音楽室は二階だというのに、聞こえてくるギターやドラムの音に、教室の誰もが反応を見せていた。
「今、入江君のいるバンドがやってるらしいよ」
「見に行っちゃう?」
 嬉しそうな女子たちの会話を横に、教室を出ていく彼等を見送る。
「俺等も見に行ってみる?」
 男子までもが席を立ち、
「これ、見れるんかな」
 帰りのホームルームを終えた猪村が振り返ると、苦笑いをしながら呟いた。
「いやァ……無理臭くない?」
 このクラスだけで、これほどまでに注目されているのだ。きっと今音楽室は、青の姿を一目見ようと人だかりができているに決まっている。
「とりあえず、行くだけ行かね?」
 俺は猪村の誘いを受けると、帰り支度の済んだ鞄を肩に、二階にある音楽室へと急いだ。
 吹奏楽部が音楽室で練習しているその隣――音楽室の隣にある準備室が、どうやら軽音楽部の部室となっているようで、出入り口には人だかりができていた。
 容赦なくギターをかき鳴らす音や、あの時初めて聞いた心臓を鷲掴みにする音が、鼓膜を劈く。ボーカルの声量が足りないのか、周りの音が大き過ぎるのか、歌声が聞こえないのが、少し残念だ。
「これ……やっば」
「すごいね……」
 男女比率は半々だろうか、準備室の出入り口には派手な一軍の男女が固まり、煽るように声を上げていた。
 俺はつま先立ちをして、一番後方から室内を覗き込む。すると、視線の真っ直ぐ先には、ボーカルとギター、ベースと三人が並び、その最奥に青の姿が見えた。
 ジャケットを脱ぎ、ワイシャツを腕まくりして、スティックを握り振るう青が、真剣な眼差しで音楽と対峙している。
 どくりと大きく心臓から血が流れて、緊張にも似た痺れが、背筋から脳天へと駆け抜けた。
 一曲が終わると、歓声と拍手が沸き起こり、ボーカルの少年が、嬉しそうに手を振っていた。一方の一番後ろにいる青は、あまり周りに興味がないという雰囲気で、ペットボトルの炭酸水を飲んでいる。
「青かっけー!」
 そんな声が飛ぶと、彼の視線が持ち上がった。かけられた声に応えるように、彼は手にあるスティックをくるりと回し――そこで目が合った。
 青は俺に気付くと、少し驚いたように目を丸くしてから、はにかむように薄っすらと笑った。
「何照れてんの、可愛い入江」
 女子の声に、違う違うと首を振って応える青だけど、女の子の黄色い声に気圧されたように、俯いてしまった。
「次何する?」
 目の前の少年たちが話し合う中、青だけは俯いたまま何かをしている。
 どうしたんだろうと思っていると、不意に制服のポケットの内側が震えた。
 青からだ。
『来るなら言ってよ、もっとちゃんとやるのに』
 その文面を見て、思わず顔を上げると、一瞬だけ青は舌を出して、不満気に眉を寄せる。それがなんだか拗ねた子どもみたいで可愛い。
『いつでも本気でやりなよ』
 そう返信をすると、
『うい』
 と、短い返事が返ってきた。
 曲が決まったのか、彼等と話し始める青を眺めていると、前にいる生徒達がスマホを起動させて、バンドメンバーの動画を撮り始めた。中には、青のアップ姿を撮影する女子の姿がちらほら見える。
 俺はスマホをポケットの中に仕舞うと、その時を待った。そしてそれは、青の激しいドラムの音とともに始まりを迎えた。
 先ほどよりも強弱の激しいリズムが、前面に出されて、恐らくここにいる観客すべてが青に釘付けだろう。
 あの細腕のどこにそんな力が隠れているのだろうかと、不思議になる位力強い演奏だ。周りを無視して、びりびりと伝わってくる振動は、俺の心臓を鷲掴みにして、視線をも離してくれない。
バンドとしての調和なんて無視しているのは分かった。あまりにも青が異彩だった。
「すげ……」
「かっこよぉ~、むりむり」
 うっとりとするような曲でもないのに、周りから零れる感想が、蕩けている。
 俺はその一曲を全神経を集中させて、耳を傾けた。その時間はあっという間で、青のドラムとそれを演奏する彼の姿しか入って来ない。
 曲が終わると、自分が青しか見てなかった事を自覚して、俺はなんだか恥ずかしくなった。
「いやぁ……すげえけど、なんか今の曲ドラム張り切り過ぎじゃね?」
「あー……そうかもね」
 猪村の指摘に、俺は苦笑いを浮かべて何とか同意すると、また視線を上げて、彼を見つめる。こちらを見ていた青が、薄く笑んだ気がした。その笑顔が自分に向けられているのだと思うと、酷く胸の奥が締め付けられてしまう。きゅうっと細い糸で心臓をきつく締めるような感覚。
「ちょい休憩」
 そう言いながらそれぞれが、楽器を手放していく。青がふと立ち上がると、俺もなんだか一歩踏み出したくなって、思わず身体を傾けた。
 けれど。
「青すげーよ!」
「かっこよすぎ!」
「ねえ、動画上げていい?」
 俺よりもずっと前のめりな人だかりに囲まれ、俺は思わずその場で二の足を踏んだ。
 青は一瞬こちらに視線をくれるけれど、人に囲まれて動けないというように、視線を逸らす。
「大人気じゃん」
「あれ見せられたら、そうなるんじゃない?」
 なんだかちょっと、面白くないような……。なんて思いながら眺めていると、楽し気に談笑している内の一人の女子が、青の腕に自分の腕を絡ませた。そしてその女の子の細いきれいな指先が、何の躊躇いなく青の指に絡まる。
 じくりと深く、ナイフを突き立てられたみたいに、胸が抉れた。
「あの子彼女かな」
 猪村の何気ない疑問に、頭の奥がじんっと傷んで眩暈がした。逸らした視線をもう一度青へと向けるけれど、彼は輪の中心で、楽しそうに喋っている。
 俺はそのなんてことない、当たり前の世界に、はっきりと傷付いた。
 ――あ、ヤバい。
 誤魔化しようのない失望とか悲しみとか。そういう目に見えないものが、視界の明度をぐっと下げる。――さっきまでの煌めきなんて、あっという間に消え去った。
「ノリ」
 先日の夜の青の言葉を、思い出す。
 ノリだと前置きされていたはずなのに、俺はなんであの空気を、心の底から信用してしまったのだろう。
 男同士でも、雰囲気がそういう感じだったから、手を取り合っただけで、そこには何の意味もなかったんだ。
「そっか、ノリ……だよな」
「へ? なにが?」
「なんでもない。こっちの話し、俺そろそろ行かなきゃ」
 俺は猪村の引き止めてくる声を無視して、急いで昇降口へと階段を駆け下りる。上履きからローファーに履き直して外へ出ると、制服のポケットの内側が震えた。
『どこいくの? まだやるんだけど』
 当たり前のように自分が最後まで見ていくと思っている、悪気のない信頼に、じくりと胸の奥が痛む。身勝手と分かっていても、青の期待に応えられる自信が、今はない。
『用事あるから帰る』
『なんか怒ってる?』
『怒ってない』
『あんた普段そんな言い方しないじゃん、何怒ってるの? 教えて』
『しつこい』
『は? 聞いてるだけじゃん。俺が何かしたなら、謝りたいだけなんですけど』
『だから怒ってないってば』
『あっそ』
 ――やってしまった。
 青から戻ってきた素っ気ない一言に、さっと血の気が引いて行く。俺は短いやり取りを読み返し、明らかに自分が幼い行動だと自覚する。
 でも、素直になることがどうしてもできなかった。素直に「ノリ」の行動を本気しました、なんて口が裂けても言いたくない。
 俺は歩いていた足を止めて立ち尽くす。早歩きだったせいで、学校はもうずっと背後になってしまったが、俺は何かを追いかけるように振り返った。
 けれど、目の前にはちらほらと歩いている帰宅途中の生徒ばかりが目立つだけで、青の姿はない。
 俺は寂しさと一緒に、悲しみと、やるせなさと、強烈な青への恋を自覚した。