、と言いたげな顔であざらしは白熊の顔を見つめる。やがて、手が離れていくと、ほんのり淋しそうな顔をした。

「じゃあ、行こうか」
「はい。ぺんぎん君、また明日」
「明日~」

 白熊とあざらしはぺんぎんに手を振り、揃って教室から出ていく。
 ──二人の姿が完全になくなった頃、気持ち大きな声でぺんぎんはこう口にした。

「何でまだ付き合ってないの? 完全に好き同士じゃん!」

◆◆◆

 白熊が暮らす祖母の家は、海沿いにあった。
 歩道から海を眺めながら、白熊とあざらしは並んで歩いていく。
 拳一個分空いた距離。横を通り過ぎる車の走行音。

「みーちゃん、今日は南極さんと図書館で勉強してくるって言ってたから、騒いでも大丈夫だよ」
「いえいえ、下の階でおばあさんが働いているのに、そんな迷惑は掛けられませんよ」

 白熊の祖母の家は、下が店舗で上が居住スペースになっている。今日もばりばり営業していた。

「おばあさんのお手伝いはしなくて大丈夫ですか?」
「逆に手伝うなって言われてる。全力であざらし君をもてなせって言われたよ」
「なんだか悪いです」
「気にしないで、全力でもてなされてよ」
「全力って」

 二人で笑い合いながら、そっとあざらしは考える。
 白熊の祖母の家には何度もお邪魔させてもらっている。同好会メンバーで行くこともあれば、こうして二人きり、あるいは鮫島も合わせて三人で、なんてこともあった。
 部屋の中でやることと言えば、おすすめの本を読ませてもらったり、おにぎりをごちそうしてもらったり、おにぎりを一緒に作らせてもらって、互いに作ったものを交換して食べたり。
 やはりおにぎり屋の孫、白熊の作るおにぎりはどれも美味しく、いくらでも食べられた。あったかい、安心する。それに──食べている時に白熊から向けられる視線が、少しだけ、好きだった。
 美味しいでしょう? と訊ねるような視線が。
 あざらしにとって食事は、気付いた時には一人でするものだったから、高校に入って白熊と出会ってから、誰かと共にする食事が楽しいということを、初めて知った。
 もっと一緒に食べたい、なんて、ただの後輩が抱くにしては、おかしな気持ちだろう。

「おばあちゃん、ただいま」
「おかえり~てふちゃん」

 祖母の店に着くと、L字カウンターの中にいた祖母に、白熊は声を掛けた。
 白熊はてふちゃんと、祖母や鮫島から呼ばれている。下の名前が丁治だから、だそうだ。

「あざらし君も、こんにちわ~」
「お、お邪魔します」

 白熊の祖母に頭を下げ、あざらしは白熊と共に二階に向かう。いくつかある内の一つの部屋に入る。元々は広かった部屋を、真ん中に本棚を置いて仕切った、白熊と鮫島の部屋だ。

「来年にはみーちゃんも、大学進学でここを出るから、それまで狭いけど我慢してね」
「いえいえそんな、十分広いですよ」

 用意してもらった座布団に腰を降ろし、あざらしはスクールバッグから一冊の本を取り出す。

「お邪魔させてもらうので、おみやげに」
「あ、読み終わったんだ。こないだから読んでたやつだよね?」
「二周もしちゃいました」
「そんなに面白かったんだ。楽しみだな。あ、俺もあざらし君の為に用意している本があるんだよ」

 どうやら今日は、本の読み合いをするらしい。
 夕食の時間まで、白熊とあざらしは互いに本を読むのだった。