「ねえ、連絡先教えて」
 レジカウンターに来る早々、安っぽいナンパみたいに、青が上半身を乗り出して聞いてくる。
「ハニーミルク・ラテ、シロップなしですね」
「あれぇ? 俺の声届いてない感じ?」
 冗談を一つ挟んで、青は「ハニーミルク・ラテのシロップ追加」と正しく注文し直してくる。俺はそれを素直に打ち込んで、いつも通りのタッチ決済を選択した。
「ン? 俺振られてます?」
 滑らかにいつも通りの決済が完了して、レシートを渡すと、会計を経た青が首を傾げて俺を見つめてくる。
「いや、純粋になんで俺?」
 確かに最近少し絡みはあるけれど、ただの先輩後輩であり、俺は音楽に興味があるわけでもない。彼がやっている音楽の世界も知らないのだ。もちろん、嬉しくないわけじゃないけど、連絡先を聞かれる程の関係とは思えなかった。
「いや、純粋に知りたい」
「俺の連絡先、必要ある?」
「……必要はないかもだけど、もしかしたら、おはようとかおやすみとか、月が綺麗ですね、とか送りたくなるかもしれないじゃん」
 ――なんだそれ。
 思わず笑ってしまうと、青は「いいじゃん」と尚も強請ってくる。俺はそれに根負けして、明日学校で、と約束をした。
 それで満足したのか、俺よりも五センチ以上高い彼は、静かな笑みを口元だけに宿しながら、レジから受け取りカウンターへと流れていく。俺はそれを見守り、席に戻って行く彼の後姿を視線で追った。
青が合流すると、ギターやベースの入っているであろうバッグを壁に立てかけながら、いつもの四人組が、周りの視線も気にせず話し出す。
「理都くん、喋るようになったの?」
 ふと店長がコーヒーマシンを操作しながら聞いてくるので、俺はそれに短く「はい」と返した。
「なんか、意外。懐っこいね」
「俺もそこは意外でした」
 俺は頷くだけに留めて、レジを離れて店内の机を拭いたり、ごみの片づけをした。あの場に居て、店長が青の事をまだ聞いてくるようだと、何となく困る気がしたのだ。
 俺だってまだ青の事について、分からないことだらけだし……何となく聞かれたくない気もした。これ以上青に興味を持ってほしくないというか、なんというか……。
 俺は頭の中で自分に言い訳をしながら、自分のこの曖昧な気持ちを考える。懐いてくれる後輩を独り占めしたいのか、店長が明らかに好意を持っているのが分かるから、面倒臭いと思っているのか。
「理都先輩」
 呼ばれて顔を上げると、いつの間にか席を離れて俺の隣に来ている青がいた。
「八時上りなら、一緒に帰りません?」
「え、でも友達……」
「もう解散なんで」
 気づいて彼らの方へ顔を向けると、既にそれぞれが身支度を始めていた。
「……なんか最近絡み濃くない?」
「ダメっすか?」
「だめっていうか」
 タイプは全く違うのに、どうして絡んでくるのか分からない。青は話しやすい気軽さがあるから、俺は構わないけれど、懐かれる理由が俺にはない。
「俺の周りに居ないタイプなんで、先輩」
「珍しい?」
「珍しいっていうか、落ち着く感じするから、一緒に居たい」
 一緒に居たい。
そのはっきりとした欲を言葉にされて、思わず胸の奥からじわりと熱いものが無意識に溢れてくる。俺は手に持っているダスターを握りしめて、返事に迷いながら、でも言葉が出て来なくて唇が開けなまま、視線をそらした。
「照れちゃった?」
「揶揄うなよ」
「理都先輩、かわいーね」
 そう言いながら手が伸びてくると、青の長く骨ばった指の背が、俺の頬を擽るように撫でた。
「待ってっから」
 それだけ言うと、青はさっさと席に戻てしまう。残された俺は暫く彼の背中を見つめてから、食器やトレイを片付けて、バックルームに戻り、食器の洗い物をする。
 何だあの仕草、十六歳じゃないだろ。
 そんな羞恥心を通り越した怒りに近いものを感じながら、がしがしとグラスや皿を洗い、時計を見上げる。
 ……八時まで、あと五分。
 苛々しながらも、五分に永遠を感じている自分がいることが、何となくやるせない。
 俺は弄ばれているような気がすると溜息を零しながら、泡のついたグラスを洗い切り、ダスターで最後にシンクの水気を拭き取る。
「理都くん、上がっていいよー」
「ありがとうございます、お先しまーす」
 時計を眺めていると、店長がキッチンルームに顔を覗かせた。俺はそれに頭を下げると、急いでスタッフルームに引っ込み、制服へと着替え直す。
 ロッカーに掛けてある、小さな鏡の中で髪を整え直して、スタッフ用の通用口から退勤カードを切って飛び出すと、青の元へと急いだ。
 外に出た瞬間の、きんっと身が引き締まるような空気の冷たさに、頬が熱くなっている事に気付かされてしまう――ああもう。
 正面口から、店内に入り青のいる席に向かった。
 彼は一人でソファー席に腰を浅く座りながら、窓の外を眺めていた。その気だるげな横顔には、先程までの懐っこさも、ショート動画の激しさの欠片もなくて、一瞬歩み寄る歩が止まってしまう。
 俺はゆっくりと彼の元に向かい、青の座るテーブル越しの椅子に腰を下ろした。
「待たせてごめん」
 そう声を掛けると、イヤホンを外しながら、背を正し「おつでーす」と静かに笑む。
「急に誘ってすんません」
「いや、全然」
 俺は鞄を膝に置いて、首を横に振った。
「帰る?」
「あー……はい、先輩どこですっけ?」
「俺こっから東京行きで三駅」
「あ、俺逆だから駅までっすね」
「ここ駅前……」
 ガラス張りの向こう側には、大通りがあり、その対岸はもう駅前である。青も硝子越しの景色を見つめて「あー……」と言葉を濁した。
「……一杯まだ飲める?」
「飲めます」
「驕るよ、待ってくれたお礼に」
「や、でも俺が勝手に」
「良いから、ものすごく甘いミルクティー作ってもらってくるね」
 俺はそう言いながら席を立つと、さっきまで自分が立っていたレジへと向かう。バイトの先輩にうんと甘いミルクティーと甘さ控えめのチャイ・ラテを注文し、それを持って席に戻る。
 青はマグカップの中のそれを覗き込み、
「ありがとうございます。すげー甘い匂いしてる」
 と、嬉しそうに呟いた。微笑むと少しだけ年相応の表情になって、何となく可愛いと思ってしまう。
「甘党だね、ホント」
「甘ければ甘いほどいい」
「ブラックコーヒーとか好きそうなのに」
「よく言われる。外見一人歩きって」
 俺はまた、彼の何気ない言葉に吹き出してしまった。
「先輩、連絡先交換しましょ。SNSもなんかやってねーの?」
「なんでそんな繋がりたがんの?」
 別にいいけど、と言葉を付け足して、俺は鞄の中からスマホを探り当てると、青とメッセージアプリで繋がった。出て来た彼のアイコンは、何故か蝉の抜け殻のアップ画像だった。
 イマイチ彼のことが、掴み切れない。
「わかんねーけど、今はとりあえず先輩の事知りてーの。ダメ?」
「ダメじゃないけど……」
 俺にSNSアカウントはないので、ないよと伝えると、
「現代人? どうやって情報取り入れてんの?」
 と驚かれた。
「普通にあんま興味ない」
「なんか武士っぽいですね」
「意味わかんね」
「ノリです、ノリ」
 彼はスマホの上で親指を躍らせると、すぐにそれを伏せてテーブルの上に置いた。それから湯気の立つミルクティーを浅く啜る。
「あっま、うまい……」
 白い湯気の立つ向こう側で、彼の眼差しがとろりと解けるような気がした。
「じゃあさ、先輩は俺の動画知らない?」
 突然真っ直ぐに問われて、俺は少し迷ってから、それは見たよ、と答えた。ここで嘘を吐く理由はなし、青があの動画をどう思っているのかも知りたかった。
青は「そか」と呟くと、ふうっとカップの上の湯気を吹いて飛ばした。双眸は静かに無表情を決め込み、あまり好意的ではないのかな、と頭を過る。
「どう思いました?」
「腕が五本くらいあるのかと思った」
「俺バケモンじゃん、ウケる」
 今度は青の方が笑った。
 俺はそれに少しほっとして、強張っていた肩の力を抜いた。
「でもすごいな、って正直に思ったよ。なんかびりびりって来た。ぐわって身体の中から鳥肌立つみたいな」
「感想がヘタクソ過ぎだろ」
「うるさいなあ」
 今度は二人で笑うと、少しだけ淡い空白が俺と青の間に落ちる。それは確かに一瞬だけ存在して、雪解けのように消えて行った。
「青は音楽好きなんだね、いつも一緒に来るのはバンドメンバー?」
 彼らはいつも学生鞄の外にもギターケースなどを抱えて現れるから、そうだと思い込んでいたが、
「いや」
 と、青は首を横に振った。
「え、そうなの?」
「俺は基本サポートなんで、どこのバンドにも入ってないっすよ。ドラムやれる奴がいないから、穴埋めで入ってるだけです」
 意外な事実だ。
「バンド組んだりしないの?」
 青は俺のさらりと口を継いで出てしまった質問に、うーん、と首を捻りながら、天井へと視線を投げた。
 あんなに人気で、恐らく上手いと言われるような域なのに。それとも、俺が知らないだけで、どこにも入らず、サポートだけで入るというのは、普通の事なのだろうか。
「ご、ごめん、俺全然事情分からなくて」
「いや、……俺の気持ちの問題っていうか……」
 青はちらりと俺を伺ってから、マグカップの中へと視線を落とした。
「青臭いかもしんねーンだけど、コピーばっかとかじゃない、本気で音楽好きな奴とやりたいンすよね。だから、友達と組んでも満たされねえっつーか」
 所詮部活引退までの、お遊びコピーバンド。それがダメとは言わねえけど、と青は言葉を濁した。――でもきっと、そのスタンスは、青には合わないのだろうなというのが、すぐに分かった。
「かと言って、ライブ行って本気でやってるバンドが、俺みたいな未成年相手するわけねーし」
「あんなに上手いのに?」
 何も知らない俺のような奴に上手いと言われても、説得力はないかもしれないけれど、俺は複雑そうに顔を歪める青を覗き込んだ。
 少なくとも、音楽を何も知らない俺は、あの一分にも満たない短い時間の間、心を掴まれたのに。何が不足というのだろう。
「本気でバンド組むってどういうことか、俺には分からないけど、青の年齢じゃなくて、腕を見ると思うけど。必要なのって腕と熱意じゃないの?」
 俺はテーブルに上半身を預けるように前のめりになると、青は少し身体を引いて、じっと俺を見つめてくる。
「青の短い動画だけしか見てないけど、息が止まる位、全部の意識持ってかれたんだから」
 そうだ――あの時の俺は呼吸を止めてしまう程、息の仕方を忘れるほど、青の姿に釘付けになった。心臓を鷲掴みにされ、揺さぶられたのだ。そんな彼の演奏をすごいと思わないなんて、それそこ節穴じゃないか?
「青のドラム、ちゃんと真っ直ぐ見てくれる人は、絶対にいると思う。俺は諦めないでほしい」
 青は視線を泳がせると、最後に俺を見据え、小さく頷いた。まるで拗ねた子どもみたいな仕草で。俺にはそれが何だか可愛らしく見えてしまい、手を伸ばして、俺がやられたみたいに、青の頭を撫でてやる。
「諦めないで」
 思った以上に柔らかな髪質は、明るい色の割に痛みが少なく心地良い手触りだった。
「先輩は、俺がバンド組んだらライブとか見たいって思いますか?」
「当たり前じゃん! 見に来るなって言われても、絶対勝手に行っちゃう!」
「授業参観の母親じゃん」
 青はたまらずというように噴き出すと、俺達は二人で笑った。沈んだ空気がふわりと宙に浮かぶようにして、何となく軽くなった気がする。
 俺達は少し冷めたチャイとミルクティーを飲み干すと、冬を迎えた冷たい夜の中に出た。
 駅までの短い道のりを静かに歩く。ふっと口から息が洩れれば、白い綿毛のような息が、冬の夜を湿らせた。
「じゃあ、俺は反対なんで」
 青はそう言うと、改札を潜り、向かいのホームへと足早に階段を上がっていく。
「また明日ね」
 思わずそう声を掛けると、階段の一番上に上り詰めた青は振り返り、手を振ってくれた。俺もそれに応えるように手を振り返す。
 彼の去った階段上をぼんやりと眺めてから、俺はいつも乗る、三号車両へと移動した。歩いていると、ふと電車到着のアナウンスが流れ、滑らかに青のいるホームへと、各駅停車がゆったりと入ってくる。
 不意にポケットの中のスマホが震えた。
『おやすみ、先輩。また明日』
 青からの、初めてのメッセージだ。
 本当におやすみってメッセージしてきたな、と思わず頬が緩んでしまう。俺はスマホの画面の上で指を躍らせた。
『おやすみ、青。また明日ね』