大賀美くんと初めて会った日のことは、今でも鮮明に思い出せる。
あれは四か月くらい前の――よく晴れた、寒い冬の日だった。
高校に入学した僕は、地元民から愛されているパン屋“幸福本堂”でアルバイトを始めた。今でも続けているバイト先だ。
あの日、店の奥さんが買い出しに言っている間、僕は一人でレジ番をしていた。そこにやってきたお客さんに、突然怒鳴りつけられたんだ。
遠方から仕事の関係でやってきたのだという年配のおじさんは、偶然このパン屋を見つけたらしい。けれど単価が高いと文句を言ってきたんだよね。
「なぁ、俺の言いたいこと、分かるだろ? 今日も朝から仕事で疲れてるんだよ。ちょっとくらいサービスしてくれてもいいんじゃないの?」
「えっと、お仕事が大変なんですね」
「分かってくれるか? じゃあこのパン、三つくらいタダにしてよ」
「申し訳ありませんが、それはできかねます」
「はぁ? それがお客様に対する態度かよ。こっちは遠方から遥々やってきてんだぞ!?」
「……すみません」
あの時の僕は上手く対処できずに、ぺこぺこ頭を下げて謝ることしかできなかった。
「おい、邪魔だ」
そこに現れたのが、眩しい金色の髪をした、僕と同い年くらいの男の子だった。
「――天使?」
「あ? 何か言ったか」
今まで生きてきて、こんなに綺麗な人は見たことがない。
思わず呟いたら、金髪の男の子は怪訝そうな顔をする。だけど僕が何て言ったかまでは聞こえてないみたいだ。……よかった。初対面で天使なんて言ったら、頭のおかしな奴だって思われるかもしれないし。
「あ、いえ! 何でもないです! お客様もお会計ですか?」
「……怒鳴り声が、外まで響いてた」
「え」
出入り口を見れば、スライド式の扉が少し開いたままになっていた。外まで大声が漏れていて、不快な思いにさせてしまったのかもしれない。
謝ろうとすれば、怒鳴っていたお客さんが男の子に絡み始める。
「おい兄ちゃん、割り込んでんじゃねーよ!」
「……何だ。おっさん、買うつもりがあんのかよ。だったらさっさと済ませてくれ。怒鳴るしか能のない暇なおっさんと違って、こっちは忙しいんだ」
男の子の煽るような言葉に、お客さんの顔が真っ赤になる。
「お、お前……ガキのくせして調子にのるなよ!」
逆上したお客さんが、手を振り上げる。
狭い店内で喧嘩なんてされたら大変だ。商品だってめちゃくちゃになってしまうかもしれない。
慌てて止めに入ろうとした。だけど僕の心配は、杞憂に終わった。
「あ? お前が調子にのってんだろうが。さっさと失せろ」
「ひぃっ……!」
男の子が怖い顔で凄めば、動きを止めたお客さんは顔を蒼くさせてのけぞった。片手に持っていたトレーをカウンターに置くと、逃げるように出入り口に向かって行く。
「こ、こんな店、二度とくるか!」
お客さんがいなくなると、店内は一瞬で静かになった。
「あ、あの、ありがとうございました!」
「……別に」
素っ気なくそう言った男の子は、そのまま店を出ていこうとする。僕は慌てて男の子を呼び止めた。お客さんが置いていったトレーから、クリームパンとウィンナーロールをとって紙袋に詰める。
「待ってください! これ、お礼です。僕の奢りなので、良かったら食べてください」
「……ん」
紙袋を受け取った男の子は、短くそう言って、店を出ていった。
それから、僕を助けてくれた男の子――大賀美くんは、時々店にきてくれるようになった。店のパンを気に入ってくれたらしい。
大賀美くんに声をかけたいと思っていたけど、僕は何だか気恥ずかしくて、いつもバックヤードから大賀美くんを眺めていた。いつか声をかけたいと思いながらも、中々勇気を出せないまま、気づけば季節は冬から春へと移り変わっていて。
「――お前があの店で働いてたなんて、全然知らなかった」
「あの時の僕は作業着を着て、白いキャップも目深にかぶっていたし、マスクもつけてたからね。大賀美くんが分からないのも無理はないよ。僕ね、大賀美くんがウチの高校に入学してきた時……運命だって思ったんだ」
ずっと話したいと思っていた相手が、後輩として同じ高校に入学してきた。
大樹にも背中を押された僕は、勇気を振り絞って声をかけたんだ。
はじめは素っ気ない態度に心が折れそうになったけど、それでも、大賀美くんと話せた喜びとか、もっと仲良くなりたいって気持ちが勝っていたから。
「僕、あの時からずっと、大賀美くんのことが忘れられなかったんだ。いつも店の奥から大賀美くんのことを見てたんだよ。……って、ストーカーみたいで気持ち悪いよね! ごめんね!」
うわ、今のはさすがに気持ち悪かったかもしれない。コソコソ陰から見てたとか、不快に思われても仕方ない。
「……コソコソしてないで、さっさと話しかけろよな」
「だ、だって大賀美くん、天使みたいに綺麗で格好いいから、僕なんかが話しかけるのは烏滸がましいかなって思っちゃって……」
「何だよそれ」
僕の言葉に、大賀美くんが小さく笑う。
「……僕ね、大賀美くんが店の外でパンを食べて頬を緩めてる姿が、可愛いなって思ってた。パンを買う時、照れ臭そうにしながらも奥さんにきちんとお礼を言う姿を見て、やっぱり優しい人なんだなって思ったよ。店に遊びにくる猫に優しい顔で笑いかけてる姿を見て、僕にも笑った顔を見せてほしいって思うようになって……気づいたらね、大賀美くんのことが好きになってたんだ」
僕の思いが大賀美くんに届くように。好きって気持ちが伝わりますようにって。
まっすぐに目を見て言葉をつむぐ。
「……ほんっと、馬鹿な奴だよな。俺みたいなのが好きとか」
瞳を揺らしていた大賀美くんは、自分の髪の毛をくしゃりとかきあげた。
話す声が、少し震えているのが分かる。
――大賀美くんは、辛いこととか苦しい感情を、これまで全部、胸の奥に押し込めてきたんじゃないかな。
誰よりも優しい人なのに、傷つけたくないから、遠ざける。本当はすごく愛情深い人だからこそ、自分自身もこれまで、たくさん傷ついてきたんじゃないかなって。そう思うんだ。
「大賀美くんと一緒にいられるなら、僕はずっと馬鹿な奴でいいよ」
「……ほんと、クソ馬鹿野郎だ」
「だからね、これからも大賀美くんのそばにいてもいいかな?」
「……仕方ねぇから、そばにいさせてやる」
大賀美くんに抱きしめられた。その身体も、少しだけ震えている。大丈夫だよって、その背中を優しく撫でれば、抱きしめる力がますます強くなった。
「ちょ、ちょっと苦しいよ、大賀美くん……!」
「……遙」
「え?」
「遙でいい」
小さい声。だけど照れ臭さを含んだその声は、確かに僕の鼓膜をそっと揺らした。
「それじゃあ、遙くんって呼ぶね!」
「……俺も、羊って呼んでいいか」
「っ、うん、もちろん! へへ、嬉しいな」
大賀美くん、じゃなくて……遙くんに、はじめて名前を呼んでもらえた。嬉しくて嬉しくて、今の僕の表情筋は緩々になっていると思う。
抱きしめる腕をほどいた遙くんは、真正面から僕の顔を見て、優しく目を細める。
「羊、すっげー顔してるな」
「えっ。僕、そんなに変な顔してる!?」
「あぁ」
頷いた遙くんの顔が、近づいてくる。
「……クソ可愛い顔してる。その顔、絶対に俺以外の前で見せるんじゃねーぞ」
唇に触れた熱が、ゆっくりと離れていった。
柔らかく微笑むその顔があまりにも綺麗で、格好良すぎて。
「……ひゃい」
僕は情けない声で、そう返事をすることしかできなかった。
「ふはっ、何だよ今の声」
僕の反応に、遙くんが声を上げて笑う。
僕が好きな、向けられたいと思っていた、あの天使のような笑顔で。
――遙くんに対する“好き”の正体が、今、はっきり分かった。
出会ったあの日からずっと、僕は君に、恋をしていたみたいだ。
Fin.



