あの日以来、青には会えてない。
 勿論、連絡だって取ってないし、バイト先に来ることもない。――完全に呆れられてしまったようだ。
 しかし、それもそうだろう。
 俺だって、あんな気持ちのままに振舞われたら、鬱陶しいのは痛いほど分かる。理由もなく拒絶されれば、青だっていい気はしない。時間を置いてあのメッセージのやり取りを見返しても、穴があったら入りたい勢いで、情けない。まるで欲しいおもちゃが貰えなかった幼稚園児だ。
『この前はごめんね』
 俺はそこまでメッセージを書いては、文字を消し、何度も溜息を零す。
 意地を張っているわけではないし、頭では早く謝ってしまった方が良いに決まっているのは、分かっている。
 けれど、謝ったところで、また素っ気ない返事を返されるかもしれないと思うと、情けないことは重々承知であるが、怖い。
 ただただ、好きな人に素っ気なくされるのが、ひたすらに怖い。
「大丈夫?」
 猪村に顔を覗き込まれ、なにが? と返すと、
「全体的に」
 と言われた。俺はスマホを机に伏せて置くと、机に突っ伏して腕の中に顔を埋めた。
今更謝ったところで、うざったいだろうか。目を閉じて考えれば、ろくなことが浮かばない。
「宮古~」
 ふと名前を呼ばれて、重たい頭を持ち上げる。
「一年、入江が来てンぞ」
 ――入江……。
 俺はゆっくりと瞬きをしてから、はっと俯きかけた顔を上げて、呼ばれた方へと顔を向ける。クラスメイトが「おーい」と手を振るその奥で、仏頂面のまま、こちらを睨んでいる青がいた。
 ――怖い、でも嬉しい。
「なんか不機嫌じゃね?」
「俺のせいです」
「え、なんで? 喧嘩?」
「いろいろ……」
 俺は席を立つと、今にでも駆け出して、謝りたい気持ちを抑えて、彼のいる前扉へと向かった。
 立ち替わるように、呼んでくれたクラスメイトが、教室の奥へと引き下がっていく。
「……先輩」
 棘のある声に、一瞬身体が竦む。
「ちょっと顔貸して下さい」
 返事もできずに頷くと、先に歩き出した青の後ろをついて行く形で、俺も教室を後にした。賑やかな廊下には、冬の眩しいばかりの日光が差し込み、明るく辺りを照らしている。
 何処に行くのだろうと思えば、青は軽音楽部の部室である音楽準備室へと向かっていた。ポケットの中から鍵を取り出し、がらりと引き戸の戸を開けると、先日彼が座っていたドラムがどっしりと部屋の奥に構えているのが見える。しかし、それ以外は書類が簡易的な棚に押し込められているだけで、雑然としてた。
「入って」
 短く促されるままに、教室に入る。普通の教室の半分程の室内は、空気が籠っているのか、少しだけ埃の匂いがした。
 俺は後ろ手に扉を閉めると、青がこちらに振り返った。
 何を言われるんだろう。
 先に謝ってしまった方がいいのかな。
 そんな事を考えている間も、頭では言葉が回るのに、唇からは言葉が出て来ない。舌にも乗ろうとしない。焦りばかりせり上がって来て、俺は一層きつく唇を引き結んだ。
「……ンな顔しないでくださいよ」
 ため息交じりに言われて、いつの間にか下がっていた視線を上げると、
「俺は怒ってないんです。先輩が怒った理由を知りたいだけなんです」
 怒ってない。
 その一言に、安易にほっとしてしまう自分を感じながら、俺はようやく解けた唇を開いた。
「あんな言い方して、本当にごめん」
「いいンすよ、別に。俺が多分気づかないまま、なんかやっちゃったんだろうし」
「何もしてないよ、本当に」
 俺が勝手に、落ち込んで、それを青にぶつけただけの事だ――今思い返しても、申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。
「……良かった」
 数歩近寄ってくる青に、顔を覗き込まれる。
「マジで勘弁してくださいよ」
 そう言いながら青が頭を肩に押し付けてくる。子どもが親に甘えるような仕草に戸惑いながらも、どうしてもそれが可愛くて。でも、どうしたらいいのか分からなくて、俺は持ち上げた手をどうしようかと、宙を掻いた。
「先輩の機嫌損ねたくない」
「そんな……」
「先輩が俺から目ェ逸らそうとすんの、すげーやだ」
 そう言いながら額をぐりぐりと押し付けられて、俺は更にどうしたらいいのか分からず、彼に体重を掛けられるままに、背後のドアに背中を付ける。
 心臓がまた勝手に、身体の中で駆け回り出しているのが嫌という程分かった。
「大体何だよ、用事って。バイト以外になんかあんの? アンタもう受験終わってんだろ?」
「俺にだって色々と……」
 ――なんもないけど……。
 言葉に出してみるけれど、これより先に言葉が続かない。でも、今なら素直になれるかもしれない、という思いが、ふと浮上してくる。
「でも、俺」
「入江~、いるんだろ~?」
 不意に背後からドアを叩かれて、身体がびくりと跳ねてしまう。俺は慌ててその場から距離を取ると、青は舌打ちをして、扉を開いた。
「なに、今ちょっと話してんだけど?」
 あからさまな不機嫌さを前面に、青が扉を開いた先の男女を睨みつけた。すると、その内の一人の女子が、
「そんなキレないでよ~」
 と、青の腕に何の抵抗もなしに、抱き着いた。
 俺は思わずそこからさっと視線を逸らし、丁寧に呼吸をする。醜い嫉妬をまた表面に出して、気まずくなりたくないし、面倒なんて思われたくない。
「……離して」
「え、なんで? いつも通りじゃん」
「やだ、離して」
 顔を上げると、青は女の子の腕からゆっくりと腕を引き抜き、彼等を教室の外へと追いやる。
「用事あったら、あとで聞く。今は先輩と大事な話してるから、邪魔しないで」
 青ははっきりと真っ直ぐな眼差しでそう告げると、扉を閉めて、今度はきっちりと鍵まで掛けてしまった。扉の向こう側では文句を吐き散らす彼の友達が騒いでいる。
「鬱陶しい……」
「そんな事言うなよ」
 彼らは一頻り騒ぐと、それで満足したようで、足音が声とともに遠ざかっていく。
「てか、これかよ」
「え、なにが?」
「何がじゃねえよ、アンタほんと……ッ」
 青は言葉を飲み込むと、長い溜息を重々しく吐き出して、顔を上げる。ぱちりと寸分の狂いなく重なった視線の向こう側には、少し拗ねたように眉を寄せている青の顔があった。
「いや、俺が悪い気がする」
「だから、何の話?」
「女にくっつかれる問題の話」
 思いもしない所を言い当てられて、俺は言葉を失った。俺はそんなに、あからさまに今顔に「嫌だ」と出ていたのだろうか。
「え、ご、ごめん、そんなつもりじゃ」
 慌てて言い訳を頭で組み立てようとするが、焦れば焦るほどに、言葉は遠退いて行く。
「いーっすよ。俺があんま気にしねぇタイプだから……そか、嫌っスよね。俺もやだし」
「え、やだって」
「……俺も、先輩が誰かとくっついてんの見るのはヤダってこと」
 ――息が止まるかと思った。
「え、えと……」
 青の目元が少しだけ赤らみ、ピアスの連なる耳輪が熱を孕んで赤くなっている。その表情は少し不満気で、不機嫌で、すごく可愛くて。
「なんでアンタまで真っ赤なワケ?」
「だって……」
「なあ、なんでだよ」
 そう言いながら一歩一歩と詰め寄ってくるので、俺は近づいた分離れ、またその分近づいてくる青から、後ずさりしながら逃げる。しかし、ドラムのそばまで追い詰められて、俺はなす術なく俯いた。
「理都先輩」
「は、はい……」
 思わず敬語になってしまうと、俯いた目の前に、二枚の紙を差し出される。細長いそれは、ライブのチケットだった。
「……え? ライブのチケット? 青の?」
 驚いて顔を上げると、
「そ、観に来て欲しいなって」
 俺はその二枚を受け取ると、目の高さまで持ち上げて、じっとそれを見つめた。
「この前サポートで入ったバンドから誘われて、加入前提でまたライブ出る事になった」
 しどろもどろにそう答える青を見上げる。
「メンバーとの相性も悪くなかったし、すげえ楽しかった。先輩が言うように、俺の技術見て誘ってくれてんだって思ったら、いつでも二の足踏んでんのは自分じゃんって……」
 彼の決断の中に、俺の言葉も含まれていたのだと思うと、胸の奥が熱くなった。
 俺はつい嬉しくなって、青の手を握って頷いた。
「頑張って! 俺すげー応援する!」
 青が自分がしたいことを見つけて、そこへと一歩踏み出してくれたことが、すごく嬉しい。俺が何かを決断したわけでもないのに、何とも言い難い達成感のような、喜びに満たされていく。
「……じゃあ、それ来てくれる?」
「行くに決まってる!」
「二枚あるから、誰か誘ってきて。アンタ一人だとなんか不安だし……」
「おい、俺は青より二つも年上!」
「分かってンよ。俺が一人にしたくねえの」
 彼が意図するところがイマイチ把握できないけれど、猪村を誘おうと決めて、有り難くチケットを貰うと、
「なあ」
 と、話の続きと言わんばかりに身を寄せてくる。
「あ、チケット代?」
「アホか、そんなんいらねーよ」
 話を逸らしてみたつもりだが、そうもいかないらしい。右足の踵に、ドラムの何処かがかつんと当たって、もうこれ以上逃げられないのだと思い知らされる。
「ち、近いって」
「じゃあ、逃げんなよ。理都先輩が逃げるから、俺が追いかけるんじゃん」
 言われた通りで、何かを言い返す術もない。
 俺が逃げるから、青が追いかけてくれる。俺は追いかけられる事に甘えて、青の乱暴な我儘さに、ある意味救われている気がした。
「ライブあと、時間下さい」
「……わかった」
 頷きながら答えると、青は俺の頭に大きな手を置いて、優しく撫でてくる。まるで、小さな子どもを褒める時のような仕草で、恥ずかしくなって――でも、それと同時に、嬉しくもなって。
「いい子ですね、先輩」
 そう言いながら伸びてきた二本の腕に、抱き締められる。俺よりも背がずっと高いと思っていたけれど、すっぽりと腕の中に収まってしまう感覚に、身体中が心臓になってしまったように、どくどくと視界が揺れた。
 けれど、それと同時に蘇ってくる電車での青の言葉が、胸を冷たく掠めた。
「……これも、ノリ?」
 怖くなって口にはしないと思った言葉が、意図せず、唇からほろりと零れてしまう。
 本当はこんな女々しい事を、言いたいわけじゃない。面倒な事を口走った先から、後悔が溢れて、思わず彼の腕から抜け出そうと腕を突っ撥ねるが、それよりも大きな力で、更に強く抱き締められた。
 骨がみしりと、音を立てそうなくらい。強くて苦しい。
「ノリじゃない。本当はずっと、ノリじゃないです……。ごめんなさい」
 そう言いながら、青の頬が髪に擦り付けられるのが分かった。
「ノリで男の手ェ握ったりしねーよ」
 そう言い切られると、心の底から熱くも冷たくもない、微温湯のような心地良い波が溢れてくる。青の言葉が心底沁みて、固まっていた不安が解け、陽に照らされた雪のように、溶けていく。
「うん……」
「信じて」
「信じる」
 俺は青の制服の背中に手を回して、彼の身体を抱き締めた。