頭を撫でられた時、俺は怒るべきだったかもしれない。
「先輩なんだぞ!」
 とか、
「初対面で頭撫でるな!」
 とか。理由なんて何でも良かった。
「理都先輩、おはよ」
 一年から三年までが交わる昇降口で、あの日以来青は俺を見つけるたびに手を振ってくる。熱意も体温も低そうな青は、それらに見合わず、人懐っこいようで。
「理都先輩、今日も良い地位だ」
 今日も遠慮なく懐いて来ては、俺の低身長を揶揄うように、肩に頭を乗せてくる。
「重い、どいて」
「え? 聞こえない。青くんかわいいって?」
「ちげーよ」
 知らない振りをしながら、後頭部に額を押し付けてくる。まるで子猫が甘えるみたいに。
「ねむ。一緒にサボろ」
「勉学に励めよ、学生」
「学生ってね、世の中に歯向かう事が青春なンすよ」
「歯向かうレベルが低いんだわ」
 俺は右肩にある彼の額をぺちりと叩いて、追い払うと、教室のある三階へと向かった。
「先輩、今日バイトは?」
「ある」
「りょ、んじゃ練習終わりに行きます」
 そうひらりと手を振って、青は自分の教室へと向かっていく。俺はそれを見送ってから、足早に階段を上がった。
 部活に所属していなかったから、知らなかったけど、後輩に懐かれるとうのは、悪くない。
低身長を揶揄われるのは、素直に腹立つけれど、先輩先輩と懐かれるのはやはりどうしても、悪い気はしないのだ。
 俺は教室の中に入ると、自席について、鞄を下ろした。
「おはよー」
「おー、はよ。てかさあ、お前最近、入江青によく絡まれてね?」
 自席前に座る友人――猪村に声を掛けると、不思議そうに振り返ってきた。彼も教室に着いたばかりなのか、鞄から教科書を出している最中だったので、俺と青のやり取りを見ていたのかもしれない。
「あいつ、俺のバイト先の常連なんだよ」
「ああ、駅前のカフェ?」
「そう、前からいるなって思ってんだけど、この前自販機の前で気付かれて、そっから懐かれた」
「懐くとか意外。つんつん猫っぽいのにな」
 ――それは思った。
 確かに見た目は何事にも冷めてそうで、人になんて興味なさそうなのに。
「そう言えば、あいつの動画見たことある?」
 そう言いながら、猪村は急いで机の中に教材を入れると、ポケットからスマホ取り出して操作する。俺はそういえば、と思いながら首を横に振り、席に着いた。
「見る? 低体温系みたいな顔してっけど、マジでやべーから」
そう言いながら、ワイヤレスのイヤホンを片方を差し出されて、それを素直に受け取り、耳にはめる。俺はスマホの画面を向けられて、それを何となく覗き込んだ。
俺の知らない、青の一面……そう思うと、少しだけ何故か緊張してしまう。だって、俺の知っている青は、気怠い雰囲気の生意気な猫だから。
映し出された画面には、大きめのバンドTシャツにデニムを姿の青が映っていた。大きなセットのドラムを前にしてスティックを回す彼と、撮影者と楽し気に談笑している姿から始まり――一瞬画面がブレたかと思うと、激しいドラムの演奏が始まった。
鼓膜を直接叩かれるような、心臓を鷲掴みにして、直接揺さぶるような。そんな身体の芯を揺らす音が鼓膜を劈く。Tシャツから伸びる細い腕からは想像できない力強さだ。
「ま、これはバズるよな」
 猪村が呟く。
 上手いとか下手とか分からないけれど、一瞬にして、意識も身体も支配されたという感覚だけは分かった。
 一分あるかないかの短い動画が一瞬で終ってしまうと、次の動画へと移動してしまう。俺はいつの間にか緊張していた身体を解いて、耳からイヤホンを引き抜いた。
 なんだ、今のは……。
 ど、ど、と心臓が大きく脈打っている。
「この動画送ってもらえる?」
「おけー」
 彼はスマホの上で、親指を滑らせると、俺のスマホがすぐに震えた。俺は動画のアドレスを確認してから、スマホを鞄の中に突っ込んだ。
「やばくね? 入江ってひょろっとしてっから、余計にこの音はエグいて」
「だな、……久し振りにどきどきした」
「俺もときめいて、恋が始まるかと思ったわ」
「俺も、俺の心が少女漫画始めるかと思った」
 冗談を言い合う猪村はけらけらと笑って、だよなあと頷くと、朝のホームルームの為に教室に入ってきた教師に気付いて前を向く。俺はまだはっきりと網膜に焼き付いている青の腕や、振り乱される髪に心臓を押さえた。
 こんなふうに心臓が震えたのは、久し振りだ。
 青は顔が良いし、バンドマンっていうのは、安定的に人気だからと、俺はナメていたのかもしれない――顔が熱い。
「おはようございまーす」
 ばらばらに呟かれるクラスメイトの朝の挨拶を遠くに感じながら、ひりひりする鼓膜に意識を持ってかれる。
 ――あれは狡い。