来ないな……。
八時も五分前になり、そろそろバイト上がりの準備をしようかと思い、ふと店の出入り口に視線を投げる。けれど、いつも来るだろう青は顔を見せない。
今日は練習がなかったのだろうか。
いつもなら、俺のバイトに合わせて殆ど毎回顔を出してくれるのに、今日はその気配もない。
何となく寂しい気持ちになりながら、レジのチェックをしちると、自動ドアの開く音がして、
「わ、私服イケメン」
店長のうっとりとした声が聞こえた。俺は店長の熱い視線の先へと視線を投げると、
「間に合った、まだいた」
私服姿の青がいた。
グラデーションの掛かったグレーのデニムに、デッキジャケットとパーカーを合わせており、いつもよりも大人っぽく見える。長めの後ろ髪は緩く結ばれており、思わず店長と一緒に見惚れてしまった。
「理都先輩、おつです。もう終わる?」
「あ、ああ……どうしたの、私服で」
声を掛けられ、なんとか気を取り戻して笑顔を取り繕う。
「兄貴の友達のバンドのサポートがあって」
「ん……? ここら辺にライブ会場あったっけ?」
それ程大きな駅でもないので、ライブハウスがあるなんて聞いた事もない。
「ないですね、だからすぐ戻んなきゃなんだけど」
そう言いながら、青は「ミルクティー、すげえ甘いの」とリクエストしてくる。
「え、いいの? 時間大丈夫?」
「へーき、とりあえず俺等の番まで時間あるんで」
そう言いながら決済を促してくるので、俺は渋々青に従い、会計を済ませた。
「いつものとこ座ってっから」
そう一方的に言うと、青は受け取りカウンターへと進んで行ってしまう。俺は声を掛ける間もなく過ぎて行ってしまった青を視線だけで追いかけた。
何しに来たんだろう。
俺は首を捻りながら、時計を見上げて八時を過ぎているのを確認すると、バイトの先輩や店長に頭を下げて職場を後にした。
急いで俺に会いに来る用事……。
ライブ出る事に、テンションが上がって会いに来ちゃったとか? なんて、色々な予想を立てながら高校の制服へと着替えて、彼の待つ店内へと向かう。
何も買わずに店内に居座るのも忍びなく、ホットコーヒーを買ってから、青のいるテーブルに向かった。
上着を脱いで、ぼんやりと外を眺めている青の姿は、俺より二つも年下なのに、大学生くらいにも見える。きっと身長が高いせいかもしれないし、大人びた横顔のせいかもしれない。
「青、どうしたの?」
声をかけながら向かいに腰を下ろすと、はっと顔を上げた彼の頬は、少し紅潮していた。俺を見つけると、少しだけ表情が緩んで、年相応に見えるのが、何となく後輩らしくて可愛い。
「理都先輩、おつです」
「お疲れ様。どうしたの? 何かあった?」
単刀直入に切り出してみると、彼はきょとりと目を瞬かせて「なにが?」と首を傾げる。
「いや、ライブ抜け出してまで来るから、どうしたのかなって」
「別に、先輩に会いたかっただけ」
「……なんだそれ」
すぐに反応できなかった事を後悔しながら、意識して笑ってみるけれど、俺は上手く笑えているだろうか。こんな時、どんな顔をして彼を見ればいいのだろう。
「明日も学校で会えるじゃん」
「俺は理都先輩とこうやって会うのが好きなんです」
青はそう言いながら、もう半分くらいになったミルクティーに口を付けた。
「ライブ抜け出してまでくることかな」
「来ることですよ。俺としては」
さらりと言い放つ青の何気ない言葉に、心臓がまた緊張して、一人で走り出しそうになってしまう。
これを無意識にやってるとしたら、青はとんでもない男かもしれない。俺はそんな事を思いながら、次にくる言葉を探しつつ、ホットコーヒーに舌先を浸す。
ぴりっとした熱と、苦味がゆっくりと浸透してくる。
――青が何を考えているのか知りたい。
不意にそんな欲望が湧いて来て、いつの間にか下がってしまっていた視線を上げると、こちらを見ていた彼と、ぱちりと視線が重なった。
「なに?」
「そっちこそ」
ふっつりと会話が途切れて、一体この時間は何なのだろうと自問自答する。けれど、この感じ、この空気は――嫌いじゃない。
「先輩、もう真っ直ぐ帰るだけ?」
「そうだね。制服姿だから、どこかに長居できるような感じでもないしね」
「あー……そっか」
「青の私服、かっこいいね」
話題を探すようにそう呟くと、彼は「そう?」と首を傾げながら、自分の服装を見下ろした。
「まあ、兄貴の借りもの多いけど」
「お兄さんいるんだ」
「兄が二人、俺末っ子なんです。理都先輩は?」
「俺は妹が一人」
「妹可愛いだろうな」
「可愛いよ、今小学一年生」
「無条件に可愛いヤツじゃん」
俺達は、こんな話をするために、二人きりでいるのだろうか。――なんか違うはずなのに、それでもこの生ぬるい、何も有意義でもない時間が愛おしく思えてしまう。
「今回もサポート?」
「はい、すげーいい人達で、音楽にも積極的で、久し振りに良いバンドサポートできたかもって思ってます」
そう嬉しそうに語る青に、思わず笑みが零れてしまう。感情の表現が薄い青だからこそ、はっきりとした喜怒哀楽が見て取れると、それだけで胸の内が温かくなる。
「お兄さんもバンドを?」
「いえ、ただの音楽バカです。楽器のセンスゼロですね。でも音楽選ぶセンスだけはいいんすよ」
どうやらお兄さんを尊敬しているようで、兄の話になると、青の瞳の奥が少しだけ輝くように見えた。
「いいね、仲良さそう」
「割と。てか、すんません、もうそろそろ」
そう言いながら、青がスマホの時計を確かめる。時刻は八時十五分。――たった二十分程度の滞在の為に、彼が離れた場所から来たのだと思うと、申し訳ないような嬉しいような、複雑な気持ちになってくる。
席を立ち、俺は少し残った珈琲をそのまま返却棚に返して、二人で店の外に出た。
目の前を大型トラックが、一台通り過ぎていく。
「……俺、迷惑でした?」
前触れもなく、意外な質問が飛んできて、俺は驚いて顔を上げた。こちらを見下ろしている青は、すぐに視線を別の方へと投げてしまい、今何を考えているのか分からないけれど、その声音は、少しだけ拗ねているようにも聞こえた。
「なんで?」
「いや、だって。付き合わせた感すげえから」
「そんな事ないよ」
慌てて首を横に振り、俺は青の二の腕を引いた。
確かに短い時間の為に、申し訳ない気持ちはある。
でも、話せて嬉しい、会えて嬉しい――だって、俺は青を探してたから。
口を継いで言いそうになった言葉を自覚して、急に羞恥心が込み上げてくる。
「えと……、俺も話したかったから、全然来てくれて嬉しかった」
「……ほんとに?」
「ホント!」
真っ直ぐと顔を見て、伝えると、強張っていた彼の表情が、やんわりと解けていく。白い街灯の下、冷たい空気に少しだけ赤くなった鼻先が、彼の幼さを淡く彩っていた。
「あ、雪虫……」
視界の端。ふと彼の着ているパーカーに、小さな綿毛を付けた虫が留まっている事に気付いた。
「なに、雪虫って」
不思議そうにしている青に「ちょっとそのまま」と言って俺は繊維に絡まってしまっているのか、藻掻ている小さな虫を見つめた。潰さないように注意しながら、爪の先で丁寧に拾い上げてから、「ほら」と、青に見せる。
「尻に綿ついてる……」
「可愛いよね、冬によく見かけるよ。潰れなくて良かった」
俺は爪の先で透明な羽と、小さな真っ白な綿毛のような尾を震わせる虫を、できる限りの優しさをもって、ふ、と息を吹きかけて、冬の空気の中に放つ。空気を浮遊する水母のように、雪虫は夜の中に紛れて行った。
「俺だったら絶対潰してた」
「え、可哀相じゃん」
「俺、理都先輩のそういう無意味に優しいとこ、意味分かんねーなァって思うけど、好きです」
褒めてるのか馬鹿にしているのか、よくわからないな……と思いながら、俺達は駅までをゆっくりと歩く。東京方面に向かうという青と、同じ電車に乗ると、車内はそれ程混雑はしておらず、二人で電車の隅に座った。
「時間、大丈夫?」
「大丈夫です、全然間に合う」
「補導されない?」
「一応兄貴も一緒だし、十一時前に帰るんで大丈夫です」
意外といい子……。
なんて考えているのがバレたのか、軽く頬を摘ままれて、
「顔に出てるんですが」
と不満な顔をされた。
俺は苦笑いしながら「ごめん」と謝って、窓の外を流れる街の景色と、それに重なる俺と青を見つめた。窓ガラスの中で、青と目が合う。
「……これはノリなんですけど」
前置きをするように、青がそう呟いた。何のことだろうと思っていると、左手にひやりと冷たいものが触れてくる。それは俺の手の甲を撫でてから、しっかりと指を絡めるようにして、繋がれた。
「え、な、なに?」
「……ノリ?」
「どんな?」
「なんとなく」
そう言いながら、青は窓ガラスから視線を逸らした。俺はしっかりと青の手と繋がれた自分の手を見下ろす。運よく対面には誰も座っていないし、人もまばらなので、人には見れていないだろう。――でも、
「なんで?」
繋がった指先や手のひらが、熱を共有し、また新たな二人の熱を生みだしていくのが分かる。それを感知した心臓が、とっとと少しだけ大きく存在を主張し始める。
「……嫌ですか?」
「えっと……」
「離した方が良い?」
追いつめられている気がする。
うん、って――外で男同士で手を繋いでるなんて、恥ずかしから離せって言えばいいのに、何故かそれが出て来ない。頭の中で言葉だけが準備されているのに、どうしても声になってそれが出て来ない。
……出したくない。
「……ノリ、だから」
「うん」
「ノリで、このまま」
そう伝えると、俺の手を握る青の手の力が、ほんの少し強くなる。――どうしよう、嬉しい。
電車の窓ガラスには、ただ手を繋いだままの俺達が、何とも言えない顔をしながら、夜の街に浮かび上がっている。
俺達は三駅分、特に言葉を交わすことなく、ただ手を繋いでいた。



